ジョサイア・コンドル
ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスの建築家。日本人の建築家を育成し、日本の近代建築の基礎を築き、「日本近代建築の父」と言われる[1]。
経歴
1852年9月28日、ロンドンのサリー州ケニントン地区ラッセルグローブ22番地(22 Russel Grove, Brixton, Surrey)に銀行員の父ジョサイア・コンドルと母エリザとの間に生まれる[2]。父親とコンドルは同名であり、祖父も同名であった[3]。7人兄弟の5番目である。兄が4名、弟と妹が各1名。11歳のとき、父が急死。 ハーバー奨学金を受けながら、1856年からベッドフォード商業学校で学ぶ[3][4]。ベッドフォード商業学校(Bedford Commercial School、現Bedford Modern School)は1566年創立の長い伝統を持つ名門校である。 1869年にベッドフォード商業学校を卒業し、父の従兄弟、祖母エリザベスの妹ルイーザの息子であるト-マス・ロジャー・スミスの建築事務所で建築家見習いとして働きながら、サウスケンシントン美術学校に通学することが許された[3]。ロジャー・スミスは王立建築家協会会員、建築学会会長であり、優れた教育者であった。後年、ロンドン大学教授に就任している。1973年、5年間勤務したロジャー・スミスの建築事務所を退職し、助手として働くためにゴシック・リヴァイヴァル建築で知られ、ゴシックの巨匠と言われたウィリアム・バージェス事務所に入所し、2年間働いた。助手のかたわら、ロンドン大学ユニバーソティカレッジのスレイド・アート・クラスという美術講座に通学した。バージェスは、当時知られ始めていた日本の芸術品に夢中になっており、浮世絵のコレクションを始めていた。それがコンドルが日本に興味を抱くきっかけになったと言われる。1875年のはじめにバージェス事務所を退職し、ウォルター・ロンズデールという画家の工房に入所する。ゴシック様式に必要なステンドグラスの製法を学ぶためであった。 1876年3月13日、王立建築家協会主催の設計競技(コンペ)の課題である「カントリーハウス(領主館)」にゴシック様式で応募し、建築界の新人賞であるソーン賞を受賞する。将来を嘱望される建築家になった。
1876年10月11日、日本政府と5年間の雇用契約を締結。10月日本に出発。フランス、イタリアでスケッチ旅行をする。 1877年(明治10年)1月28日、25歳で横浜港に到着し来日した[3]。工部大学校造家学教師および工部省営繕局顧問に就任する。官舎は麻布今井町であった。学校では歴史や計画、構造などを教え、さらに実際の建築設計に学生を参加させて、実地教育を行った。 1879年(明治12年)、第一回卒業生として辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎の4名が卒業した[5]。日本に住んでいたが、王立英国建築家協会の会員資格を維持し、1874年にアソシエイトとなり、1884年にフェローになった。
1880年(明治13年)8月、長女ヘレン(日本名はる)が誕生。 1883年、絵師・河鍋暁斎に弟子入りし、「英斎」の号を受ける。 1886年(明治19年)、帝国大学工科大学講師。11月、学生17名を引率してドイツに出張する。その後、ロンドンに帰省。 1887年6月、ロンドンから帰国。 1888年(明治21年)3月、講師を辞任、建築事務所を開設。
1890年、三菱社の顧問となる。 1893年(明治26年)花柳流の舞踊家、前波くめ(1856年~1920年)と結婚(コンドル41歳、くめ38歳)。前波くめは菊川金蝶の弟子であ。 1891年(明治24年)、濃尾地震の被害をコンドルは視察する。 1894年(明治27年)、勲三等瑞宝章を受ける。 1914年(大正3年)2月、工学博士号を授与される。 1920年(大正9年)6月10日、夫人くめ死去。6月21日、麻布の自邸で脳軟化症により逝去。67歳。 東京大学工学部1号館前の広場にコンドルの銅像が立っている。
主要建築作品
- 1883年 鹿鳴館(華族会館)
- 1891年 ニコライ堂(重要文化財)実施設計のみ。
- 1894年 旧海軍省本館
- 1896年 岩崎久弥茅町本邸(現・旧岩崎邸庭園洋館および撞球室、英国ジャコビアン様式)
- 1908年 岩崎弥之助高輪邸(現・三菱開東閣)、エリザベス王朝風のルネサンス様式[6]
- 1910年 岩崎弥之助家廟
- 1913年 三井家倶楽部(現・綱町三井倶楽部)、バロック的構成[7]。
- 1917年 古河虎之助邸(現・旧古河庭園大谷美術館)
弟子
辰野金吾(1期)、曾禰達蔵(1期)、片山東熊(1期)、佐立七次郎(1期)、下田掬太郎、渡辺譲(2期)、久留正道(3期)、河合浩蔵(4期)、新家孝正(4期)、滝大吉(5期)、妻木頼黄(6期、中退)
一人娘ヘレン
ヘレン(日本名「はる」)は1880年(明治13年)に生まれた。前波くめがコンドルと1893年(明治26年)に結婚した時、下町の養家で育てられていた芸者との子を探し出し、手元に引き取って教育を施し育てた。ヘレンは名士の子女が通う東京女学館を卒業した後、ブリュッセルのフィニッシング・スクールに4年間留学した。帰国の船上、デンマークの名門、グルット家の子息ウィリアム・レナート・グルットに見初められ、1906年(明治39年)にグルットと結婚した。コンドルが病死すると、ヘレンは当時の夫の赴任先であったバンコクから急いで帰国し、葬儀を執り行うと、バンコクに戻った。ヘレンはその後再び日本の土を踏むことはなく、1974(昭和49)年、コペンハーゲンで94年の生涯を閉じた。 コンドル夫妻が亡くなった後、ヘレン(はる)はコンドルが収集していた暁斎の絵画を海外に持ち出した。現在、河鍋暁斎の絵画が海外美術館にあるのはそのためである。コンドルは洋館、くめは和館で暮らしており、ヘレンには厳しい母であったため母娘の関係は親密ではなかったとされる。
菊川金蝶
菊川金蝶(本名・前波きく)は「浜町のお師匠」と呼ばれ、五代目菊五郎とも親しい舞踊家である。六代目菊五郎がまだ丑之助と呼ばれていた頃、金蝶が踊りの手ほどきをしていた。彼女は六代目坂東三津五郎の高弟で小美津を名乗った。幕末には大名家に出入りしていた御狂言師で長州の毛利家藩主夫人に愛されていた。御狂言師は大名の奥方のために歌舞伎芝居をする女役者のことで、品行が良く芸の達者のものが選ばれ、容貌はさほど重要視されていなかったという。金蝶は高輪の毛利邸に通ううち、奥女中の菊川にかわいがれて、芸名を菊川金蝶とした。(明治38年没)一時は松林伯円の妻だったこともあったとされる。コンドルの日本舞踊の師匠が菊川金蝶であった。前波くめとの出会いは、彼女が舞踊の師匠代理として彼の家に出稽古にやってきたときだったといわれる。
コンドルの墓
ジョサイア・コンドルの墓は東京の護国寺にあり、夫人のくめとともに埋葬されており、昭和60年11月1日に文京区指定史跡となっている[8]。墓石には次のような記載がある。
IN MEMORY OF
JOSIA CONDER FR.I.B.A.
BORN SEPT 28 1852 DIED JUNE 21 1920
AND HIS WIFE
KUME CONDER
BORN DEC 16 1854 DIED JUNE 10 1920
"LIFE'S WORK WELL DONE
LOVING AND TRUE"
著作
- ジョサイア・コンドル『河鍋暁斎の絵と習作』岩波書店,1911年
- ジョサイア・コンドル『The Flowers of Japan And The Art of Floral Arrangement』,1891年
- ジョサイア・コンドル『Landscape Gardening in Japan』Kelly and Walsh, Limited, 1893年
- ジョサイア・コンドル『The Floral Art of Japan』 Kelly and Walsh, Ltd,1899年
- ジョサイア・コンドル『造家必携』加藤良吉,明治19年6月
参考文献
- ↑ 港区ゆかりの人物データベース,港区
- ↑ Olive Checkland:"Japan and Britain After 1859: Creating Cultural Bridges"RoutledeCurzon,2003
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 畠山けんじ『鹿鳴館を創った男』河出書房新社,ISBN:4-309-22323-0,1998年
- ↑ "Bedford Modern School of the Black And Red", by Andrew Underwood (1981)
- ↑ 建築学科・建築学専攻沿革,東京大学
- ↑ 文化遺産,三菱グループ
- ↑ 綱町三井倶楽部,株式会社綱町倶楽部
- ↑ 区指定文化財,文京区,2017-03-06