野村東印度殖産

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野村東印度殖産(のむらひがしいんどしょくさん)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の商社ポンティアナク市に拠点を置き、海軍の指示によるランダク河流域でのダイヤモンドの採取・仲買い事業や、マディ高原での水銀鉱床の調査・採掘事業などを展開した。

ダイヤモンドの採取・仲買いによる集荷量は月平均100-200カラットで採算が合わず、1945年初から現地住民に所有するダイヤモンドを供出させる方針に転換して、同年5月までに約8万カラットを集め、日本の海軍省へ送った。戦後、GHQの指令に基づく日本政府の調査でダイヤモンドの供出が略奪と認定され、1946年にスルタン・ポンティアナクの王冠など多数の宝石類が蘭領東インド政府に返還された。野村東印度殖産の支社長は戦犯裁判の予審で追及を受けたが起訴は免れた。

水銀鉱床では、鉱床の発見から、戦況の悪化を受けて鉱業所を閉鎖する1945年5月までに、原始的な生産方法ながらも純水銀換算で15トンを生産したともいうが、1944年7月頃にはマラリアの流行や交通・運搬手段の欠如のため鉱業所はほとんど休業状態だったともいわれている。

拠点

野村東印度殖産(以下、N社)は、ポンチアナク市内に拠点を置いた[1]

ダイヤモンドの採取

カリマンタン島では、南ボルネオマルタプーラのプレハリー地域や西ボルネオのランダク河流域でダイヤモンドの原石を産出し、戦時中、ダイヤモンドは戦時用物資の中の必需品の1つとされていた[2]

N社は、採取命令を受けて西ボルネオに展開し、ポンティアナクよりランダク河を上流に遡ったところにあるガバンに出張所を設置[3][4]。ランダク河流域の砂鉱床で採取をしていたインドネシア人華人のグループからの仲買いを独占し、また自社で砂鉱床の探査を行って直営採取を行った[2]

当時、既にランダク河流域の含有率の高い漂砂鉱床はほとんど掘り尽くされており、乾季に河底から採取する方法が主体となっていた[5]。軍政当局が買い上げることになり、他に職もなかったため、河底からの採取だけでなく、陸地のピット堀りによる採取もかなり復活したが[5]、採取量は、南ボルネオのマルタプーラ周辺では月平均1千カラット以上の採取・買付があったのに対し、西ボルネオのランダク河流域では乾季で2百数十カラット、雨季で1百カラット前後に過ぎなかった[6]

直営採掘事業

当時、ランダク河の流域でもガバンの周辺では小粒のものが多く、中流のクアラ・ベヘーで採取量が多く、更に上流のスリンボウなどで大粒のダイヤモンドが採取できた[6]

N社の社員はクアラ・ベヘーに寝泊まりしてダイヤモンドの採掘を続け[3][4]、クアラベヘーより上流のブリンビン、スリンボウ、下流のバゴー、シボトなどでも直営・半直営で採掘をしていた[4]

それから2年間、山深いジャングルの中での生活がはじまりました。ダイヤを掘り出すと言っても、2次鉱床地帯のため、地質学よりむしろ河川学を必要とした採鉱法は、まことにお粗末なもので、原始的な鉄の棒を地中につきさし砂礫層に当った感触だけで、その辺一帯を露天掘りするのですから、言葉通りの"宝探し"でした。

ある時は原地人の長老の神秘的な方法で、何とかいう鳥が夜中にとまる木の下を真剣になって掘りおこすと言った、毎日毎日が必死の思いの「宝探し」の日がつづきました。そして4ヵ月位してからようやくにして、米粒程のダイヤの原石1個を採取した時、思わずポロポロ涙をこぼしたことが忘れられません。

当時戦争に勝つために、飛行機の精密機械の研磨用として必要なダイヤ原石を採掘する重要な仕事をになっているのだと、唯々ひたすらに信じ切って、1年半以上も山を降りることなく頑張った、若かった当時の私の行動が走馬灯のように思いおこされます。

山地昭司 野村東印度殖産ポンチアナク支社時代の思い出 [4]

仲買い

グループでインタン探しをしている者からダイヤモンドを買い取った仲買人は、月に1度、買い取ったインタンや装飾品をN社のガバンの事務所に持ち込むことになっていた[3]

  • 仲買人の中でも一番の有力者はランダク土侯一族の「マリシップ」だった[3]

またN社の社員は月に1度ポンティアナクへ出張し、会社指定の仲買人がガバン以外の地区で買い集めたダイヤモンドを買い上げた[7]

買い上げ価格は、1カラットの原石ものが25ギルダー(25円)だった[7]

当時、砂鉱床1m3当りに平均0.4-0.1カラットほどが含まれており、採取・集荷された中で最大のものは29カラット余のものだった。N社はこれを2,400円余で買い付けた[2]

  • 当時の1日の苦力の賃金は1円内外で、そのおよそ7ヶ年分の賃金に相当[2]

都市鉱山

戦争後期になると、日本に輸送できる戦略物資が限られるようになり、ダイヤモンドの集荷を強化するために、1944年12月中旬に、ボルネオ民政部商工課の大津留某がN社直営のパンテックの採取状況を視察し、N社ポンチアナク支店の飛鳥音久支店長らと話し合って、二次鉱床でのインタン探しよりも、住民が所持しているダイヤモンドを供出させる(買い上げる)ことに重点を置くことになった[7]

1945年1月2日に、ナバンで行われたパッサル・マラムのとき、郡長にインドネシアの独立を実現するため日本の戦争遂行に協力するよう演説をしてもらい、翌3日と4日で郡長やスルタン・ランダクの一族などを含む各人から約1,500カラットを買い付けた[8]。N社はダイヤモンドを(市販の価格より安い)仲買い価格で買い取り、程度によっては衣料品を無償で提供した[8]

その後、N社の社員はランダク分県内のクアラ・ベヘー、スリンボウ、ダリットなどでも住民から約1,000カラットを買い付け、更にポンティアナクでも買取りを行い、カプアス河上流域のサンガウスカダウシンタンナンガピノスミタウポトシバウなどを廻り、別に西ボルネオの海岸一帯を廻って、1945年3月末までに全部で3万カラットを超えるダイヤモンドを買い集めた[9]

中には、スルタン・ポンティアナクのダイヤモンドを散りばめた王冠や、スルタン・モンパオ24金の厚さ1cm縦横約25cmの金の板に1カラットの粒を中心に合計39カラットの研磨品のダイヤモンドをはめ込んだ王冠なども含まれていた[5]

1945年4月初旬に、ポンチアナク州の知事室で、スルタンが日本国に、ダイヤモンドをちりばめた王冠や、その他多数のダイヤモンドを「献上」する儀式、が執り行われた[10]。現地人から買い上げたダイヤモンド(かなりの量が入った1箱)は、日本の内地へ飛んだ最後の飛行機に乗せて海軍省へ送られた[11]

1945年5月までにN社が西ボルネオの住民から買い上げたダイヤモンドの量は、約8万カラットに上った[6]

略奪品の返還

1946年中から、GHQ/SCAPが発出した指令により、日本政府は略奪財産の目録と査定金額をGHQに提出し、略奪財産は没収され、同年から略奪元への返還が実施された。1946年8月15日に東京で「ポンティアナクのスルタンのダイヤモンドを散りばめた王冠」が蘭領東インド政府に返還されたほか、同政府に略奪品として宝石類多数が返還された。[12]

  • N社のポンチアナク支店長・飛鳥音久は、戦犯裁判の予審の中で、ダイヤモンドの略奪について追及されたが、戦争の完遂に協力してほしいと呼びかけた結果で(供出を強要したわけではない)、買上げ価格は(別人の手記では仲買い価格だったとされているが)当時の適正価格だった、当時不足していた織布を無償で配った、装飾品の供出者に対して真珠を分与したなど主張し、また供出の様子を見ていた海軍の特別警察隊からダイヤモンドの供出に協力して「もっと出させるようにしようか」との話もあったが断った、と主張して、戦犯訴追を免れた、と回想している[6]。ポンティアナク事件の遺族に研磨品を差し出させたことについては、「人情上買付けも出来ぬ気持」だったので「織布のいくばくかを与え」た、としている(が、買い付けた)[6]

水銀鉱床の調査

1942年の占領当初から、カリマンタン島は水銀鉱床の有望な候補地と考えられており、N社は南部メラツース山地やサンバス、南西部のメランティ山地で鉱床の調査を行い、メランティ山地スケレー地区ではマンガン・水銀鉱床を発見した[13]

カプアス河源流域、マディ高原北西部の「トンガオ谷」と呼ばれた砂金の採鉱地では、砂金にバトゥ・メラ(赤い石)、バトゥ・トンガオ(トンガオ石)と呼ばれる赤から暗赤色の重鉱物が混入することが知られていたが、N社でこれらの石を調べた結果、良質な辰砂、メタ辰砂(硫化水銀)だったことがわかった[13]

そこでN社は日本人1人(平田茂留)と現地人約100人から成る調査隊を組織し、ナンガブノットを前進基地として、1943年5月から約1年にわたり奥地の調査を行い、パチカ、タタラ、プシンドック、テガリン、トンガオ、ロンカイ、ルアイの各水銀鉱床を発見した[14]

日本から搬送した開発資材が全て米国の潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、原始的な採掘・選鉱方法(手掘り、樋流し、腕掛け)による生産だったが、1945年5月に戦況の悪化を受けて鉱業所を閉鎖するまでの1年余の間に、純水銀換算で15トンを生産した(かなりの生産量があった)[14]ともいうが、1944年7月頃、N社のトンガー(トンガオ)における水銀・ボーキサイト等の開発は、病人(マラリヤ患者)が続出し、奥地の交通が不便なため、ほとんど休業状態で[15]、このためN社から軍を通して州知事庁に奥地の道路建設の依頼があり、州知事庁第6課(土木課)の官吏がカプアス河上流のブヤンからトンガーを経由してナガクリバンまでの道路・路線調査をしたともいわれている[16]

その他の事業

ナバンの出張所では、大和ブランデーの原料となる、砂糖椰子の実から作った砂糖や、生ゴムシート、ダマール(樹脂の風種)の集荷も行っていた[7]

付録

脚注

  1. 赤道会 1975 1
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 赤道会 1975 2
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 赤道会 1976 44-45
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 赤道会 1975 80-81
  5. 5.0 5.1 5.2 赤道会 1976 47
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 赤道会 1976 48
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 赤道会 1976 45
  8. 8.0 8.1 赤道会 1976 46
  9. 赤道会 1976 46-47
  10. 赤道会 1975 66
  11. 赤道会 1975 70。「今から考えると相当な金額、一財産だったがどこへいったのだろうか」(同)。
  12. 竹前 2015 155-157,160,182
  13. 13.0 13.1 赤道会 1975 55
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 赤道会 1975 56
  15. 赤道会 1976 27-28
  16. 赤道会 1976 27-30。道路が建設されたのかは、不明。

参考文献

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073