呂範
呂 範(りょ はん、? - 228年)は、中国の後漢末期から三国時代の呉の武将・政治家。字は子衡(しこう)[1]。妻は劉氏[1]。子に呂拠。
生涯
孫策の時代
豫州汝南郡細陽(現在の安徽省太和県)の出身[1]。若い頃に県の役人となる[1]。押し出しが立派で風采も上がっていた[1]。郷里の街で劉氏の娘を見初めて結婚を申し出た[1]。娘の母親は呂範が貧乏じみていたので断ろうとしたが、父親は呂範を見て「ずっと貧しいままで終わるような人物ではない」と見て娘との結婚を許した[1][2]。
孫策が袁術の部下だった頃に呂範はその家臣となる[2]。孫策は呂範を身内として厚遇し、常に奥座敷へ通して母親のいる席で酒食を振る舞うのが常だった[2]。孫策が袁術から独立するため江南平定に従事した際、その平定で功を立てた[2]。
『江表伝』によると、江南平定がなった際に呂範は孫策と碁を打っていた。その時に呂範が「今将軍様はお仕事をぐんぐん広げられ、軍勢も日々に盛大になっていますが、私は地方にあって御政道の大綱になお整っておらぬところがあるとの風聞を耳にいたしました。どうか私にしばらく督郵(各州の軍事と刺史の官を統括する役目)の仕事をお任せくださり、将軍様にご助力して事の処理に当たらせてくださいますように」と進言した。孫策は驚いた。自分の下にあって多くの功績を立てて今や片腕も同然の呂範が督郵になるということは降格も同然であるためで、孫策はそんなことは他人にさせたらいいと述べた。すると呂範は「私が故郷を捨てて将軍様に身を寄せたのは、妻子達の幸福を求めてのことではありません。現在の世の急務に対してなすことあらんと志す者たちは、ちょうど一つの船で大海を渡らんとしているようなものであって、もし一点でも弱いところがあれば、もろともに沈没の憂き目を見るのでございます。私が督郵の任に当たろうといたしますのは、私自身の将来を考えての計でもあって、将軍様のお為だけを考えたものではございません」と反論し、孫策は笑って督郵に任じた。呂範は退出すると礼服を脱ぎ換え、乗馬服を着けると鞭を手に持ち、宮門の所に来て言上し、自ら督郵の任を預かっていると称した。孫策はそこで割符を呂範に授けて、諸事の処理を全て任せた。これ以後、軍の部門は引き締まって心を一つにし、威令と禁令がよく行なわれた。
孫権の時代
200年、孫策が死去すると跡を継いだ孫権に仕えた。呂範は孫権が若い頃、孫策の命令で孫氏の会計を預かった[3]。孫権は密かに呂範の下へやって来て金をせびった[3]。しかし呂範は厳しく対応し、主君の実弟だからといって甘い顔を見せず必ず孫策に言上して許しを求め、自分勝手には決して甘い顔を見せなかった[3]。このため、呂範は孫権の怨みを買っていた[3]。孫権が陽羨(現在の江蘇省宜興)の県長だった時、公金をたまに私的に使っていた[3]。そのため孫策が会計監査を呂範に命じ、功曹の周谷が孫権のために帳簿を書き加えて問責を免れるように取り計らっていた[3]。孫権はこの時は周谷の措置を喜んだが、孫権が君主になると呂範は忠実な人物であるとして厚い信任を受け、逆に周谷は帳簿を勝手に改竄する人物であるとして任用しなかったという[3][4]。208年、赤壁の戦いでは周瑜と共に戦って軍功を立て、孫策・孫権2代に仕える呉の重鎮となる[3]。
228年、孫権より大司馬に任命されたが、その印綬が下賜されないうちに病死した[4]。孫権は喪服を着けて親しく哭礼を行なった上で、使者を遺族の下に遣わして印綬を追贈したという[4]。