グレゴール・ピアティゴルスキー
グレゴール・ピアティゴルスキー(Gregor Piatigorsky, 1903年4月17日(ユリウス暦では4月3日)[1] - 1976年8月6日)は、ロシア出身のチェロ奏者。[2]
エカテリノスラフにてグリゴリー・パヴロヴィチ・ピアティゴルスキー(ロシア語:Григорий Павлович Пятигорский; ラテン文字転写例: Grigory Pavlovich Pyatigorsky)として生まれる。父パヴェルはモスクワ音楽院でレオポルト・アウアーに師事したヴァイオリン奏者であった。その父から幼少時よりピアノとヴァイオリンの手解きを受けたが、父に連れられて行ったコンサートでチェロに興味を持ち、7歳の時に父に子供用のチェロを贈られてチェロを学ぶようになった。9歳でモスクワ音楽院に入学し、アルフレッド・フォン・グレーンのクラスでチェロの腕を磨きつつ、アナトーリー・ブランドゥコーフの個人教授を受けた。1919年からレフ・ツァイトリンの率いる弦楽四重奏団のチェロ奏者を務め、ボリショイ劇場管弦楽団の首席チェロ奏者に就いた。1921年には亡命してワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団の次席チェロ奏者を務めたが、すぐにライプツィヒに行ってユリウス・クレンゲル、ベルリンに行ってフーゴ・ベッカーの各氏に師事。授業料捻出のためにカフェで演奏していたが、そのカフェでエマヌエル・フォイアマンやヴィルヘルム・フルトヴェングラーの知己を得、1929年までの8年間ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者を務めた。任期中にはアルトゥル・シュナーベルとカール・フレッシュとでピアノ三重奏団を結成していた。1929年にアメリカに演奏活動に出かけ、レオポルド・ストコフスキの指揮するフィラデルフィア管弦楽団とウィレム・メンゲルベルクの指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団と共演してアメリカでの名声を確立。そのままアメリカを活動の本拠とした。1937年にはエドゥアール・ド・ロチルドの娘ジャクリーヌと結婚[3]。フォイアマンの没後は、後任としてヤッシャ・ハイフェッツとアルトゥール・ルービンシュタインの「百万ドル・トリオ」に参加。1941年から1949年までカーティス音楽院、1957年から1962年までボストン大学で教鞭を執り、1962年から没年まで南カリフォルニア大学で後進を育てた。
ロサンゼルスにて死去。