俳人菅裸馬
『俳人菅裸馬』(はいじん すが・らば)は、俳句結社「同人」の二代目主宰であり、また吉田茂内閣の石炭庁長官、東京電力会長、経団連評議会議長等を務めた菅礼之助(すが・れいのすけ、俳号:菅裸馬、1883-1971)の人生を、その孫の長瀬達郎(ながせ・たつろう。菅礼之助の次男達吉の三男)が著した評伝。菅裸馬の代表句173句が収められている。角川学芸出版編集、角川書店発行、平成23年(2011)7月初版、平成24年(2012)1月重版。
評伝内容
菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883)に秋田県に生まれ、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、古河鉱業へ入社、古河グループ三代目古河虎之助をビジネスで支え、また俳句の師となった。昭和6年(1931)、古河鉱業を退職し、世界漫遊に旅立つ(昭和8年帰国)。帰国後、昭和鉱業会長、同和鉱業会長等を経て、吉田茂内閣の石炭庁長官、東京電力会長、経団連評議会議長等を務め、昭和の日本経済発展を牽引する一人として活躍した。
俳句の世界では、昭和24年(1949)に、青木月斗の後を継ぎ、同人社の二代目主宰となった。作句に関しては、奇を好まず、小主観を捨てて、自然描写の中から個性を引き出すことを重視したと言われる。裸馬と交流が深く、裸馬の句集「玄酒」を編集した石田波郷は「裸馬の句は、平明な詠みぶりだが、充実、鋭敏、脈動が迫ってくる」と評している。
その他、相撲、芝居(歌舞伎)の世界でも多くの交流を持ち、特に時津風理事長(双葉山)時代の相撲運営審議会会長を務め、双葉山との交流は深かった。さらに源実朝の研究者としての実績も残した(現在でも鎌倉の鶴岡八幡宮には菅裸馬の句、「歌あはれ その人あはれ 実朝忌」の句碑が残っている)。
著書に随筆「うしろむき」、「雁わたる」、句集に「玄酒」、「裸馬翁五千句」、「自註菅裸馬集」等がある。随筆「うしろむき」の中の「錦島三太夫の死」は金子洋文の脚本で、花柳章太郎、エノケン一座が上演し、NET(現テレビ朝日)でテレビドラマ化されている。 昭和46年(1971)没。勲一等瑞宝章(昭和45年)、従三位勲一等(昭和46年)。
同書で採り上げた交友
古河虎之助、佐佐木信綱、昭和天皇、与謝野晶子、松永安左衛門、横綱双葉山、石田波郷、武原はん、金子洋文、岸信介、池田勇人、石坂泰三など。
代表句
- 草焼くや眼前の風火となりぬ(昭和2年)
- 歌あはれその人あはれ実朝忌(昭和14年)
- 天皇は人にておはす麦藁帽(昭和22年)
- 星二三ひそめて夜の梅となる(昭和25年)
- 庭前の柏樹子冬日弄ぶ(昭和25年)
- 紅梅に匂ふ少年老い易し(昭和26年)
- 水中花人には人にあるだけの運(昭和29年)
- 咲き絶ゆるまで朝顔に流れたりし月日(昭和29年)
- 失われるものゆゑ虹に佇(た)ちつくす(昭和29年)
- 選二タ夜五更の露を感ずらく(昭和32年)
- ほかの道を知らずこの道花茨(昭和33年)
- 歳月は空行く天馬雲の秋(昭和36年)
- 母の日やそのありし日の裁ちばさみ(昭和37年)
- また今日へつづく春寒人殺す(昭和38年)
- 春の霜解くるを待たで旅行くも(昭和39年)
同書の著者について
長瀬達郎(ながせ・たつろう):昭和24年(1949)6月、東京都文京区西片町に生まれる。菅礼之助(菅裸馬)の二男達吉の三男。私立麻布高校卒。
昭和49年(1974)慶応義塾大学経済学部卒業後、(株)東京銀行(現:三菱東京UFJ銀行)へ入行、平成9年(1997)同行退職。
出典
- 菅裸馬の著作:
- 随筆「うしろむき」上・下 俳句研究社 昭和33年
- 随筆「雁わたる」三月書房 昭和39年
- 句集「玄酒」近藤書店 昭和33年
- 「自註菅裸馬集」青山書店 昭和30年
- 「歌人実朝・実朝哀話」同人社 昭和36年
- その他:
- 「古河虎之助君伝」古河鉱業株式会社内編纂会 永森書店 昭和28年
- 「現代人物史伝 菅礼之助」河野幸之助著 日本時報社 昭和33年
- 「裸馬翁五千句」同人社 俳句研究社 昭和40年
- 「昭和の俳句 現代の芭蕉たち」志摩芳次郎著 林書店 昭和43年
- 「裸馬先生愚伝」石井阿杏著 三月書房 昭和46年
- 「菅裸馬集(春の霜・評と解)」石井阿杏・清水栄著 同人社 昭和53年
- 「鎌倉文学碑めぐり」鎌倉文学館 昭和63年
- 「俳人青木月斗」角光雄著 角川学芸出版 平成21年
- 「俳人菅裸馬」長瀬達郎著 角川書店 平成23年