石堂次三郎
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石堂 次三郎(いしどう じざぶろう?、生年不詳 - 没年不詳)は、石川県の政治家[1]。
経歴
明治20年代に郡会議員、その後、大正初期まで県会議員に出馬した[1]。民党と吏党が衝突したとき、土蔵から日本刀を持ち出して栗生橋にかけつけたことがあった[1]。
政友会に所属し、国民党の田川大吉郎や蔵原惟郭が石川県に政談演説に来たときには、公会堂や芝居小屋などの集会場所を借り切ったため、田川や蔵原は野外で集会をした[2]。
政治運動のために山林田畑をほとんど手放し、選挙違反で3度ほど収監された[1]。実家が小松にあり、金沢の県会に出席する途中に松任にあった弟(石堂清倫の父)の家によく1泊していた[1]。
備後の磯崎珉亀を訪問して蘭の種子を持ち帰り能美郡一帯で普及をはかったり、中国から山東白菜の種子を仕入れたり、景徳鎮の焼き物を大量に買って来たりしたことがあった[2]。南中国やインドネシアを訪問したこともあった[2]。
晩年、永井柳太郞を金沢へ連れてきて擁立し、衆議院に当選させた[3]。家は零落し、石堂の借財の一部は、月給取りだった弟3人が毎月5円ずつ10数年かけて返済した[4]。
家族
- 早くに妻を失い、その後、小松の芸者屋の家付きの娘と同棲して、子供を2人もうけた[2]。
- 石堂家の嫡家は、明治以前、屋敷の前の椎の木の巨木の根元に小さな祠があったため、ドノメ(堂前)という屋号で呼ばれていた[5]。
- 二男の石堂守治は金沢医専を卒業して尾小屋鉱山の医師になった[6]。
- 共産主義者の石堂清倫は甥(弟の子)[1]。
評価
- 石堂 (1986 8-9)は、石堂は殖産興業を志したが、本人の利益にはならず、晩年は完全に零落した、と評している。
付録
脚注
参考文献
- 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749