娘子軍

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娘子軍(拼音:niang2zi3jun1、じょうしぐん)とは、明治期、日本から中国大陸東南アジアへ渡り、現地で売春を生業としていた女性たちやその関係者の呼称ないし美称。

ロシア租借地の場合

在留人口

日露戦争開戦前の1903年(明治36)12月頃、旅順の在留日本人の人口は約700人で、開戦を予期して女性や子供が帰国した後、開戦直前の1904年(明治37)1月には370-380人になっていた。同じ頃、大連の日本人の居住人口は300人ほどだった。[1]

この頃、在留日本人の職業で最も多かったのは、いわゆる娘子軍で、旅順に約100人、大連に70-80人が在留していた。娘子軍に「喰付いて」いた男性を含めると、在留民の半分ほどが娘子軍(の関係者)だった。同じ頃、芝罘では、在留人口の約7割が娘子軍(の関係者)だった。[1]

それ以外の在留日本人の職業では、雑貨店が比較的多く、旅順に10軒、大連に4-5軒あった。その他に、大工左官などの小規模な請負業者や、工事の関係者が多かった。また散髪屋(理髪店)や洗濯屋写真屋なども営んでいた。[1]

諜報活動

ロシア人を相手にして請負業をしていた在留日本人の中には、日本の陸・海軍と連絡を取りながら、土運搬をする苦力の中に潜入して軍事探偵をしていた人もいた[2]

この頃、内密にロシア租借地を訪れた日本の軍人が娘子軍(売春婦)の女性に接近することも多く、彼女たちは日本の軍人による情報収集や視察のために特別の便宜をはかった。彼女たちを通じて日本の軍事活動の機密が漏れるようなことは、まずなかったという。[3]

問題視

日露戦争後も在留日本人の中に娘子軍の女性は少なくなかったようで、中国人の妾になってホテルの経営をしていた人物など著名な人もいた。1928年頃には、風紀や日本人の評判などの観点から娘子軍の活動を問題視する向きもあった。[4]

付録

脚注

参考文献

  • 満州昔話の会 (1928) 丘襄二、川上賢三、近藤寛次郎、太田信三、土井三郎、村井隆治、松村久兵衛、貝瀬謹吾、柳本尚次郎、松山珵三、今井行平、千村春次、栗木栄太郎、荒木伊平(述)「満州昔話の会記事(第1回)露治時代から佐渡丸遭難まで」満蒙社『満蒙』v.9 n.12、1928年10月、pp.82-96、NDLJP 3564684/50 (閉)