国崎定洞

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国崎 定洞(くにさき ていどう)は、東京帝国大学医学部の助教授、日本の共産主義[1]

経歴

大学卒業のときに恩賜の銀時計をもらい、英才だと言われていた。次第にマルクス主義に接近。目白時代の新人会に顔を出していた。[1]

筆名・和田哲二で『左翼小児病』ともう1冊(『国家と革命』?)を訳出した後、それを希望閣に預けてドイツへ留学した。留学中にベルリンの日本人共産主義者の間でリーダー的な存在となり、モスクワにいた片山潜と連絡を取っていた。[1]

ヒトラーの政権掌握後、フリーダ夫人、一子タツコととともにソ連に入り、満州事変以後の極東政局の分析や日本への共産主義文献の送付につとめていたが、スターリンによって粛清された[1]

著書

  • 1926年 ニコライ・レーニン(著)和田哲二(訳)『左翼小児病』希望閣、NDLJP 987350
  • 1930年 N.Lenin(著)――(訳)『資本主義の最高段階としての帝国主義』希望閣、NDLJP 1262167 (閉)

付録

関連文献

  • 川上武・上林茂暢(編著)『国崎定洞 抵抗の医学者』勁草書房、1970年、JPNO 73006014
  • 川上武『流離の革命家 国崎定洞の生涯』1976年、JPNO 73012813
  • 国崎定洞(著)川上武・加藤哲郎・松井坦(編著)『社会衛生学から革命へ 国崎定洞の手紙と論文』勁草書房,1977年、JPNO 77016431
  • 加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人 30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』青木書店、1994年、ISBN 4250940160
  • 川上武・加藤哲郎『人間国崎定洞』勁草書房、1995年、ISBN 432675043X

脚注

参考文献

  • 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749