第一モールメン・タキン事件

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第一モールメン・タキン事件(だいいちモールメン・タキンじけん)は、1945年7月24日頃、ビルマ南東部モールメンの郊外で、日本軍のビルマ憲兵隊モールメン分隊が、タキン党の政治家など現地人の有力者26人を殺害した事件。1947年にイギリス軍ラングーン裁判で憲兵隊長ら18人が絞首刑以下の判決を受けた。

背景

1944年3月以降のインパール作戦により、日本軍のビルマ方面軍はインパール(Imphal)の北東にあるコヒマ(Kohima)を占領したが、英印軍の反撃に遭って総退却し、その後はイラワジ河(Irrawaddy River)・マンダレー(Mandalay) - ラシオ(Lashio)の防衛線を維持しようとした[1]

しかしビルマ方面軍はイラワジ会戦でも敗北し、英軍がビンマナ(Pyinmana)を突破し、トングー(Taungoo)に進出すると、日本軍は総崩れとなった。1945年3月27日、それまで日本軍と共同して英印軍と戦っていたビルマ軍が日本軍を攻撃、日本軍は同年5月にラングーンから撤退し、ビルマにおける支配地域はテナセリューム地区(Tanintharyi Region)に限られた。[1]

日本軍の占領地域でも、日本人が住民のゲリラによって殺害される事件が頻発するようになり、ビルマ方面軍司令官は対策として反乱軍・ゲリラの撃滅、反日勢力の摘発や、反日団体の中心人物の抹殺を指示した[2]

事件

1945年6月初から同年7月中旬にかけて、方面軍司令を受けて、ビルマ憲兵隊モールメン分隊(分隊長・東登憲兵大尉)は、反日活動をした疑いがあるとしてビルマ人約80人を逮捕し、モールメン刑務所[map 1]に収監した[3]

憲兵隊は、容疑者を取り調べ、このうち、容疑がないか、事案が軽微であるとした54人を釈放し、残る26人の処分について、モールメン分隊本部(分隊長・粕谷武世憲兵中佐)ビルマ憲兵隊司令部(司令官・久米真多男憲兵大佐)を通じ、ビルマ方面軍司令部に指示を仰いだ。同司令部は、全員の処刑を命令し、憲兵司令官から憲兵隊長を経て東分隊長に命令が伝えられた[3][4][5]

1945年7月25日、ビルマ憲兵隊モールメン分隊の東登憲兵大尉以下17-18人は、ビルマ人26人をトラックに乗せてモールメン(Mawlamyine)郊外のチャイマロの山中(場所未詳)に連行し、日本刀で全員を斬首、殺害し、遺体をその場に埋めた[6][3]

殺害されたビルマ人26人の職業は、弁護士が1人、警察本部長が1人、警察署長が2人、タキン党の県支部長が1人、僧侶2人、その他は町長または村長だった[1]

裁判

起訴

1945年8月15日の終戦後、ビルマ方面軍は英軍に降伏して武装解除され、憲兵隊員は全員が戦犯容疑者として刑務所に収監された[3]

英軍の調査官は、現地のビルマ人約80人が逮捕され、うち26人が終戦後も行方不明となっているとの情報を得て、事件について憲兵隊員を取り調べたが、自白は得られず、殺害の確証は得られなかった[3]

1947年3月に、英軍の調査官・ダスチュゲス少佐は、日本軍の田島少佐に刑務所に収監中の元同僚や部下から事情を聴取させ[7]、ダスチュゲス少佐や田島少佐の説得を受けた複数の憲兵隊員が殺害を自供し、自白に基づいてチャイマロの山中から26人の遺体が掘り起こされ、検証調書が作成された[8]

英軍は、裁判を経ずに現地住民を殺害したことが戦争法規・慣習に反するとして、ビルマ・ラングーンの高等法院に久米司令官、粕谷分隊長・東憲兵大尉以下18名を起訴した[9]

公判

1947年8月11日から、ラングーン高等裁判所の大法廷で裁判が行われた[10]

殺害されたビルマ人の遺族が検察側証人として出廷し、家族が戦時中、日本の憲兵に連行され、終戦後も帰ってこないと証言した[10]。検察側は検証調書と被告人の供述調書を提出し、取調べを請求した[10]

憲兵隊員の自供に基づいて詳細な調書が作成され、殺害現場が特定され、遺体が発掘されていたため、弁護側は、起訴事実を否定できなかった[11][12]

弁護側は、

  • ビルマ方面軍司令官からゲリラ活動に対する厳重処罰の治安命令が布告されており、また日本軍の軍人が反乱軍や住民ゲリラによって殺害される事件が起きていたこと。
  • 殺害された26人について、戦時に武器・弾薬を秘匿している証拠をつかみ、「戦時反逆罪」にあたるゲリラだと確認してから処刑していたため、戦争法規・慣習に照らして処刑に違法性はないこと。
  • 1945年6-8月にかけて、英軍による爆撃が行われている状況で、日本軍には軍律会議を行う余裕がなかったこと。
  • 処刑の命令はビルマ方面軍司令部の参謀長・四手井綱正中将[13]から出されており、久米司令官と粕谷隊長は、26人の釈放を上申したが却下されており、命令を伝達しただけだったこと。
  • 一部被告人の供述調書作成にあたり、調査官が被告人を脅迫したり、誘引したりしたため自供に任意性がなく証拠とすべきでないこと。

を主張した[14][11][12]

このうち、一部供述調書における自供の任意性については、調査にあたった英軍の通訳が証人として出廷し、弁護側の主張を否定した[15]

検察側は、公訴事実は証拠から明らかで、被害者26人は軍事裁判を受けずに被告人等に殺害されており、処刑は秘密裏に行われているため、戦時復仇の主張は認められないと主張した[16][17]

最終陳述で、久米憲兵隊司令官は、処刑は自分が命令したことで部下には責任がない、と陳述した。処刑の直接の責任者であった東憲兵大尉と中山憲兵少尉は、自身に責任があり上官には寛大にしてほしいと陳述した。また久米司令官については、英印軍およびビルマの民間人の証人が、別件での取調べの適切さや、当時の戦況からして裁判を行うことが困難であったことなどを証言した[18][19]

判決と確認

1947年9月4日に判決が言い渡され、久米司令官は禁錮15年、粕谷分隊長は禁錮12年の宣告を受けた。処刑を実行した東憲兵大尉以下10人は絞首刑を宣告された。ほかに処刑者をトラックで運んだ兵長が禁錮5年となり、それを手伝った5人の軍曹・曹長も有罪となり、それぞれ有期刑を宣告された。[4][20][21]

1週間後の同月11日に弁護側は減刑嘆願書を提出した。翌10月30日の確認結果では、絞首刑の判決を受けた10人のうち、東憲兵大尉と中山憲兵少尉の2人の刑は判決どおりとされ、他の8人は比較的階級が低く、将校の監督下で行動していたことが考慮され、禁錮10年に減刑された。有期刑の判決を受けていた被告人は、処刑者をトラックで運んだ兵長が無罪となり、他は原審どおり判決が確定した。[22][20][23]

絞首刑が確定した2人は間もなくラングーンで処刑された。禁固刑を受けた受刑者は、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効した後に釈放された。[24]

付録

地図

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 外山 1956 227
  2. 外山 1956 227-228
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 外山 1956 228
  4. 4.0 4.1 林 1998 117
  5. 岩川 (1995 215-216)は、ゲリラ容疑者の殺害にあたり、東憲兵大尉は、たまたま現場近くにあったビルマ方面軍司令部にゲリラ容疑者の逮捕を報告し、ビルマ憲兵隊司令部、同モールメン分隊本部を経由せずに命令を受けた、としている。
  6. 岩川 1995 213-215
  7. 外山 (1956 228)は、田島少佐は当時、麻薬の中毒患者で、モルヒネ欲しさに英軍調査官のスパイとなり、刑務所に収監中の元同僚や部下から事情を聴いて内容を密告した、としている。
  8. 外山 1956 229
  9. 岩川 1995 213-214
  10. 10.0 10.1 10.2 外山 1956 230
  11. 11.0 11.1 林 1998 118
  12. 12.0 12.1 岩川 1995 216-217
  13. 敗戦直後に飛行機事故で死亡していた(林 1998 118)。
  14. 外山 1956 229-232
  15. 外山 1956 231
  16. 外山 1956 233
  17. 岩川 (1995 217)は、検察側は戦時復仇の主張に反論しなかった、としている。
  18. 外山 1956 233-234
  19. 岩川 1995 218-219
  20. 20.0 20.1 岩川 1995 219
  21. 外山 1956 234
  22. 林 1998 117-118
  23. 外山 1956 234-236
  24. 外山 1956 236

参考文献

  • 林 (1998) 林博史『裁かれた戦争犯罪 - イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、ISBN 4000009001
  • 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
  • 外山 (1956) 外山林一「ビルマ戦犯裁判の回顧」(1956年法務省報告資料)茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 上』不二出版、1988年、JPNO 88052724、226-236頁