三世紀の極東情勢
三世紀の極東情勢
目次
概要
このページでは三世紀前後の極東の情勢について解説します。
紀元前にあった『秦』が倒れて『新漢』が後をつぎます。 さらに『後漢』に引き継がれますが三世紀の始めに『後漢』が倒れ『魏呉蜀』の三国時代に突入します。
公孫氏 (遼東)は遼東を拠点として、しだいに東に勢力をのばし『韓』『倭』を属國とします。 二世紀後半公孫氏は後漢の地方官だったものが、黄巾の乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立します。 呉はこの『公孫 淵』に使者を送り同盟の話を持ち込みますが、『淵』は一度これを受諾したものの、魏の怒りをかうことになり契約を破棄します。
倭との同盟
この『淵』に危機感を覚えた魏は、倭に使者を送ったものと思われます。 それを証明する字磚(レンガ)が安徽省(アンキョショウ)亳県(ハクケン)の曹操一族の墓群から出土しています。
有倭人以時盟
[訳]
倭人は、同盟をむすぶだろうか?
多くの字磚(レンガ)にまじって『倭人』という文字が刻まれた、倭人字磚(わじんじせん)が出土しました。 この墓は曹胤(ソウイン)の墓と言われていますが、築造の年代は後漢の建寧年間(168から172年)ということがわかっています。 この年代は女王卑彌呼の誕生前夜の出来事と思われます。
後漢書卷八十五 東夷列傳第七十五
桓 靈閒 倭國大亂
[訳] 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)に倭国は大いに乱れる。
この後に共立されて卑彌呼は女王に就任しいています。 公孫氏の動きを封じ込めたのは、魏の『遠交近攻』策にあったと見られます。 仮に公孫氏が呉の要請を受けて魏に攻め込もうとすれば、その背後から倭が攻め込む手はずになっていたことでしょう。 ではなぜ魏は裏切者の公孫氏を攻撃しなかったのでしょうか。 このあたりの事情が『三國志魏書 明帝紀』に記載されています。
三國志魏書 明帝紀
帝曰「住還幾日」
[訳] 皇帝曰く 「往復には、何日を必要か」
對曰「往百日攻百日還百日以六十日為休息如此一年足矣」
[訳] 答えて曰く 「往路に百日、攻撃に百日、帰還に百日、兵の休息に六十日、一年を必要とします」
この文章は明帝が公孫氏征伐に、どの程度の日数を必要とするかを家臣に尋ねたものです。 家臣はさらに次のように述べています。 「大軍を率いて公孫氏を攻撃すれば、魏の財政は破綻しかねません」。 財政上の都合により魏は、公孫氏を攻撃できなかったようです。 そこで倭と同盟を結び連合軍となって公孫氏を攻撃したと思われます。 倭にとって公孫氏への攻撃は利益をもたらしたと思われます。 倭は小型の船舶で海岸線から侵入して、ゲリラ的に集落を襲い略奪を働いたと想像します。 略奪によって得た戦利品は倭を豊かにすると同時に、連れ去った人々は奴隷として利用したことでしょう。 また朝鮮半島の高度な知識も得たことでしょう。 こうした略奪をともなう攻撃を受けた公孫氏は、次第に弱体化していきます。 やがて魏の本隊が戦闘に加わります。
二年春正月詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
[訳] 皇帝は景初二年春正月に、太尉司馬宣王に帥(最高軍事指揮官)として、遼東の人々を討伐するように詔を下す。
238年の正月に公孫氏征伐の詔が、魏帝から発せられます。 魏の軍勢が遼東に到着するのは予定したとおりの百日後で、六月のことになります。 この六月に難升米は郡を訪れたとなっています。 さらに二ヵ月後の八月に公孫氏が滅亡したとすれば、予定の半分の日数で魏軍は勝利を収めたことになります。
篭城している敵を討ち取るにしては、あまりにも早すぎるのではないでしょうか。 この時の魏の軍勢は四萬人といわれています。 兵站を含めた人数とすれば、あまりにも少数といわざるを得ないでしょう。 これが事実とすれば、大部分は倭の軍勢に制圧されていたということになります。 この公孫氏征伐の成果が認められて、倭の将軍難升米は魏帝に歓待されたと見られます。
難升米は『黄幢』を二度授かっていますが、男王卑弥弓呼との戦いに用いられたものと思われます。 黄幢は朝廷の敵を攻撃する際に掲げられるものです。 したがって卑弥弓呼は、魏の朝敵ということになりますが、公孫氏と同様に呉との関係が疑われます。
山梨県三珠町鳥居塚で赤鳥元年(呉)の平縁神獣鏡が出土しています。 この呉の赤鳥元年(238年)は、魏の景初二年にあたります。 魏の公孫氏征伐の年に、呉の鏡が倭に贈られたものと考えられます。 当然受取ったのは反女王派の人物と想像されます。
韓
一方、倭と公孫氏にはさまれた半島南部に有った『韓』はどうだったのでしょうか。 『魏志韓傳』には次のように記載されています。
三國志魏書第三十 韓
韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接
[訳] 韓は帯方の南に在る 東の辰韓と西の馬韓の先に陸地は無く、海にさえぎられている。 したがって辰韓と馬韓をもって陸地の限界を為す。 南の地では倭人と交易(接)行う。
この文章を『韓の東西は海に面し、倭と南で国境を接する』と訳さないようにしましょう。
馬韓在西
辰韓在馬韓之東
弁辰與辰韓雜居
[訳] 馬韓は韓の西側に在る。 辰韓は馬韓の東に在る。 弁韓(弁辰)は辰韓と雑居している。
韓の東西とは辰韓と馬韓を合わせた呼び名です。 つまり『韓の東西』とは、韓の全地域という意味です。 たとえば『日本の東西』とは東日本と西日本を合わせた、日本全体という意味になります。 韓の東西は韓の東と西の海岸という意味ではありません。
著者は韓の東西、つまり韓の全域は海に面していて、この先に陸地は無く『陸の限りと為す』と述べているのです。 弁韓は辰韓と雑居しているとありますが、國と國とは雑居できません。 つまり弁韓あるいは辰韓とは、弁韓人あるいは辰韓人という意味になります。 同じく倭も倭人という意味です。 『倭と接す』とは、倭人と接するという意味になります。 当時まだ国境は存在しません。 したがって國と國とが接するという文章自体がナンセンスなのです。 中国語で『電話で話す』を『接電話』と記載します。 これは『電話で出会う』という意味になります。
其瀆廬國與倭接界
[訳] 其の瀆廬(ドゥロゥ)國内で倭人と接する。
『韓の南で倭人と接す』地域とは、この瀆廬國と思われます。 『界で接する』とありますが『界』の意味は『範囲』とあります。 つまり『瀆廬國與倭接界』は瀆廬國の範囲(領内)で倭人と接すと訳します。
對馬國あるいは一大國の人々は『船に乗り南北に出かけて、米の交易を行う(乖船南北市糴)』とあります。 この文章の『南北』を『南岸』ならびに『北岸』と訳すと『對馬國の人々は、對馬國の南岸と北岸とで米の交易を行う』という意味になりますが、実に滑稽な訳になります。
では馬韓の中心地は、どの付近に有ったのでしょうか。
又有州胡在馬韓之西海中大島上
[訳] 州胡は馬韓の西、海中の大きな島の上に在る
州胡とは現在の済州島のことです。 魏志倭人伝の方位は、現在の方位と比較すると、約45度のズレがあります。 したがって済州島は、馬韓の西南にあることになります。 済州島から見れば、馬韓の中心地は済州島の東北に在ったことになります。 済州島の東北の地点は、全羅南道順天(スンチョン)市付近になります。 狗邪韓國を泗川(サチョン)市とすれば、順天市と泗川市間の直線距離は約六0kmになります。 また州胡には馬韓とは違った言葉を使う、身体の小さな人々が住むとあります。
三国志魏書 馬韓伝
準與滿戰不敵也
[訳] 準は燕の亡命者滿と戦うも、相手にならず
將其左右宮人走入海居韓地自號韓王
[訳] 身近な宮人や将軍たちを引き連れて海に逃れる。 韓の地に侵入して住まいを構え、自らを韓王と名乗った。
韓王の準は山東半島付近の豪族だったと思われます。 山東半島から朝鮮半島の南岸に逃れて、韓を打ち立てたようですが、その領土は『二千餘里の土地を奪い取る(取地二千餘里)』と記載されています。 準の率いた手勢は、それほど多くはなかったでしょう。 取地二千餘里の(方可二千餘里)とは、どの程度の面積でしょうか。 仮に一里を漢あるいは魏の一里410mから430mとすれば、その長さは860kmにも達します。
(方)とは円周のことですが860kmは、現在の韓国の面積を円面積とした円周と同等の距離になります。 とてつもない大きな地域となります。 『取地二千餘里』の時の一里の長さは、韓の一里は『137m』と思われます。 この長さなら、およそ福岡県あるいは全羅南道と同程度の広さになります。 この後に辰韓が建設されますが、馬韓・辰韓を併せた国土は『方可四千里』と考えています。
方の意味
私たちは面積を表す単位に『㎡』を使用します。 古代の文書には長さを表す量詞『里・丈・歩・尺・寸』などはありますが、面積を表す量詞が記載されていません。 では古代の人々は面積をどう表現したのか検証して見ましょう。
韓の領土は『方可四千里』と記載されています。 この意味を探ってみましょう。
漢書卷二十八下地理
自合浦徐聞南入海得大州東西南北方千里武帝元封元年略以為儋耳珠厓郡
[訳] 華南の広西から雷州半島を通り、南シナ海に向かうと大きな島がある。 大きさは東西南北方千里、漢の武帝の元封元年(紀元前110年)に初めて中国の領土とした。 ここに儋耳(タンア)および朱崖(チュヤ)の二郡を置いた。
『大州東西南北方千里』とありますが、『大州』とは大きな島という意味です。 大きな島とは現在の『海南島(ハァイナタァオ)』のことです。 『海南島』とは、南シナ海に浮かぶ面積32,200k㎡の島です。 『東西南北方千里』とは海南島の大きさを表すと考えてよいでしょう。 『千里』とは島の東西と南北の長さを合計した値です。
『方』を正方形の一辺の長さとすれば、わざわざ『東西南北』は『千里』などと記載する必要は無いでしょう。 単に『方千里』と記載すれば済むことです。 『方』を『円周』と考えると『東西と南北』を十字に組んで、各頂点を結ぶ円周は海南島の面積を表すという意味とすれば。 円の縦径の南北と、横径の東西を合計した1/4(250里)は半径になります。 円面積は半径半径円周率(3.14)です。 漢の一里は410mですから、半径の250里は10.2kmになります。 半径10.2kmの円面積は、32,989k㎡になります。 現在の海南島の面積は32,200k㎡です。 漢代(紀元前)に測定した、32,989k㎡と殆ど変わりがありません。 実に見事な測量技術といってよいでしょう。
もう一つ、倭の一大國は『方可三百里』と記載されています。 一大國とは現在の壱岐島と見て間違いないでしょう。 すると壱岐島は『方可三百里』とは『円周三百里』という意味になります。 倭の一里は137mですから『方可三百里』とは円周は41kmになります。 現在の壱岐の面積は133.81k㎡です。 円面積133.81k㎡の円周は41.1kmになります。 方可三百里の記述は、実に驚くべき測定精度といえます。
韓の『方可四千里』は円周『548km』になりますが、『全羅北道』と『全羅南道』それに『慶尚南道』を合計した円面積の円周と等しくなります。 同時に『福岡県』『熊本県』『長崎県』『佐賀県』『大分県』を合せた面積と同等です。
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
洲島(大きな島)の上の倭を一巡すれば『五千餘里』になるとありますが、北九州の各県を一巡した値と等しくなります。
方の意味を正方形の一辺と訳すのは間違っています。 このことを証明する文章があります。
三國志魏書 明帝紀
其表高祖光武陵四面百歩不得使民耕牧樵採
[訳] 其の当時の高祖、光武帝の陵は四面とも百歩。 民の耕作や薪の採取を禁じた。
中国の観光案内によれば『漢光武帝の陵墓』は陵園の中央に在り、地固めをした土丘の形で、高さは17.83m、周囲は487mとあります。 『四面百歩』とは『四面の長さは各百歩』という意味です。 漢の『一歩』は『1.3m』です。 したがって『百歩』は『130m』になります。 すると『四面(四辺)』では、520mということになります。 漢光武帝の陵墓の周囲は487mですから、ほぼ一致しています。 つまり現在の『一辺』は、三世紀の『一面』ということになります。 そして『方』の意味は『円周』ということになります。
對馬國は『方可四百餘里』、そして一大國は『方可三百里』と記載されています。 つまり對馬國対一大國の比率は、約四対三になります。 しかし対馬の696k㎡対壱岐133k㎡の面積では、四対三の比率になりません。 四対三の比率に適合するのは、対馬下島の295k㎡対壱岐の面積になります。 したがって對馬國とは対馬下島と判断します。 おそらく対馬上島は無人島かそれに近い状態だったと思われます。 人の住まない地域は、冊封の地域とは見なさなかったと思われます。 冊封とは領土では無く、人を支配するという意味です。
度量衡(どりょうこう)によれば、漢の一里は『410m』そして魏の一里は『430m』とあります。 ではなぜ『倭』あるいは『韓』の一里を『137m』といえるのでしょうか。 その理由は魏志倭人伝に記載されています。
計其道里當在會稽東治之東
[訳] 洛陽の都の臺から、會稽東治の東までの距離を測れば萬二千餘里になる この距離は郡から女王の都までの距離に等しい。
この文章を著者が記載した理由は、魏の一里と倭や韓の一里との違いを実際の距離を使って説明したものです。 明帝記に、洛陽から遼東までの距離は『四千餘里』と記載されています。 この間の直線距離は『985km』です。 一方、洛陽から寧波の東側(會稽東治の東)までの直線距離は『992km』です。 つまり魏の萬二千餘里の三分の一しかない四千餘里と、倭人伝の萬二千餘里とは等しいことになります。
これで皆さんにも、魏志倭人伝の一里は、魏の一里の1/3(137m)ということを理解していただけたと思います。 中国の辞書に『當』の意味は『適合』とありますが『等しい』と訳します。 『當』を『まさに』と訳してはいけません。
一里の長さ
魏志倭人伝に記載されている次の文章から、実際の距離を計ってみましょう。
到其北岸狗邪韓國七千餘里
[訳] 倭の北にある韓國の狗邪の海岸までは七千里以上の距離が有る。
『狗邪韓國』とは『狗邪は韓王の冊封の地域』という意味です。 中国の辞書に『國』の意味は『古代諸侯の冊封の地域(古代指諸侯所受封的地域)』とあ ります。 したがって狗邪韓國は、倭國には含まれません。 おなじく倭人伝には次の文章が記載されています。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
[訳] また南の一大國まで、一海を渡り千里以上の距離が有る。 一海の名を瀚海(ハンハァイ)という。
ここに『又』とありますが、この意味は『前回同様』ということになります。 つまり『狗邪韓國から對馬國』までの移動も『南に向かって海を渡った』ということになります。 狗邪韓國から對馬國そして一大國まで、一直線上に並んで存在したことになります。
倭人伝の文章によれば、一大國の北に對馬國が在り、さらにその北に狗邪韓國が在ることになります。 ところで一大國を現在の壱岐、そして對馬國を対馬下島とすれば、対馬下島の南に壱岐は在りません。 壱岐は対馬下島の東南の位置に在ります。 したがって魏志倭人伝の方位を現在の地図上の方位と比較すると、時計方向に約45度のズレが生じます。 倭人伝の方位を現在の地図で見る際は、この45度のズレを補正する必要があります。 『南は東南』『東南は東』『東は東北』といった具合になります。 そうなると狗邪韓國の位置は、現在の対馬の西北に在ったと考えられます。 壱岐から対馬さらに西北に向かって直線を延ばせば、そこには韓国の泗川(サチョン)があります。 泗川のすぐ南に『勒島(ヌクト)』という小さな島が在ります。 この島から弥生人の特徴を持つ遺骨や、九州で作られたと思われる、土器が大量に出土しています。 また北九州や山陰地方から、勒島式の土器が発見されています。 これらの土器は縄文時代から日本と朝鮮半島とを結ぶ、貴重な証とされています。 おそらくこの付近に狗邪韓國の海岸は在ったと想像します。 狗邪とは後の伽耶(カヤ)と思われますが、伽耶もこの付近に在ったといわれています。 狗邪韓國の海岸を泗川付近とし帯方郡の庁舎の位置をソウルとすれば、この間の海岸線の長さは963kmです。 すると倭人伝の一里は『137m』ということになります。
孤立語
魏志倭人伝はいうまでも無く中国語で記述されています。 そして中国語は孤立語と呼ばれていますが、孤立語は動詞に活用のない言語です。 たとえば謎とされている『水行十日陸行一月』の訳は、『水行十日』の後で『陸行一月』という意味になります。 『私は彼を愛している』を中国語では『我愛他』と記載します。 『他』は、日本語の『彼』という意味です。 また『彼を私は愛している』も同じく『我愛他』になります。 もし文字を入れ替えて、『他愛我』とすれば『彼は私を愛している』と逆の意味になってしまいます。 活用の無い中国語では、語順が重要な要素になります。 また倭人伝の移動記述は存現文のルールにしたがって記載されています。 存現文とは『事物・事象の存在、出現、消失』を表す文章のことです。 孤立語そして存現文のルールにしたがって倭人伝を訳せば、群使の移動順路は次のようになります。
①帯方郡(基点)
↓七千餘里
②狗邪韓國(7,000里)
↓千餘里
③對馬國(8,000里)
↓千餘里
④一大國(9,000里)
↓千餘里)
⑤末盧國(10,000 里)
↓五百里
⑥伊都國(10,500里)
↓百里
⑦奴國(10,600里)
↓百里
⑧不彌國(10,700里)
↓水行二十日
⑨投馬國
↓水行十日
↓陸行一月
⑩邪馬壹國(12,000里)
郡から不彌國までの残りの距離は僅か『 1,300里 』ということになります。 一里を約137mとすれば『 1,300里 』は約180kmほどになります。 博多湾から『御笠川』を遡って大宰府に到着した後『宝満川』を下って久留米に、さらに筑後川をくだって八女付近から陸路(国道)で熊本市に向かい、菊池郡大津町までの距離を測ったところ、約『130km』になりました。 現在の河川あるいは道路は、直線化が計られています。 したがって現在の130kmは、当時の『 1,300里 』に見合った値と考えてよいでしょう。
『水行二十日』『水行十日』の後で『陸行一月』と記載されています。 なぜ『水行』から『陸行』に移動手段を変更したのでしょうか。 それは投馬國の有った久留米付近から、熊本に向かう地図を見れば一目瞭然です。 久留米から『水行十日』で八女に到着した後、熊本に向かう地形を見れば東側は山脈が続き、西側は有明海を望むことになります。 この付近は東高西低の地形になっています。 したがって河川はすべて東から西に向かって流れています。 南に向かって水行したくても、そのための河川が存在しないのです。 もちろん有明海を船で『海岸水行』を行うことも可能ですが、それでは皇帝の命令である 『國中の人々に贈物を示す』に叛くことになります。 そこで使者は移動手段を『水行』から『陸行』に変更しなければならなかったと考えます。
極南界也
後漢書東夷傳に『倭奴國は倭國の極南界也』とあります。 つまり『邪馬壹國は、倭國の最も東南の位置に在る』という意味になります。 伊都國あるいは奴國の中心地と思われる、博多湾の西部地域(大濠公園)から東南に久留米が在ります。 久留米から東南には大津町が在ります。 大津町の東南は山脈が続き、大勢が住めるような平地はありません。 また『其南有狗奴國』と記載されていますが、狗奴國が存在したと思われる人吉平野は大津町の東南にあります。 狗奴國の『狗』とは『子犬』のことです。 おそらく狗奴國の意味は『小さな野の國』という意味と思われます。 後漢書東夷傳によれば『倭奴國は倭國の極南界也』となっています。 ところが、魏志倭人伝では『その南に狗奴國有り』となっています。 つまり最南端の國が、倭奴國から狗奴國に代わっています。
おそらく王位継承の争いで女王に敗れた男王は、南の狗奴國に逃れて人吉平野で『亡命政権』を樹立したと思われます。 『其官有狗古智卑狗』と有りますが、狗古智卑狗とは『菊池彦』と思われます。 菊池郡一帯を支配していた、豪族だったと思われますが、男王を担いで女王と戦ったものの敗れて南に落ち延びて行ったと想像します。 この周辺の『鉄鏃』の調査を行えば、どの付近で戦が行われたか解明されるのではないでしょうか。 おそらく戦に破れた狗古智卑狗たちは、菊池川を下った後、有明海を南下し、さらに球磨川を遡って、上流の人吉平野にたどり着いたと想像します。
都
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
[訳] 南の邪馬壹國の都まで水行十日そして陸行一月。 この地に女王は住まう。
邪馬壹國の『都』とは『ツ』と読み『津』のことだと思われます。 熊本県菊池郡大津町はその名残と思われます。 『ツ』とは『津』のことですが、意味は『人でにぎわう港』です。 伊都國・都支國・好古都國と同様に『ツ』と読みます。 歴史あるいは考古学上からも九州に『みやこ』が存在した証拠はまったくありません。 魏志倭人伝にも『都』が『みやこ』だったとする文章はどこにもありません。 もし倭に魏の洛陽の都と同等のものが存在したとすれば、倭人伝に記載しないはずが有りません。 『到』と『至』の使用の違いは、著名な地域には『到』と記し、それ以外は『至』と記しています。 例をあげれば、東京・名古屋・京都・大阪には『到』の文字を使い、『至』はそれ以外に使用します。 女王の『都』には『至』の文字が使用されています。 このことからも『都』が著名な地域ではなかったと思われます。
南至投馬國水行二十日
投馬は『ツマ』と読みますが、語源は『伊都國と女王之所都の間に在る地域』と思われます。 つまり『伊都』と女王の『都』とに挟まれた地域という意味だと想像しています。
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定
卑彌呼の後継者として、壹與が王位に就いたとあります。 韓語で『與』を『yo』読みますが『女』という意味です。 つまり壹與とは『トの女』という意味になります。 大津の南に『戸島』という地域がありますが、この付近に居た女性と想像します。
福岡県久留米の語源は『米の出荷所』という意味ではないかと考えています。 九州では『行く』と『来る』が逆転することがあります。 たとえば、『君の家に行く』を『君の家に来る』といったりします。 中国語の『去』は日本語の『行く』です。 日本語の『行』は、中国語では『行う』の意味になります。 久留米を『行く彌(米)』と考えれば、わかりやすいと思います。 久留米で筑後川と合流する『宝満川』の意味を『宝を満たす』と考えると、いっそうこの考えが強くなります。 『宝』の語源は『田から来る物』と聞いています。 つまり『米』を『宝物』と言い換えたと思われます。 『米』の出荷に利用したことから『宝満川』と名付けられたのではないでしょうか。 久留米に集められた米を、宝満川と御笠川を使って博多湾に輸送して、一大國から對馬國へと海を渡り、さらに韓國の瀆盧國(釜山)まで渡海していったと想像します。 米を輸出して鉄や鏡などを輸入したものと思われます。 輸出によって不足する米を、今度は裸國・黒齒國で生産していたと想像します。 弥生時代の気温は現在より低かったといわれていますので、霜の害を心配したことでしょう。 佐藤洋一郎氏の研究成果(稲のきた道)によれば、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混植すると突然変異種として、早稲種が誕生するとあります。 いわゆるハイブリッド米です。 こうした技術を、倭人は得ていたのではないでしょうか。 弥生時代の稲刈りは『穂摘み』です。 石包丁で稲の穂先だけを摘み取る方式ですが、早稲種が誕生しても全てが早稲になるわけではありません。 すると稲穂の刈り取り時期に時間差が生じます。 そこで実った稲だけを刈り取るには、目視による確認が必要になりますが『穂摘み』は大変有効な手段となったでしょう。
何故日本はジャポニカ米を栽培し、東南アジアではインディカ米が主流なのか、疑問に思い調べたところ、東南アジアも古くはジャポニカ米が主流だったと知りました。 それがインディカ米に代わって行った理由は、米の調理の仕方にあったとわかりました。 日本人のご飯は、炊くというより蒸して作るといった方が適切でしょう。 一方、東南アジアの人々は米を煮ています。 ジャポニカ米を煮たら、米粒が溶けてノリ状になってしまいます。 その点インディカ米は米粒がシッカリしていて原型を壊しません。 そこでジャポニカ米からインディカ米へと変化していったようです。 電気炊飯器が好評なのも、米を炊く技術が無くても、おいしいご飯を作れるからでしょう。 ご飯を炊くという技術も、古代日本人が編み出した、世界的な技術かもしれません。
同盟関係
晉書 四夷傳
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見其後貢聘不絶
[訳] 宣帝は公孫氏を平定した。 公孫氏の平定に協力した其の女王は、使者を帯方郡に派遣して朝廷に謁見した。 其の後も貢物を介しての同盟国の訪問は続いた。
文字『聘』の意味は『古代に国家を代表して、同盟国を訪問することを指す(古代指代表国家訪門友邦)』とあります。 この文章によれば、女王は魏の公孫氏平定に協力したとあります。 すかさず帯方郡に使者を遣わし魏の朝廷を訪問したと記載されています。 この使者について倭人伝では次のように記載されています。
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻
[訳] 景初二年(238年)六月。 倭の女王は、大夫難升米等を郡に遣わし、天子朝廷への献上を求めた。
公孫氏が殺害されて滅びるのが同年の八月のことですから、そのわずか二ヶ月前の出来事ということになります。
太守劉夏遣吏將送詣京都
[訳] 太守劉夏は軍吏を遣わし将軍を京都に送る。
将軍とは『難升米』のことです。 また『京都』とは魏の都の洛陽のことです。 おそらく公孫氏は倭軍との戦いに敗れ、あと一息で壊滅するところまで追い詰められていたものと思われます。 そこへ魏軍の本隊が到着します。 最後の一戦は魏軍に譲り、難升米は朝廷への謁見に向かったものと想像します。 魏は公孫氏の首を切り落とすことで、勝利の大義名分を得ることができました。
朝鮮半島の歴史を記した、三国史記(新羅本紀)には、230年以降、倭が朝鮮半島に上陸して攻め込んだと記載されています。 おそらくは新羅を通って公孫氏の攻撃に向かったものと思われます。 手漕ぎの船で対馬から朝鮮半島に向かったとすれば、海流によって北の釜山(かつての新羅)に到達します。 一部は釜山から陸路でソウル(帯方)に向かい、一部は海岸線に沿って帯方に向かったと思われます。 途中で水や食料を奪うなどの、略奪行為が行われたことでしょう。
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
[訳] その六年に難升米は詔を賜り、郡に委ねられた黄幢を授かる
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米為檄告諭之
[訳] 因って塞曹掾史張政等を遣わし、詔書にもたらされている黄幢を授け、檄を作り難升米に之を告諭した
難升米は二度にわたって黄幢を授かっています。 黄幢を授かることのできる人物は、魏の正規兵で最高軍事指揮官だけです。 つまり難升米は魏の同盟国、倭軍の最高軍事指揮官(総大将)だったことになります。 その難升米は公孫氏と戦闘中の、魏の前線指揮所であるはずの、帯方郡を訪問しています。 これは軍事支援に向かったと、考えるほかは無いでしょう。
公孫氏を滅亡に追いやった魏は、さらに倭との同盟関係を強化するために、郡使を倭に派遣します。
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑
[訳] 倭人の國邑は帯方の東南、大海の中に在る。
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
[訳] 漢の時代にも朝廷を訪問した者がいた。 当時の倭國は百以上の國に分立していたが、今回訪問した通訳の話では三十國にまでに統合されたという。
從郡至倭循
[訳] その倭を巡る旅に郡使は向かう。
『從』は介詞で前後の文章をつなぐ役割を果たしています。 『郡』とは『郡の役人』という意味ですが、この場合は『郡の使者』と訳します。 『至』は『 他の地域から来る 』という意味のほかに『往(向かう)』という意味があります。 これからいよいよ倭に向かう文章ですから、『到着』と訳すのは不自然です。 『循』は『循環器』あるいは『循環バス』のように、『巡る』という意味があります。
そして『郡至倭循』以後の文章には、郡から倭の女王の都に向かう道順が、次々と記載されています。 また倭人の『國邑』は『山島』に在ると記載されています。 山島とは『平地の少ない地域』という意味です。 本州には関東平野や庄内平野といった広大な平野が幾つもあります。 とても『山島』と呼べるような地域では有りません。 したがって本州は、邪馬壹國の候補地としては、失格と見て良いでしょう。
『舊百餘國』と『今使譯所通三十國』の文章は比較対象文になっています。 漢の時代には『百餘國』だったものが、いまでは統合されて『三十國』になったと説明しています。 中国語には『時制』がありません。 そこで『元』と『今』とによって、『時制』を表現したと思われます。
中国の辞書に『使』の意味は『命令を受けて事を処理する人(奉命処事的人)』とあります。 また『譯』とは『言語や文字を別の言語や文字に変えること(把一种言語文字依照原義改別成另一种言語文字)』あるいは『四夷(少数民族)の言葉の意味を伝えること』とあります。 つまり『使譯』とは、現在の職業に例えるなら『通訳』のことになります。 『今使譯所通三十國』の意味は、『通訳を通した話によれば、今では三十國』という意味になります。
郡使梯雋
海岸水行
[訳] 船で海岸を移動
当時の魏ではすでに大型の外洋船が使用されています。 しかし倭人の船は手漕ぎの小型船です。 大型船は喫水が深く海岸近くを航行するのは危険です。 おそらく郡の使者は、迎えにやって来た倭人の小型船で倭に向かったと想像します。
正治元年太守弓遵遣建中校尉梯雋等
[訳]
正治元年(240年)
帯方太守の弓遵(クゥォンジュン)は建中校尉の梯雋(ティジュアン)等を倭に遣わす
郡の使者とは、この『梯雋』と見て間違いないでしょう。
景初中の出来事として、韓伝に次の文章が掲げられています。
魏志韓伝
時太守弓遵樂浪太守劉茂興兵伐之遵戰死二郡遂滅韓
(訳) 帯方太守の弓遵(クゥォンジュン)と樂浪太守劉茂(リャウマォ)は、二郡の兵をもって韓を滅ぼす。 この時に弓遵は戦死した。
正治元年に弓遵は梯雋を倭に派遣しています。 したがって韓との戦闘中に、梯雋は倭に向かったことになります。 大切な任務を担って倭に向かうのですから、敵中の韓を陸路で横断するような無謀なことはしないでしょう。 大勢の倭の水軍に守られながら韓の海岸を船で移動したと考えます。
では何のために危険をおかして郡の使者『梯雋』は倭を訪問したのでしょうか。
詔書
其年十二月
詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利
奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈 以到
汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝
今以汝為親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝
其綏撫種人勉為孝順
汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞
今以難升米為率善中郎將牛利為率善校尉
假銀印青綬引見勞賜遣還
今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩
五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤
皆裝封付難升米牛利還到録受
悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
[訳] 景初二年(238年)十二月 倭の女王に詔書に報じて曰く。 親魏倭王卑彌呼に詔(みことのり)を書をもって伝える。 汝は大夫難升米、次使都市牛利を帶方太守の劉夏に使として遣わし、男生口四人女生口六人班布二匹二丈を奉げて貢献したる。 汝の居る所は遥か遠方に在りながら、使を遣わして貢献したるは、これを汝の忠孝と見なす。 我は汝の働きに感謝(哀)し、ただ今を以って親魏倭王(魏の同盟国倭王)と為し金印紫綬を授ける。 (金印紫綬は)包装して厳重に封を施し帯方太守に委ねた後に授けることとする。 汝は国民をいたわり、我に忠誠を尽くせ。 ただ今より汝の使者、難升米を率善中郎將、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を授けた上で引見し、旅の労をねぎらい帰還させる。 今より絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青罽五十匹、これらを汝が貢献した品への返礼とする。 特に汝には、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠鉛丹各五十斤、すべて包装して厳重に封をする。 これらの目録を難升米、牛利に委ねて帰還させるので受取りなさい。 国家は汝の働きに感謝している、以って汝の希望する品物を鄭重に賜う也。 ついては使を遣し贈物のすべてを汝の国中の人に示し、以って汝への感謝の気持ちを人々に知らせることとする。
『我甚哀汝』および『國家哀汝』の二つの『哀』は、『哀れ(可哀そう)』の意味ではありません。 ここに記されている『哀』とは、臣下に対する最大級の誉め言葉で、『汝の働きに感謝している』と言う意味です。 魏帝からの『贈物』を、多くの解説書では難升米・牛利が持ち帰ったと訳していますが間違いです。 『悉可以示汝國中人使知』とは『(郡の)使者は汝の国中の人に贈物のすべてを示し、以って(魏國は汝の働きに感謝している事を知らせる)』と訳します。 奴國の『二萬餘戸』、投馬國の『五萬餘戸』、邪馬壹國の『七萬餘戸』の人々に、魏からの贈物を示すには『水行二十日』『水行十日・陸行一月』が必要だったのです。 また『録受』の『録』とは、『記録した物』あるいは『写し取った物』という意味です。 さらに皇帝からの贈物を『受』とは記載しません。 必ず『賜』と記載します。 『録受』を『目録と合せて受取る』と訳すことはできません。
卑彌呼が魏に贈ったものとは『男生口四人女生口六人班布二匹二丈』という、実に形ばかりの貧相なものです。 これに対して魏からの贈物は絢爛豪華な品と『親魏倭王』の同盟国印、しかもこれらを使者を遣わして送り届けるというのですから、破格の扱いを受けています。 魏はなぜこれほどまで、倭を厚くもてなしたのか、このことを理解しなければ魏志倭人伝を読み解くことはできません。
魏は公孫氏を壊滅したのですが、火種はまだ残っています。 いつ新たな公孫氏が出現するかわかりません。 そこで魏は卑彌呼を懐柔し傀儡政権として、抱き込みにかかったのです。 何としても卑彌呼を倭の女王として君臨させ、魏に歯向かう勢力を押さえつけておきたかったと思います。
鬼道
‘’’乃共立一女子為王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆’’’
(訳) 一人の女の子を共立して王と為す 名を卑彌呼という 鬼道によって、巧みに人々をあやつる
この『鬼道』のことについて、韓伝に次のように記載されています。
‘’’常以五月下種訖祭鬼神羣聚歌舞飮酒晝夜無休’’’
‘’’其舞數十人倶起相隨踏地低昂手足相應節奏有似鐸舞’’
‘’’十月農功畢亦復如之’’’
‘’’信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君’’’
‘’’又諸國各有別邑名之爲蘇塗’’’
‘’’立大木縣鈴鼓事鬼神’’’
[訳] 毎年五月に種を蒔き、それが終えると人々は集まって、昼夜休むこと無く酒を飲み歌い舞う、そして鬼神祭を執り行う。 その舞い方は、数十人がリズムにあわせて、高くあるいは低く大地を踏む。 鐸の舞いとよく似ている。 十月に収穫が終えると、ふたたびこれを行う。 人々は鬼神を信じている。 各國や邑では祭りのための一人の主宰者を立て天神祭を行う。 この人物の名を天君という。 鬼神祭を行う際は、大きな木柱を立てて鈴や太鼓を吊るす。 これを蘇塗というが、國によってそれぞれ特色が有る。
ここでいう『鬼』とは『祖先の霊』のことで、私たちが想像する角のはえた『鬼』とは違います。 天神祭を主催した人物を『天君』と言うとあります。 祭りを行うには役割分担やしきたり、あるいは罰則などを設ける必要があります。 本来は祭りのためのこうしたルールだったものを、日常の生活にまで発展させた状況を見て『鬼道』と記載したと思われます。 つまり鬼道とは、祭りの為にあったルールを、『政』にまで高め状況を見て名付けたものと考えます。 こうした『天君』を倭人伝では『王』と言ったようです。
鬼神祭の舞いは『鐸舞』に似ているとあります。 『鐸』は本来家畜の首に吊り下げて使用します。 おそらく『鐸舞』とは、家畜の霊を慰めるために舞われたものと想像します。 ところで日本国内で出土する『銅鐸』は巨大で、とても牛やヤギといった家畜の首に吊り下げて使用することはできません。
‘’’韓伝弁辰’’’
‘’’土地肥美宜種五穀及稻曉蠶桑作縑布乘駕牛馬’’’
(訳) 土地は五穀や稻の栽培に適している。 桑を栽培して蚕を養い細い絹糸で布を作る。 牛馬に車を引かせて乗る。
‘’’韓伝馬韓’’’
‘’’不知乘牛馬牛馬盡於送死’’’
(訳) 牛馬には乗らず、死ぬまで使う
韓國では『牛馬』を家畜としていたとありますが、倭國では『其地無牛馬虎豹羊鵲』と記載されています。 つまり韓國では牛馬を飼っていますが、倭國では飼っていません。 この違いは『畑作』と『水田稲作』の違いにあると思われます。 水田稲作では水路が縦横に走るために、陸路は寸断されてしまいます。 このために輸送手段には『船』を使用したと思われます。 陸路を移動するには、水路を渡るための多くの橋が必要になります。 橋は水路の使用を制限します。 また台風などで橋が流されると、陸路は利用できなくなると同時に廃材によって水路もふさがれてしまいます。 そこで倭國では水路を重要視して、陸路の輸送機関となる牛馬を減らしていったと思われます。 家畜を飼わなくなったことから銅鐸は本来の目的から外れ、祭器としてのみ生産されるようになります。 祭器として生産された銅鐸は、次第に大型化していくことになります。 魏志倭人伝では、『銅鐸』を祭器とする人々を『倭種』そして『銅鏡』を祭器とする人々を『倭人』と記載しています。
卑彌呼は魏から『銅鏡百枚』を賜っていますが、その理由は『舊百餘國』にあります。 韓伝に各國邑に鬼神祭には『天君』を立てるとあります。 『立てる』とは『共立する』という意味でしょう。 倭國は、漢代には百以上の國あったものが、今では統合されて三十國に減少したとあります。 統合された國々も、邑として存続したと考えます。 つまり百以上の國に居た『天君』達は女王の時代になっても、邑の『天君』としてなお健在だったと想像します。 こうした『天君』達に配布するのが目的で、魏に銅鏡を賜るように願い出たと思います。 この天君たちが『共立』して、卑彌呼を王に担ぎ上げたと想像します。 天君は倭人たちにとって心の支えだったと思われます。
裸國黒齒國
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
上の二つの文章には『至』の文字が有りません。 つまり郡の使者は『倭種』の國あるいは『侏儒國』には行かなかったようです。
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
[訳] また女王國の東南には裸國・黒齒國が在る。 船行一年で至る。
一方『裸國黒齒國』には『至』の文字が記載されています。 『行くとすれば』といった仮定を表す文章なら『至』では無く『行至』になります。 『船行一年可至』の『可』は『強調を示す(表示强调)』意味があります。 それも動詞の『至』を強調しているのですから、意味は『確実に裸國黒齒國行く』という意味になります。
船で一年も移動すれば途中には様々な國が存在します。 目と鼻の先に在る『倭種』の住む國については、その國名すら記載していません。 『侏儒國』については『小人が住む』と有りますが、『裸國黒齒國』にはどういった種族が住むのか記載されていません。 種族の記載がない、あるいは郡の使者が『裸國黒齒國』に向かうとすれば、その理由は一つです。
『裸國黒齒國』に住む人々は『倭人』だということになります。 魏志倭人傳は『倭人』の書ですから、倭人の住む地域は『國名』だけが記載されます。 また郡使の目的は『倭人に贈物を示し親睦をはかる』ことですから、倭人の住む『裸國黒齒國』に向かうのは当然のことです。
『倭種國』が中国地方に有り、その南に『侏儒國(四国)』が有ります。 その東南(実際は東)の『裸國黒齒國』に向かうとすれば、瀬戸内海を西から東に向かうことになります。 そして行き着いた先は大阪湾になります。
『裸(ラ)國』とは奈良、そして『黒(カ)齒(チ)國』とは河内と思われます。 奈良の語源は『野良』と言われています。 野良とは田畑という意味です。 おそらく両国は女王の植民地だったと思われます。
また黒齒國の『黒』には、二つの起源があります。 古代の『里』の読みは『カ』だったようです。 黑は『火と煙突と煙』からできた会意文字です。 現在の中国では『黒』の文字は使用されていません。 過去に使用されていた黒の、『里』の形声文字と勘違いしやすいために、旧来使用されていた黒色をしめす古い文字『黑』に戻したと思われます。 齒は韓語および中国語では『チ』と読みます。 したがって『黒齒』の読みは『カチ』になります。
しかしそうなると倭國は『裸國黒齒國』を加えた三十二國になってしまいます。
『裸國黒齒國』は女王の直轄領だったと考えられます。
倭の三十國とは『冊封』を受けた国々のことです。
したがって女王の直轄領だった『裸國黒齒國』は、三十國には含まれないことになります。
元明天皇(在位期間、707から715年)
『倭』の文字を『和』に、さらに『大』を加えて『大和』と改名したとあります。
つまり國名を『倭』から『日本』に、宗主国名を『倭』から『大和』に改名したと記されています。
『倭』を『和』にしたのは、『倭』の仮借文字として『和』を使用したことになります。『大和』は仮借文字のルールにしたがって『倭』の本来の読み方を、受け継いだと考えられます。
そうなると『大和』の読みが『ヤマト』なら、『倭』も当然『ヤマト』と読まれていたことになります。
古事記では『倭』を『ヤマト』と読みますが、これが正しい読み方と思います。
たとえばヤマトタケルを古事記では『倭建命』、そして日本書紀では『日本武尊』と記載されています。
つまり『倭』も『日本』もかつては『ヤマト』と読まれていたことになります。
なぜ畿内大和を『ヤマト』と読むのか、それは『裸國』が女王の直轄領だったことに起因します。
宋書倭國伝に倭の五人の王が訪れたと記載されています。 倭の五王とは、五世紀に南朝の東晋や宋に朝貢して倭國王に冊封された讃・珍・済・興・武をいいます。 最後に記載されている『武』は順帝昇明二年(478年)に宋を訪問して『使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大將軍倭王』の爵位を授かっています。 また武王は、『東の毛人を征服すること五十國』『西の衆夷を服従させること六十六國』『海を渡って北の人々を平定すること九十五國』と述べています。
この文章から、倭の五王の出身地あるいは治めていた地域を知ることができます。 まず気付くのは、『南』の記載が無いことです。 つまり南は五王の出身地ですから、攻め込む必要がありません。 次に、海を渡って平定した地域とは『新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓』の朝鮮半島南部と見て間違いないでしょう。
すると倭の五王は、北九州を治めていたことになります。 畿内大和で五王が治めていたとすれば、この文章はまったく成立しません。 すでに五世紀の大和は、見事な発展を遂げていますが、まだ九州を制圧するところまでは到らなかったと思われます。
宋書倭國伝には、宗主國の名称が記載されていません。 『ヤマト』を名乗れない事情があったと思われます。 おそらく熊本平野に在った女王國『ヤマト』は、三世紀後半から四世紀にかけて、畿内に移住したものと想像します。 三世紀以前の畿内大和地方は、さほど発展した遺跡遺物の発見はありませんが、三世紀以後の、この地域の発展は見事なものです。 こうした発展には、人口の増加が必要ですが、自然増による発展と考えるには、少々無理があります。
倭人の寿命
大宝二年(702年)の、岐阜県加茂郡富加町羽生の戸籍が、偶然発見されました。 この戸籍によれば、当時の平均寿命は約35歳と見られています。 成人を迎えるのが16歳とすれば、この時点で既に半数が死亡するという、多産多死の状況にあります。 こうした状況の下では、人口の自然増加はきわめて困難です。 それを成し遂げた畿内の人口増加は、他地域からの移住が行われた結果と思われます。
前方後円墳の築造が、三世紀から始まったと考えられています。 前方後円墳の副葬品は『銅鏡・勾玉・剣』といった北九州の副葬品とよく似ています。 また前方後円墳には葺き石が施されていますが、この建築方法は出雲の特色を示しています。 さらに吉備地方の円筒埴輪が飾られるなどの特色も見られます。 これらを総合して判断すれば、葬られた人物は北九州の出身者、そして出雲あるいは吉備の人々が埋葬を手伝ったということになります。 北九州では多くの鉄の鏃が出土しています。 つまり激しい戦闘が行われたものと思われますが、畿内地方からは鏃は発見されていません。 したがって穏やかに移住が成立したものと思われます。 北九州から移住してきた人々と、従来からこの地域に住んでいた人々の交流によって、畿内地方が栄え大和政権が誕生したと想像します。
女王派の人々は畿内に移住していきますが、残された男王の人々は、がら空きとなった北九州に進出していった思われます。 おそらく女王派の人々は、これまで築いてきたあらゆる物を破壊して、この地を去ったと想像します。 この時に女王卑彌呼の遺骨も持ち去ったことでしょう。 もしかすると『箸墓古墳』に再び埋葬された可能性が残されています。 古事記あるいは日本書紀の文章には、こうした記載が見られませんが『神代』の文章には、 卑彌呼らしき人物が『天照』として記載されています。 おそらく北九州で起こった出来事は、すべて『神代記』に封じ込めてしまったと想像します。
『裸國』の『裸』は形声文字とありますが『果』はどう見ても『ラ』とは読めそうも有りません。 そこで中国の辞書を見たところ『裸』は簡略文字とあります。 本来の『裸』は次のようになっています。
黒い部分が義符(文字の意味を表す)、そして青い部分が声符(文字の読みを表す)ですが、声符の中央だけを取り出して簡略文字の『裸』を作字したようです。 日本では『裸』を『はだか』と読みますが、中国では『衣服に包まれた部分』という意味です。
倭人
東南陸行五百里到伊都國
官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
世有王皆統屬女王國
郡使往來常所駐
[訳} 東南の伊都國までは陸行で五百里。 官を爾支(イチィ)、副を泄謨觚(シモク)柄渠觚(ビャンチク)という。 千戸以上の家がある。 この國には代々王が居た。 すべての王は、女王國に従属してきた。 郡使が様々な地域に出かける際は、必ずこの地に一旦は留まる。
末盧國から見た伊都國の方位は東南とありますが、現代の地図では『東』になります。 考古学の見地からすれば、伊都國として最も有力な地域は、福岡県前原市三雲地方と思われます。 この伊都國には代々王が居て、すべての王が女王國に従っていたとあります。 なぜ倭國では無く女王國なのでしょうか。 またこの文章を記載した著者の目的は何でしょうか。 倭國と記載すると、女王と対立している狗奴國の卑弥弓呼も含むことになります。 女王が支配しているのは、狗奴國を除く二十九國です。 つまり伊都國の王は、狗奴國の王には一度も従ったことが無いということになります。 この文章は伊都國の王について、郡使が尋ねたことに対する、倭人の返答の形式になっています。 そもそも『王皆統屬女王國』の文章には違和感があります。 女王國とは卑彌呼が共立されて、王に就任して以降の呼び名です。 それが代々いうことは、卑彌呼以前の王から、長年に渡って、伊都國の王は女王國に従っていたということになります。 このことは卑彌呼に対抗する一派が存在したことになります。 前の男王の後継者を誰にするかを検討した際に、卑彌呼以外の人物を推挙した者がいたことになります。 一大率は伊都國で治めています。 つまり一大率は、前原周辺を治める豪族だったと想像します。 この一大率に対抗した豪族とは、熊本県菊池周辺を支配していた、狗古智卑狗だったと思われます。 郡使は伊都國の読み方に興味を持ったようです。 魏志倭人伝の文頭に、漢時有朝見者(漢の時に朝見した者が有る)と記載されています。 郡使は漢代の史料を、熟知していたと思われます。 『委』には『先端』という意味があります。 中国では東に住む人々を『夷』と記載しています。 まだ日本人を示す文字が無かった頃、さしあたって古代日本人を『夷』の先端の人々という意味で『委』と記載したようです。 したがって『委』は仮借文字ということになります。 やがて親交が深まるにつれ、正式な文字として『倭』を作成したようです。 つまり仮借文字だった『委』に人偏を付け加えて、形声文字の『倭』を作ったと想像します。
後漢書東夷傳 倭
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
[訳] 建武中元二年(57年) 倭國の最南端の地から倭奴國の使者、自称大夫が貢物を奉げて朝廷の祝賀に訪れた。 光武帝は倭國の王に印綬を賜う。 安帝永初元年(107年) 倭の國王の最高軍事指揮官を担う将軍が、生口百六十人を献上して朝廷への謁見を願い出た。
光武帝は倭國の王に対して、印綬を賜うと記載されています。 この時に賜った印綬こそ、志賀島から出土した『漢委奴國王』の金印と思われます。 『漢委奴國王』を『漢の委の奴の國王』と訳してはいけません。 『漢の委の奴の國王』とは『委の中の奴に住む國王』という意味になります。 金印に『地名』を刻むことは有りません。 刻む文字は王の冊封する地域の名称です。 『國』とは『古代諸侯の冊封の地域』という意味です。 したがって『漢の委の奴の國王』では、『委を冊封する王』なのか、それとも『奴を冊封する王』なのかサッパリわかりません。 『委奴國王』とは『委(ヤマト)奴(の)國王』という意味になります。 つまり音読みではなく『ワの國王』を訓読みすれば『ヤマトの國王』となります。 『ヤマトの國王』とは、百餘國を治める倭の國王のことです。 宗主國の『ヤマト』と、百餘國の倭全体を表す『ヤマト』とが同一名称だったために、多少混乱することがあります。 訳す際には、この点に注意する必要があります。
伊都國の王は、代々女王國に従うというのですから、『倭奴國』とは女王國を指します。 しかも『倭奴國』は、倭國の最南端の位置に在ると記載されています。 『委奴國の王』は百以上の國の支配者です。 仮に博多湾付近に『委奴國の王』が居たとすれば、百餘國は博多湾の海中に存在したことになります。 これは有り得ない話です。 『委奴國王』の北には、百以上の國が存在するだけのスペースが必要になります。
漢書地理志 燕地
樂浪海中有倭人
如淳曰 如墨委面在帶方東南萬里
臣瓉曰 倭是國名不謂用墨
[訳] 楽浪郡の沖の海中に倭人は住まう。 如淳(ヌゥチュン)曰く。 帯方から東南に向かって、万里行った所に顔にイレズミを施す委の人々が居る。 臣瓉(チェンツァン)曰く。 倭とは國名、イレズミのことでは無い。 倭を古くは委と記した。
倭の旧字は委とあります。 『委(wei1)』には『末端』という意味があります。 『倭』は形声文字です。 『委』を声符とし、『人』を義符としています。 おそらく倭人のために、わざわざ作られた文字と思われます。 『倭』は音読みでは『ワ』、そして訓読みでは『ヤマト』です。 お隣の大韓民国でも同じに理解しています。
元明天皇(在位期間、707から715年) 『倭』の文字を『和』に、さらに『大』を加えて『大和』と改名したとあります。 つまり國名を『倭』から『日本』に、宗主国名を『倭』から『大和』に改名したと記されています。 『倭』を『和』にしたのは、『倭』の仮借文字として『和』を使用したことになります。『大和』は仮借文字のルールにしたがって、『倭』の本来の読み方を受け継いだことになります。 そうなると『大和』の読みが『ヤマト』なら『倭』も『ヤマト』と読まれていたことになります。 古事記では『倭』を『ヤマト』と読みますが、これが正しい読み方と思います。 また国名の『倭』を『日本』に改名していますが、当然『日本』も訓読みでは『ヤマト』になります。 日本書紀では『やまとたけるのみこと』を『日本武尊』そして古事記では『倭建命』と記載されています。
三国志の中で『倭人』と『人』の字が付いているのは『魏志倭人伝』だけです。 なぜ『倭』では無く『倭人』と記載したのでしょうか。 私たちは『あの人』という言い方をしますが、この表現にに良く似ています。 『倭人』を日本語に訳すと『倭の人』という意味になります。 つまり『倭人』とは『倭』の中の特定の集団を指しています。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
[訳] 女王國から海を渡った千餘里の地に、女王國と同じような國がある。 皆倭人と同種の人々。
『皆倭種(皆倭の種類)』とありますが、おそらく『倭』とは『渡来系弥生人』を指すものと思われます。 弥生人の中で特に魏と同盟を結んだ人々(九州に住む弥生人)を指して『倭人』と記載したようです。
邪馬壹
『邪馬壹』をなぜ『やまと』と読むのか、このことについて説明します。 中国では『邪』を拼音(ピン音)でya2(ヤ)と発音します。 『馬』をma3(マ)と発音します。 『壹』を中国の辞書で調べると『一的大写(数字の一の大字)』また『形声文字』と記載されています。 つまり『壹』を『イチ』と読むのは、数字の『一』の代わりに『壹』を使用(仮借)するときに限られます。
辞書に『仮借文字とは同音のあて字のこと』とあります。 本来の『壹』の読みは、形声文字のルールにしたがって読むことになります。 漢字の90%は形声文字です。 たとえば『往復』の『往』はwang3『ワン』と発音しますが、日本語で『オウ』と読みます。 それは声符(旁)の部分が『王』になっているからです。 形声文字は『声符(文字の読みの部分)』と『義符(文字の意味の部分)』とで成り立っています。
したがって文字の声符を見れば、その文字の読み方がわかります。 昔の本を見るとルビ(総ルビ)がふってありました。 その文字を知らなくてもルビを見れば読み方がわかります。 『流石』を習ったことが無くても『さすが』とルビがふってあれば、意味がわかります。 ちょうど形声文字の声符は、このルビによく似ています。 万葉仮名はこうした声符を利用して、日本人の話し言葉を文字として残しています。
漢書 高帝紀
高祖爲人隆準而龍顔
[訳] 高祖の劉邦は鼻が高く額が広い
劉邦とは漢の初代皇帝のことです。 この文章に服虔(フッケン)と言う人物が注釈を行っています。
服虔曰準音拙
[訳] 服虔曰く。 準(ジュン)の音は、ここでは拙(セツ)と読む。
本来なら『隆拙』と記載すべきところを『隆準』と記載した。 『準』は『拙』の仮借文字として用いられている。 そうなると『準』はジュンでは無く『拙』の音セツと読みなさい。 このように述べています。
『壹』は声符の『豆』と義符の『士+冖』から成り立っています。 声符の『豆』の読みは『dou4(ト)』です。 中国では『d』の音は濁りがありません。 したがって『d』は『t』になり『tou4(ト)』と発音します。 『豆』を声符とした形声文字に『登』『澄』『豊』などがあります。 これらと同じく『壹』も『ト』と読みます。 したがって三世紀の『邪馬壹』の読みは『ヤマト』です。 義符の『士』意味は『古代統治階級中次于卿大夫的一个階層(古代支配階級の中の、卿あるいは医者などの階層)』とあります。 そして『冖』の意味は『覆盖,遮盖(覆う、覆わせる)』です。 中国の辞書で『壹』の意味を調べると『統一して』『一致して』『皆で』『一同で』『同等に』『一つになって』などとあります。 こうした意味で『壹』を使用する際は、本来の『ト』の読みになります。
其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
(訳)
その四年にふたたび倭王は、大夫伊聲耆(イシャンチ)・掖邪狗等(ィエヤク)八人を使者として遣わし、生口倭絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢を献上した。
伊聲耆等は、率善中郎將の印綬を賜ったので一同はお礼の儀式(拜)を行う。
『拜』の意味は『古代男子跪拜礼的一种(古代男性の礼儀作法の一種)』とあります。
漢書卷二十八下地理
自初為郡縣吏卒中國人多侵陵之故率數歳壹反
[訳] 初めて郡および県を置いた。 中国人の官吏および指揮官たちは陵墓を侵した。 そこで地元民は怒り、最高軍事指揮官に数年に渡って一同で反撃した。
ご覧のように『壹』は、『一同』の意味で用いられています。 こうした際の『壹』の読みは『ト』だったと想像します。
魏志倭人伝では、名詞に『一(一大國)』と『壹(邪馬壹)』とが併用されています。 同音であれば、いずれか一方に統一されたと思いますが、『一』と『壹』の読みが異なることから、併用されたと考えます。 邪馬壹の『壹』は『一の大字』ではありません。 邪馬壹を間違っても『ヤマイチ』とは読まないようにしましょう。 後漢書では『邪馬臺』李賢注には『邪摩惟』 隋書倭國伝では『邪靡堆』さらに日本書紀の景行天皇紀には『夜摩苔』など様々です。 たとえば『邪馬臺』の『臺』の声符は『到』です。 したがって読みは『ト』です。 つまり邪馬壹も邪馬臺も、等しく『ヤマト』と読みます。 邪馬壹を邪馬臺の誤写とするなら、邪摩惟も邪靡堆も誤写ということになります。 また都斯麻國と對馬國、そして對海國についても誤写ということになります。 倭人はその時々によって、使用する文字を変えています。
倭人と同盟を結び、極東の安定を手にした魏(晋)は、南の呉および蜀を攻め統一国家の樹立に成功します。 世界の歴史に名を残すことは無かったものの『卑彌呼』の働きは、歴史を動かしたといっても良いでしょう。
脚注
関連項目
- 倭・倭人関連の中国文献
- 倭・倭人関連の朝鮮文献
- 邪馬台国(やまたいこく)
- 対馬国(つしまこく)
- 一支国(いきこく)
- 末盧国(まつらこく)
- 伊都国(いとこく)
- 奴国(なこく)
- 黒歯国 (かちこく)
- 卑弥呼(ひみこ)
- 倭国大乱
外部リンク
- [ttp://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/new_kan/wa.htm 『後漢書』東夷伝倭人伝]
- [ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gokan-toui.html 『後漢書』東夷傳]
- [ttp://yamatonokuni.seesaa.net/ 邪馬台国論]