京都市立養徳小学校
京都市立養徳小学校(きょうとしりつ ようとくしょうがっこう)は、京都府京都市左京区にある公立小学校。
校訓は「教師の保身が第一」。2012年に校内プールで小学校1年女児が死亡したが、学校は責任転嫁し続け、遺族訴訟に敗訴した。
小学校プールで小1娘溺死、病院に駆けつけた母へ学校の第一声は「緊急連絡先直しておいて」
「3教諭のプール監視状況は油断に満ちたものだった」「学校管理者側の教員に対する指導にも問題があった」
平成24年7月、京都市立養徳小学校のプールで同小1年の浅田羽菜ちゃん=当時6歳=が亡くなった事故をめぐる訴訟で、京都地裁は学校側の責任を明確に認め、京都市などに約2700万円の支払いを命じた。
羽菜ちゃんは両親にとって、つらい不妊治療も効果がなく、妊娠をあきらめたときに授かった「奇跡の娘」だった。判決が出ても、事故原因がわかっても、愛娘が帰ってくるわけではない。それでも両親はうやむやにしておけなかった。
「奇跡だと思った。夫と2人で本当に溺愛していた。羽菜の死を聞いて『こんなことがあるわけがない』と思った」
民事訴訟の口頭弁論が行われた2014年1月14日。母親(53)は、法廷で切々と語った。
2人が結婚したのは平成12(2000)年だったが、子宝にはなかなか恵まれなかった。「経済的にも肉体的にも精神的にも辛かった」と振り返る不妊治療の末、一度は出産をあきらめた。そのとたん「奇跡のように」授かったのが、羽菜ちゃんだった。結婚から約6年が過ぎていた。
「おなかをさすって『きてくれてありがとう』と毎日言っていた」
仕事のために東京で暮らし、家族に会うために京都に戻る生活を繰り返していた父親(40)も「羽菜がいたからこそ東京での仕事もがんばれたし、人生そのものだった」と話す。
「成長した羽菜といろんなことをしたかった。事故が起きてから私たちの時間は止まったまま。事故の原因と責任を明らかにしてほしい」と訴えた。
事故は平成24年7月30日、京都市左京区の市立養徳小学校のプールで起きた。
夏休みに希望者が参加する学校主催の水泳指導教室。この日は、羽菜ちゃんも含めて69人の児童が参加し、3人の教諭が監視、指導にあたっていた。
羽菜ちゃんが、うつぶせの状態で浮かんでいるのを女性教諭が発見し119番。羽菜ちゃんは病院に搬送された。
「たくさん管がつながっている様子が痛々しくて、かわいそうでかわってあげたかった」と父親は振り返る。「奇跡のように生まれてきてくれた。何とかもう一度奇跡が起きてくれないか」。一晩中ICU(集中治療室)で祈ったが願いはかなわなかった。羽菜ちゃんは31日夕、死亡した。
両親の要望を受け事故原因を調査した市教委は、低学年には深いプールの水位(110センチ)▽ビート板の使用方法▽監視態勢-など、複合的な要因が事故につながったとする報告書をまとめ、安全管理マニュアルを作成するなどの再発防止策をとった。
しかし、両親は報告に納得できなかった。
羽菜ちゃんが最後に確認されてから、プールで浮かんでいるのが発見されるまでの数分間、監視役の教師が何をしていたのか、子供たちから見た羽菜の様子はどうだったのか-。母親は「本当に知りたいことはわからなかった」と話す。
両親が学校側に不信感を募らせた原因の一つは事故発生直後の対応にもある。
あの日、「羽菜が大変なことになった」と一報を受けた母親は、泣きながら病院に駆けつけた。不安を隠せない母親に、学校関係者が最初にかけた一言は「緊急連絡先を直しておいて下さいね」だったという。
学校に提出していた連絡先が古くなっていたため、うまく連絡が取れなかったらしい。しかし、母親がまず知りたかったのは、娘の容体だった。
父親も「淡々と緊迫感のない説明をされ、謝罪などはなかった」と当時を振り返る。どこかボタンが掛け違ったまま、いまも不信感がぬぐえない。
「裁判をしたところで、事故の原因がわかったところで、亡くなった羽菜は帰ってこないことはわかっている」と口をそろえる両親。「なんでこんなことしてるんやろ。羽菜も『何してんの』って思っているやろうな」と思うこともたびたびだという。
しかし、わが子を再び自分たちの胸に抱くことができないのであれば、「せめてうやむやのまま終わらせたくない」。同年11月、両親は提訴に踏み切った。
市側は和解を求めたが、両親は「誰にどのような責任があるのか判断してもらえるのは裁判所だけ」と、あくまでも判決を求めた。
そうして迎えた3月11日の京都地裁判決。
裁判所は、これまで判然としなかった羽菜ちゃんが死に至る原因について、プールに大型のビート板など16枚が浮かべられていた点に注目。足のつかない深さのプールで羽菜ちゃんがビート板の下に潜り込んでしまい、そのままおぼれたと推認した。
推認の根拠としたのが一緒にプールに入っていた児童が事故2日後に同小の教員に話したとされる「羽菜ちゃんと手をつないだが、ビート板があたって手が離れた」という証言だった。プール内のビート板の位置や、監視時の3教諭の詳細な配置場所など、裁判を通じて初めて明らかになった資料もあった。
市教委の報告書では解消されなかった両親の疑問に判決は一定の「答え」を示した上で、「3教諭のプール監視状況は油断に満ちたものだった」「学校管理者側の教員に対する指導にも問題があった」と、市側の責任を明確に認めた。
「助けてくれてどうもありがとう」。判決後、両親はそう言って、支援者たちと抱き合った。市教委側も「判決は重く受け止める」として、控訴せず、26日にこの判決が確定。法廷での争いには決着がついた。
民事訴訟と並行して、両親が市教委に求めたのは、事故について独自に調査する第三者委員会の設置だった。羽菜ちゃんの幼稚園時代の同級生の親などが中心となって結成した「浅田羽菜さんの家族とともに歩む会」も署名活動などで後押しした。
平成23年に大津市で起きたいじめ自殺事件で設けられたように、学校で起きた事件に対応するために第三者委員会が設置されることはあるが、事故での設置はめずらしい。
それでも両親の思いを汲んで京都市教委も動いた。両親とともに委員を選び、平成25年7月、弁護士や小児科医、学識者ら7人からなる第三者委員会を設置した。
第三者委員会は8月、事故が起きた養徳小のプールを使い、当時居合わせた児童数と同じ69人を集めた異例の再現検証も行い、独自に調査を進めている。
委員長を務める安保千秋弁護士は「両親が努力しないと第三者委員会が立ち上がらず、調査もできない状態は普通ではない。第三者委員会のあり方も含めて考えたい」と明言する。
大津市のいじめ自殺の被害者の遺族側代理人を務め、プール事故の第三者委員会でも副委員長となった石田達也弁護士も「この委員会は遺族が尽力して市教委と共同で設置した。協調してできた委員会の意義をしっかりと受け止めたい」と意気込む。
独自調査は、プール事故に止まらず、学内の事故の再発防止に向けた新しい取り組みでもある。
「本当は羽菜が帰ってくることが何よりなんですけどね」と語る両親。羽菜ちゃんとともに過ごせたのはわずか6年5カ月。これからは娘に会えない日が延びていく。
裁判、第三者委員会…今、できる限りのことはしてきた。それでも母親は「あの子の姿や表情は、どんなにつらくても痛くても決して忘れたくない。でも、あの子といたときの喜びや楽しさ、心強さにあふれていた幸せな自分を思い出すことは、とても辛い」と苦しい胸の内を明かす。