茶道

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茶道(さどう、ちゃどう)とは、様式にのっとって客人にをふるまう行為のこと。元来は「茶湯(ちゃとう)」「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀遠州は「茶の道」という語も使っていたが、やがて江戸時代初期には茶道と呼ばれるようになった(「茶話指月集」「南方録」など)。

ただ、茶をいれて飲むだけでなく、生きていく目的や考え方、宗教、茶道具や茶室に置く美術品など、広い分野にまたがる総合芸術とされる。

現在、茶道は先発の抹茶道と後発の煎茶道があり、単に茶道というと前者を指すことになる。

なお、茶道のという名称は明治時代に改名されたものである。

日本の茶道

茶道の歴史

茶の大元に成っているものは陸羽(? - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の製法、飲み方、歴史などが詳しく書かれており、まさに茶のバイブルと言える書物である。

茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代遣唐使によってもたらされた。当時の茶は現代の烏龍茶に似た半発酵茶で、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。 鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。 室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国茶器唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流と成っていく。

わび茶はその後、町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷細川三斎牧村兵部瀬田掃部古田織部芝山監物高山右近利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州片桐石州織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。

江戸時代初期までの茶の湯人口は、主に大名・豪商などが中心のごく限られたものであったが、江戸中期に町人階級が経済的勃興するとともに飛躍的に増加した。これらの町人階級を主とする新たな茶の湯参入者を迎え入れたのが、元々町方の出自である三千家を中心とする千家系の流派である。この時、大量の門弟をまとめるために、現在では伝統芸能において一般に見られる組織形態:家元制度が確立した。また、表千家七代如心斎裏千家八代又玄斎、如心斎の高弟、江戸千家初代川上不白などによって、大勢の門弟に対処するための新たな稽古方法として、七事式が考案された。これらの努力によって茶の湯は、庄屋、名主や商人などの習い事として日本全国に広く普及していったのである。ただ、同時に茶の湯の大衆化に拍車がかかり、遊芸化が進んでいったという弊害もある。「侘び・寂び」に対する理解も次第に変質し、美しい石灯籠を「完璧すぎる」とわざと打ち欠いたり、割れて接いだ茶碗を珍重するなど、大衆には理解し難い振る舞いもあって、庶民の間で「茶人」が「変人」の隠語となる事態も招いた。

他方でこのような遊芸化の傾向に対して、精神論が強調されるようになる。この際に大徳寺派の臨済宗寺院が大きな役割を果たし、利休流茶道の根本とされる「和敬清寂」という標語もこの過程で生み出された。また幕末には、井伊直弼が「一期一会」の概念を完成させた。各流派による点前の形態や茶会様式の体系化に加えて、こうした精神論の整備によって、現在「茶道」と呼んでいる茶の湯が完成したのである。

江戸末期になると、武家の教養として作法が固まっている抹茶の茶の湯を嫌い、気軽に楽しめる茶を求める声が町衆から出てきた。同時期に、単なる嗜好品と化してしまった煎茶の現状を憂い、煎茶に「道」を求める声があがった。これらの声をくみ上げる形で、江戸時代中期に黄檗宗万福寺の元僧売茶翁(高遊外)が行っていた煎茶の法に従い、改めて煎茶の作法を定めたのが煎茶道である。煎茶道は文人を中心に広まり、確立されていった。煎茶を好んだ著名人として江戸初期の石川丈山、中期に上田秋成、後期には頼山陽の名が挙げられる。

明治時代になると、封建制度が崩壊し、諸藩に庇護されていた各流派が財政的に困難に陥るようになった。そうした中、裏千家十三代円能斎鉄中は一時東京に居を移して茶道再興に努めた。努力の甲斐あって有力財界人の関心を呼び、茶道を女子教育の必須科目として組み込むことに成功した。このため茶道は、本来のわび茶とは別の「女子の教養」としての要素も獲得し、今では美しい着物姿での華やかな茶会が当たり前になっている。戦後は海外にも茶道は広まり、茶道の大衆化は世界的レベルとなっている。

ボストン美術館中国日本部に勤務していた岡倉天心がアメリカで『THE BOOK OF TEA』(邦題:『茶の本』)を1906年(明治39年)に出版紹介した。この出版は欧米文化人の関心を呼び、「茶道」を英語で「tea ceremony」というのも一般的になった。

茶の湯が茶道という名前に変わった。

80年代初め頃には、日本の茶道の所作中国茶(茶芸)に用いられるようになった。 現在の中国茶(茶芸)の「茶巾をたたむ」という所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。

茶道の流派

千利休以前の緒流派

流派と言うべきか定かではないが以下のような呼び習わしがあった。

この時期の創始と伝えられ現存するものには以下がある。

千利休と同時期の創始による流派

多くは武野紹鴎の門人か千利休の直弟子を創始者とするものであり、利休の影響はうけつつも「宗旦流」とは異なる独自の茶風を形成している。今日、武家茶道と呼ばれる流派の多くはここに見ることができる。

  • 利休流 (りきゅうりゅう) 利休の門人、円乗坊宗円の流れ
  • 薮内流 (やぶのうちりゅう) 藪内剣仲 利休の弟弟子
  • 東藪内流(あづまやぶのうちりゅう) 華道宣法未生流と共に伝えられ神奈川・青森などに見られる
  • 三斎流 (さんさいりゅう) 一尾伊織 利休七哲の一人細川三斎の門人
  • 御家流(おいえりゅう) 安藤信友 一尾伊織の門人米津田賢に師事
  • 肥後古流(ひごこりゅう) 熊本藩で伝承され利休の流儀をそのまま伝えていると称される
    • 古市流 (ふるいちりゅう) 古市宗庵 円乗坊宗圓の女婿
    • 小堀流 (こぼりりゅう) 小堀長斎
    • 萱野流 (かやのりゅう) 萱野甚斎 古田織部の甥(現存するか不明)
  • 小笠原家茶道古流

千道安の流れを汲む流派

千家の本家である堺千家(さかいせんけ)は千利休の実子である千道安が継いだが、早期に断絶した。

千宗旦の流れを汲む流派

いわゆる「宗旦流(そうたんりゅう)」であり、三千家の他に、宗旦四天王の系譜である松尾流、庸軒流、宗徧流、普斎流や久田流なども含む。宗旦流は、江戸時代初期に、少庵の子である千宗旦とその弟子達に対して用いられた呼称。侘びに徹することを旨とする傾向が強い。

  • 宗徧流 (そうへんりゅう) 山田宗徧 宗旦四天王
  • 庸軒流(ようけんりゅう) 藤村庸軒 宗旦四天王
    • 庸軒流宗積諦観派
  • 普斎流 (ふさいりゅう) 杉木普斎 宗旦四天王
  • 久田流 (ひさだりゅう) 久田宗栄 表千家の縁戚および分派
  • 堀内流 (ほりのうちりゅう) 堀内仙鶴 表千家六代覚々斎の門人
  • 松尾流 (まつおりゅう) 松尾宗二(楽只斎) 表千家六代覚々斎の門人
  • 三谷流 (みたにりゅう) 三谷宗鎮 表千家六代覚々斎の門人
  • 曲全流(きょくぜんりゅう) 河村曲全 表千家六代覚々斎の門人
  • 江戸千家 (えどせんけ) 川上不白 表千家七代如心斎の門人
    • 表千家不白流 (ふはくりゅう) 川上宗什 川上不白の門人
    • 不白流石塚派 石塚宗通 川上不白の門人
    • 都千家(みやこせんけ) 森山宗江 江戸千家の分派
    • 雅流(みやびりゅう) 水谷宗雅 不白流の分派
    • 江戸千家新柳流
  • 表千家都流
  • 表千家看月庵
  • 速水流 (はやみりゅう) 速水宗達 裏千家八代又玄斎の門人
  • 大日本茶道学会(だいにっぽんちゃどうがっかい) 田中仙樵 裏千家十三代圓能斎の門人・後に石州流の秘伝も得て流儀返上 
  • 宗旦古流(一身田流とも) 円猷上人 真宗高田派本山専修寺にて伝わる

系譜不詳の流派

  • 中宮寺御流(ちゅうぐうじごりゅう) 奈良中宮寺に伝わる
  • 紫野千家(むらさきのせんけ) 尾張徳川の家老家に伝わった今沢流の系譜らしい 現在自衛隊などで習流 また別に同名の流派もあるがどこの流れかは不明
  • 覚花一心流 (こうかいっしんりゅう) 巓崢宗光 千家流と絶縁・別派する
  • 茶道富士庵流
  • 燁々流
  • PL茶道

著名な茶人

著名な茶人については茶人人物一覧を参照。

茶道関連文献

  • 『茶道講義』:明治31年(1898年)に田中仙樵(1875年-1960年)によって大日本茶道学会が創設され、各流派の秘伝開放を主張して発行

中国の茶芸(工夫茶)

中国では、茶の作法を「茶芸」という。今日、日本で行われている中国茶の淹れ方は、福建・広東で発祥した形式である「工夫茶(功夫茶)」である。工夫茶は、もともと烏龍茶の淹れ方であるので他の種類の茶葉には適さないが、現在では中国茶芸の主流となっており、他の茶葉も工夫茶で淹れられる。

中国茶はその種類が非常に多く、茶葉によって淹れ方が異なるため、「最も美味しく茶を淹れる方法」や一種のパフォーマンスとして、中国茶芸は発展した。中国においては、の時代には飲茶の習慣が根付いていたと考えられているが、嗜好品として広まったために、「道」としての茶道はおこらなかった。そのため、中国で単に「茶道」と言う場合は「日本の茶道」をさす。

朝鮮の茶礼

朝鮮では芸道的な茶道ではなく、儀式としての「茶禮」(タレ)に重点が置かれていた。

記事「茶」の項目、歴史→朝鮮半島参照

茶道に関係する音楽作品

  • 『宇治巡り』(地歌箏曲)
    文化文政の頃、京都で活躍した盲人音楽家、松浦検校が作曲した手事 (てごと) もの地歌曲。箏の手付は八重崎検校。「喜撰」「雁が音」など、多数の茶の銘を詠み込み四季の順に配列しつつ、春夏秋冬の茶の名産地宇治を巡り歩くという風流な趣向の曲。大曲で二箇所の手事 (楽器だけで奏される器楽間奏部) も音楽的に凝ったもので、転調も頻繁に現れ、技術的にもなかなか難しい曲。「松浦の四つ物 (四大名曲) 」のひとつとされている。
  • 『茶音頭』 (地歌・箏曲)
    文化文政時代、京都で活躍した盲人音楽家、菊岡検校が作曲、八重崎検校が箏の手付をした手事もの地歌曲。「茶の湯音頭」と呼ぶ流派もある。「音頭」は本来雅楽用語であり、のち近世邦楽全般において広く使われ、この曲も民謡とは関係ないので注意が必要。俳人横井也有の「女手前」から抜粋した歌詞で、多数の茶道具を詠み込みつつ男女の仲がいつまでも続くよう願った内容。三味線調弦が「六下がり」という非常に特殊なもので、独特な響きがこの曲独自の雰囲気を作り出しており、歌の節も凝っている一方で手事が長く、八重崎検校の箏手付も巧みで合奏音楽としてもよくできているので、現代でも演奏会でよく取り上げられる曲である。お手前の伴奏として演奏されることもある。

関連項目

外部リンク