松平清康
松平 清康(まつだいら きよやす) は、戦国時代の武将である。通称は二郎三郎[1]。また世良田姓を称す。初名は清孝。三河松平氏の第7代当主。第6代当主松平信忠の子で、松平広忠の父、徳川家康の祖父。前妻は松平昌安の娘。後妻は青木貞景の娘、華陽院。三河国安祥城城主のち岡崎城に移る。娘は碓井姫(松平政忠室のち酒井忠次室)、吉良義安室(香樹院)。養女はお久(松平信忠女、松平乗勝室のち鈴木滋直室)、瀬戸之大房(松平信忠女、吉良持広室)
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経歴
安城松平家は、清康の代で岡崎に居城を移し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め、西三河の地盤を固める。
大永3年(1523年)に一門衆が信忠を隠居させて、清康に家督を継承させる。大永6年(1526年)(または大永4年(1524年))、清康は山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の新岡崎城に移転。足助城の鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。このころ、清和源氏のひとつ、新田氏一門である得川氏の庶流・世良田姓を称し、世良田次郎三郎と称したという。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓をおこなうことにもつながっているという。この経緯については世良田氏の項も参照。
清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指し勢力を広げる。
享禄2年(1529年)、尾島城(小島城;西尾市所在)を攻め取る。享禄3年(1530年)、尾張にも出兵、岩崎郷(日進市岩崎)・品野郷(瀬戸市品野町)を奪う。その一方、東三河にも進出して牧野氏の今橋城(後の吉田城)を攻め落とした。清康は更に吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡の山家三方衆の菅沼氏一族と奥平氏、宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。ただし、三河の東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだため、これを包囲し、11月4日に攻め落とした[2]。ここに三河国統一を成し遂げている。ただし、一説によれば宇利城攻め以後、叔父・内膳信定との不仲を悪化させたとも言われる。
その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦での出来事。大手門を攻める叔父・松平親盛(左京亮)を失った際に、支援の遅れた信定を清康が罵倒したという。清康自身は、その場限りの叱責であったのだろうが、言われた信定にしてみれば、遺恨を抱き続け、宗家簒奪の機を窺う決意を固めたものと考えられている。
三河統一の勢いに乗った清康は、余勢をかって尾張に進軍。天文4年(1535年12月)、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部弥七郎正豊に斬られて殺された。これを「森山崩れ」という。弥七郎がこの際に使ったのが千子村正と伝えられる[3]。享年25。
墓所は岡崎市鴨田町広元5-1の大樹寺。法名、善徳院殿年叟道甫大居士。
人物評価
「常山紀談」には、「善徳公(御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す)士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」とあり、「三河物語」にも清康について、小柄だが小鷹に優る目つきをもつ勇姿を伝え、かつまた身分の差無く慈悲深いので家臣の信頼を得た様子が記されている。
家督相続からの10年余だけで遺した突出した事績を鑑みても松平氏歴代の中で傑出した存在であったが、清康の予期せぬ死により求心力を失った松平氏は苦難の道を辿ることになった。
三河物語では、松平清康が、熊谷が城へ押し寄せた際に、四方鉄砲を打ち込むと記載されている。享禄三年(1530)のこととされる。鉄砲記の記述とは矛盾するが、この時、すでに鉄砲を装備していたという、伊賀忍者の服部半蔵保長も松平清康の時代に仕えていることから、火薬・鉄砲の取り扱いに慣れていた伊賀衆からもたらされた可能性もある。また、この時、西三河の人数8千を動員しており、石高の低い三河国で圧倒的な戦力を保有していたことが伺える。
三葉葵家紋の由来
『新編柳営続秘鑑』十二巻(「葵之御紋来由」)によると、松平信光の時代に、安祥城攻めの際に、酒井氏に三葵の葉の家紋を与えたというが、松平長親の時代に、三河に侵攻してきた今川軍の北条早雲に勝利した暁に、酒井氏から返却してもらい、松平家の家紋としたという。この時、酒井氏は、酸漿(カタバミ=酢漿)の家紋となったという。
松平郷のある西三河の賀茂郡は、賀茂神社の神領で、松平氏が賀茂神社の氏子であったことから、もともと葵紋であったともいう。
ただし、「藩翰譜」(新井白石著;各大名家の家系図と事跡を記したもの)では、松平清康の吉田城攻めの際に、伊奈城主の本多正忠の立葵の家紋をもらったという。柳営秘鑑の記述と大きく矛盾する。藩翰譜は、各大名家の自己申告であるため、尾張中村の農民出身であるはずの加藤清正が、藤原氏の家系になっているなど問題が多く、通説と大きく矛盾する。