冉魏
冉魏(せんぎ)は、五胡十六国時代前期の350年閏2月から352年8月まで存在した漢族による王朝。建国者は冉閔。首都は鄴[1]。国名は単に魏であるが、曹操による魏や鮮卑族の道武帝が建国した北魏、翟遼の建国した翟魏と区別するため、歴史用語的に冉魏と称される。
歴史
建国まで
冉魏は華北で乱立する異民族王朝の中では珍しい漢族による王朝である。建国者である冉閔の実父である冉良は幼い頃に乞活集団に加わり、石勒に捕縛されて名を石瞻と改め、石虎の養子となった[2]。その息子である冉閔はつまり石虎の養子の孫(養孫)であり、名も最初は石閔であった[2]。石閔は338年から後趙の将軍として重きをなした[2]。349年4月に石虎が死去して後趙が石氏の皇族により内紛状態になると、石閔は李農と手を結び、さらに自分を皇太子に立てることを条件に349年5月に石遵を擁立し、自らは都督中外諸軍事・輔国大将軍として軍権を掌握した[2][3]。ところが皇太子に立てられる話は反故にされた上、石遵は石閔の傀儡であることを嫌ってその排除を計画したため、349年11月に石遵を殺害し、後継に石鑑を立ててその下で石閔は大将軍に、李農は大司馬になって実権を掌握した[3]。しかし石鑑も石閔らの傀儡になることを嫌って12月に夜襲をかけて排除しようとした[3]。これは失敗したものの、これを契機にして襄国にいた石祗や鄴にいた石成、石啓ら石氏一族により、反石閔・李農の挙兵が相次いだ[3]。石閔と李農は石氏一族の相次ぐ反発を見て五胡の離反を恐れ、12月に鄴で五胡20万人の虐殺を決行した[3]。この時の虐殺で生き残った異民族らは殺害を恐れて本土に戻ろうとしたが、無理な帰還を強行したために道中で飢えや病気で死ぬ者が相次いで本土に帰還した者は3割程度にまで減少したとされ、漢族にも大いに被害が出たという(『晋書』石季龍載記下)。この虐殺に乗じて石閔・李農らは石鑑を殺害し、さらに石虎の孫38名を殺害するなど、石氏一族も大量に虐殺した[3]。この石氏虐殺後、石閔は鄴で皇位に即位し、国号を大魏とした。この時に石閔は姓を石から元の冉に戻した[3]。これが冉魏の建国である。
わずか2年半の王朝
冉閔は建国直後から失敗をやらかした。まず、自らの片腕であった李農を些細な対立から殺害した[3]。また五胡の大量虐殺は五胡を冉魏から離反させることになり、それはつまり当時は大量の異民族により成立していた華北で絶対に必要であった五胡の支持を得ることができなくなったことを意味していた[3]。冉閔は後趙に協力していた漢人の支持は得たもののそれだけでは到底地盤を固めるには足らなかった[3]。そのため東晋の支援を得ることで挽回を図ろうとしたが、冉閔は自らの王朝の正当性を強調したため同じ漢人王朝である東晋にすればそれを支援すれば自分たちの正当性を否定することになるため、冉魏は東晋の支援を得ることはできなかった[4]。冉閔は息子の冉胤を大単于に任命してわずかに降った異民族1000人を配属させて五胡との融和を図ったがこれも失敗し、その結果冉魏は鄴周辺を支配するだけの小王朝に留まった[4]。
石鑑の死後、後趙は石氏一族の生き残りである石祗が跡を継いで襄国で皇帝となった。石祗は351年4月に部下の劉顕により殺害され、冉閔はそれに乗じて襄国を支配した劉顕を5月に滅ぼした[4]。こうして後趙は滅亡したが、この内紛で遼東から南下してきた前燕の侵攻、8月には河南方面の冉魏の刺史が一斉に東晋に大量離反するなどで冉魏は危機的状況に陥った[4]。冉閔は前燕の侵攻を防ぐため、352年4月に魏昌(現在の河北省定州市)で前燕軍の慕容儁と戦うが大敗して捕虜になり、龍城(現在の遼寧省朝陽市)に送られて処刑された[4]。
鄴にいた冉閔の皇太子である冉智は東晋に支援を求めたが、8月に前燕の慕容評の攻撃を受けて鄴は陥落し、冉智は捕縛されて薊(現在の北京)に送られ、冉魏は完全に滅亡した[4][5]。王朝として続いたのはわずか2年半余りであった[5]。
翟魏の歴代皇帝
脚注
参考資料
- 三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)