在日本朝鮮人連盟
在日本朝鮮人連盟(ざいにほんちょうせんじんれんめい)は、1945年(昭和20年)10月15日に結成され、1949年(昭和24年)9月8日に解散させられた日本在住の朝鮮人によって組織された団体。略称は「朝連(ちょうれん、チョリョン)」。「共和国に直結しよう」をスローガンに掲げていた。
概要
1945年(昭和20年)10月15日、日比谷公会堂で、在日本朝鮮人連盟が結成された。全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。金天海が、最高顧問に就いた。韓徳銖(後の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)議長)は神奈川県本部委員長に就任した。東京駅八重洲口に在日本朝鮮人聯盟中央本部(朝聯会館)が設置された。
日本共産党の尖兵として、武生事件では裁判所や検察庁を焼き討ちをするなど、終戦後の混乱が続く日本国内各地で暴行・略奪・窃盗・官公署への横暴な態度と不当な要求・建築物の不法占拠・汽車、電車、バスなどの不法乗車・人民裁判などを引き起こした。
南朝鮮単独の選挙を非難する一方で朝鮮民主主義人民共和国建国を支持し、建国時には祝賀事業を行った。1948年(昭和23年)12月23日には北朝鮮に派遣された慶祝団は金日成主席との会見を実現させている。
しかし、1945年(昭和20年)9月30日にはGHQが「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を発表しており、1949年(昭和24年)9月8日にはGHQにより団体等規正令の「暴力主義的団体」として解散を命じられ、その資産は没収されることになった。
その後は、後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に在日本朝鮮人総聯合会へと発展していった。