朱然

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朱 然(しゅ ぜん、182年 - 249年)は、中国後漢末期から三国時代武将義封(ぎほう)[1]朱治養子[1]。子に朱績

生涯

丹陽の出身。孫堅の時代から孫氏に仕える譜代の重臣である朱治の姉の子で、元の姓は(し)という[1]。13歳の時に朱治の養子となり、孫権と同年齢であったため共に勉学に励み、両者の間には主従関係を超えた厚い恩義関係が生まれた[1]

19歳の時、余姚県の長となる[1]。ここにおける地方行政で辣腕を奮い、孫権から高く評価された[1]。そのため孫権が新設した臨川郡の長に任命されると兵が2000人授けられ、孫氏に不服従である山越族の平定に当たることになる[1]。軍事能力にも秀でていた朱然は1ヶ月で鎮圧した[1]。また曹操との戦いにも従軍した[1]219年関羽を征伐する際には呂蒙に従うが、自身は別動隊を率いて臨沮(現在の湖北省遠安)において関羽捕縛に大功を立てた[1]。関羽処刑後、呂蒙も重病で危篤となったため、孫権は呂蒙に後任の総司令官を誰にするべきかを尋ねた[2]。呂蒙は朱然の名を出し、決断力や実行力でも優れていると述べた[2]。そのため呂蒙の死後、朱然は孫権から仮節を与えられて江陵(現在の湖北省江陵)に進軍し、守りに当たるように命じられている[2]

222年夷陵の戦いでは5000の兵士を率いて劉備率いる蜀軍の東上を食い止めた[2]。朱然は孫権軍の別動隊として蜀軍の先鋒隊を壊滅させてその退路を断ったので、劉備は踏みとどまることができなかった[2]。この功績で征北将軍と永安侯に封じられた[2]

224年文帝の命令で曹真夏侯尚張郃らが江陵に攻めて来た[2]。孫権は朱然の援軍として孫盛に1万の軍勢を与えたが、名将・張郃は長江の中州に陣取った孫盛軍を破って朱然と江陵を孤立させた[2]。このため孫権は潘璋を新たな援軍として派遣したが、魏軍の江陵包囲網は崩れなかった[2]。しかも江陵城内で疫病が発生し、江陵城で戦える兵力は5000人にまで減少した[2]。曹真は土山を築いて地下道を掘り、江陵を攻め立てたため城内は大混乱したが、朱然は少しも恐れずに全軍を指揮して逆襲し、魏軍の2つの陣地を攻め破った[2][3]。朱然の抗戦で江陵をめぐる攻防戦は半年に及んだが、その間に魏に内応しようとした県令姚泰を未然に斬り、意気盛んな所を示したため魏軍は攻めあぐねて遂に撤退した[3]。この攻防戦で朱然の名は魏にも鳴り響くことになった[3]

以後も孫権配下の名将として各地に転戦して勇名を轟かせる[3]245年陸遜が死去すると呉の人材の中で名将と言えるだけの経験を持つのは朱然だけとなり、そのため朱然に対する厚い礼遇は他に及ぶ者がなかった[3]247年から病気に倒れ、それから2年間も床についた[3]。そしていよいよ危篤になると孫権は昼は朱然のことを心配して食事を減らし、夜は寝ることもできず宮廷からの使者と医薬を届ける者が行列をなすほどだった[3]。249年に68歳で死去した[3]

人物像

朱然は小柄だったが、からっとした性格で私生活は身を修めて清潔だった[3]。飾りも軍器にだけは施すが、それ以外は皆質素な用具を用いた[3]。終日謹んで職務に励み、いつも陣頭に立って臨急の場面でも心を動揺させることのない点は誰にも真似の出来ぬことだったという[3]。世の中が平穏である時も朝夕ごとに非常招集の太鼓を鳴らし、軍営の兵士たちは皆装備を付けて整列した[3]。このようにして敵を惑わし、出兵の準備をしているのかどうかをわからなくした[3]。このため行動を起こすごとに手柄を立てたという[3]

このように史実における朱然は清廉で優れた名将なのだが、後世に英雄かつ神格化された関羽を討つ殊勲者のひとりになってしまったためか、その評価は芳しくない。陳寿は関羽を生け捕った殊勲者である朱然の功績を「臨沮まで進軍して関羽を虜にした」と述べるだけであり、裴松之に至っては註すら一言も付けていない[2]。ただ両者が朱然を批判するような論評もしていないため、批判できるような材料が無い非の打ちどころの無い名将だったとも言える。小説『三国志演義』では関羽を討った殊勲者として夷陵の戦いで劉備軍の怒涛の侵略の前に大敗を喫し、最後は陸遜の命令で敗走する劉備を追撃するが援軍に来た趙雲のために討たれてしまうという設定にされるなど、史実より27年も前に戦死させるなど貶められている。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 伴野朗『英傑たちの三国志』、P152
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 伴野朗『英傑たちの三国志』、P153
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 伴野朗『英傑たちの三国志』、P154

参考文献