オーシャン島事件

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オーシャン島事件(オーシャンとうじけん)は、太平洋戦争終戦後の1945年8月18日頃に、中部太平洋のオーシャン島(現在のキリバス共和国バナバ島)で、日本軍(海軍第67警備隊オーシャン分遣隊)が、同島占領期間中の島民殺害についての戦犯訴追をおそれ、口封じのために、島に残していたギルバート諸島民約140人ないし160人を殺害した事件。オーストラリア軍ラバウル裁判で、同分遣隊の鈴木司令官以下4人ないし8人が死刑判決を受けた。

事件の経緯

日本軍による占領

1942年8月、日本海軍の陸戦隊は、当時英領だったオーシャン島(現在はキリバス共和国に属し、地名はバナバ島)を無血占領し、同月末にトラック諸島から派遣された第41警備隊の陸戦隊が同島に上陸して、マーシャル方面防備隊による軍政が実施された[1]

日本軍の占領当初、オーシャン島にはバナバ島の原住民約700人、ギルバート諸島など他の島々から来ていたリン鉱石の採掘労働者とその家族約800人がいたとみられている[2][1]

翌1943年2月15日に海軍の組織編成が改定され、第4・第6根拠地部隊の現派遣員によって第67警備隊(司令・竹内武道大佐)が編成された。同警備隊は新編の第3特別根拠地隊(3特根)に編入され、ナウル島に本部を置いて、ナウル島とオーシャン島の防備を担当することになった。オーシャン島では同警備隊分遣隊の指揮官にほぼ全権が任されていた。[1][3]

島民の移送

日本軍の占領以前、ナウル島やオーシャン島では、英国リン酸塩委員会English版(BPC)がリン鉱石を採掘しており、多くの島民は採掘労働者だった。このため日本軍の占領当初から食糧が不足していた。[4]

オーシャン島は面積が小さく、軍用飛行場の建設などは不可能だったため、日本軍は専ら連合軍の上陸作戦に備えて防御陣を建設することを任務としていた[5]。上陸地点になりそうな砂浜には6インチ海軍砲と機関銃の砲座が配備されており、鋼鉄のレールなどの障害物も配置されてあった。日本軍はその内側の防禦線として電流網のシステムを設置し、その他に地雷原を設けるなどしていた。[6]

第67警備隊オーシャン分遣隊は、食糧が自給できず、また戦闘の妨げとなるため、島民を順次、タラワ島カロリン諸島クサイエ島(コスラエ島)、ナウル島などへ移送した[7][8][9]

  • 中島 (1986 8)によると、日本軍は、バナバ人全員とギルバート諸島人の一部をクサイエ島へ送り、約200人のギルバート諸島人を漁民としてオーシャン島に残し、残りのギルバート諸島人をナウル島とタラワ島に移送した。
    • ナンシー・ヴィヴィアニ(Nancy Viviani)『ナウル』(ハワイ大学出版局、1970)に、1943年7月に日本海軍がオーシャン島からナウルへギルバート諸島民659人を移送してきた、とある由(同書)。
  • 西野 (1986 12)は、オーシャン島に住んでいたギルバート・エリス諸島民が1943年中に3回に分けてコスラエ島、ポナペ島、タラワ島などへ送られたことは確かだが、正確な人数は明らかでない、としている。
  • 奈良 (1987 97)は、一部をトラック諸島へ送った、としており、食糧の確保を目的とした場合、ナウル島へ移送するのはおかしな話、としている。

1943年(昭和18)8月中頃、第67警備隊の分遣隊長として鈴木直臣少佐がペナンから着任した[10]。同月頃、島には300人ほどの島民が残っていた[9]。鈴木少佐は、まだ残っていた女性や子供・老人をクサイエ島へ移送し、島には青年が140人残った[9]

  • 奈良 (1987 94-95)によると、鈴木少佐は、ペナンで日本の貨物輸送船が爆破されたり、テロ行為に遭ったりして苦労した経験があり、原住民は敵性だ(いざとなったら連合軍につく)と考えていて、全く信用していなかったという。
  • 西野 (1986 12)によると、多くの資料では、日本軍がオーシャン島に残したギルバート・エリス諸島民の人数は、160人または200人とされている。

戦況の悪化と孤立

1943年(昭和18)9月頃から、連合軍はギルバート諸島(マキン島、タラワ島)への上陸を前に大規模な空襲を行い、オーシャン島は外界との接触を断たれた[3]

同年11月、ギルバート諸島に連合軍が来攻し、日本軍は全滅した。第67警備隊は、3特根配下からクェゼリンの第6特別根拠地隊(6特根)の配下に転属した。[3]

同年12月に米軍はタラワ島に基地を建設し、オーシャン島は食糧の補給が不可能な状況に置かれた[11]

1944年(昭和19)2月にクェゼリンの日本軍も全滅。第67警備隊は、6特根配下からトラック島の第4特別根拠地隊(4特根)の配下に転属した。[3]

オーシャン島は、連合軍の攻撃もなく、日本側からも見放されたような状況になって孤立し、水や食料、医療品が欠乏した状態が続いていた[1][12]

ナベタリの脱出

1944年4月頃、ギルバート諸島ニクナウ島出身の島民・ナベタリら7人が、3隻のカヌーで出漁し、そのまま約240マイル東方のギルバート諸島を目指してオーシャン島からの脱出をはかった[13]

  • ナベタリの証言によると、脱出の直接の動機は、同月、島にいたギルバートエリス諸島民に対して、日本軍がその人数と同じくらい多くの穴を掘れ、と命令したことだった。彼等は、それまでに島民が墓穴の端で処刑されるのを見ていたことから、(自分たちが殺害されると)恐怖を感じ、脱出を決意した。[13]

途中、他の2隻のカヌーは行方不明になり、乗っていたカヌーが転覆した際に同乗者が行方不明になったが、ナベタリはカヌーを修復して1人で漂流を続け、7ヵ月後の同年11月にアドミラルティ諸島English版マヌス島近くにあるニニゴ島のリーフに漂着した[13][14]

ナベタリは島民に発見され、マヌス島のオーストラリア軍病院に入院して健康を回復し、当局によりタラワ島へ移送された。タラワでは、ギルバート・エリス諸島植民地行政官のウェークフィールド少佐がナベタリを預り、オーシャン島の日本軍の人数や火力、BPCの建物・工場の被害状況などについて聴取した。また同島に残された6人のヨーロッパ人について、2人が死亡し、4人も行方不明のため死亡したと思われることなども聴取された。[15]

  • 奈良 (1987 99)は、ナベタリがオーシャン島の防備の状況などを明かしたため、ある時期からオーシャン島への爆撃が正確に行われるようになった、としている。

ポツダム宣言の傍受

1945年に入ると、戦局は更に悪化してオーシャン島では食糧や油・(バッテリーに使う)硫酸などの物資が欠乏し、夜間に発電機を回して4特根と連絡を取っていた。鈴木少佐は通信出身で、短波ラジオを聞いており、連合軍の宣伝放送なども傍受していた。[16]

終戦前後になると、ポツダム宣言の受諾をめぐる交渉の進展状況なども傍受され、鈴木少佐は、その中でも原爆の投下と戦犯の処罰の宣伝にショックを受けていた様子だった。部下に対して、原爆を投下するのは戦争法規違反で、それならこちらは捕虜など全部斬るという条件で政府は3回目の原爆を落さないように交渉すべきだ、と話をしたこともあった。[17]

鈴木少佐は、戦犯が処罰されることをおそれている様子だった。鈴木少佐は、島に残っていたレブラ(ハンセン病)患者に青酸カリを飲ませて殺害していた。また、島民の中で犯罪を犯した者を、島の防衛用の電流網を使って死刑にしたことがあった。こうした話は、島民にもよく知られていた。[18]

島民虐殺事件

終戦直後の隊務会報の際に、鈴木少佐は、島民を処刑(殺害)したい、と話をした[18]。奈良は、島民を生かしておいても大丈夫だ、やらない方がいい、と話をしたが、他の准士官以上の隊員からは鈴木少佐や奈良に対して何も意見がなかった[18]

その2日後(1945年8月17日?)に奈良は鈴木少佐から島民を各部隊に引き渡すよう指示を受け、各隊に引き渡された島民は全員銃殺された[18][1]

  • シソンズ (2002a )は、同月19日夜に鈴木隊長が指揮下の4個中隊に島民の殺害を命じ、翌日(20日)、集合させられた島民は、5班に分けられ、目隠しをされ、海岸の崖の上で次々に銃殺された、としている。

戦犯調査

1945年10月、オーシャン島で日本軍降伏式典が行われ、ギルバート・エリス諸島植民地行政官のウェークフィールド少佐はナベタリとともに英国旗の掲揚式に出席した。またアルバート・エリスオーストラリア軍に伴われ、ニュージーランド政府代表として同式典に出席した。[19]

このときアルバート・エリスは、旧知の間柄で、日本軍占領当初オーシャン島に居て、その後、他の島へ移送され、戦後オーシャン島に戻っていた、ギルバート・エリス諸島出身のルシア牧師とマヌエラ特務曹長から、日本軍占領中の体験談を聴いた[20]

ルシア牧師の話

エリス諸島ツバル)北端のナヌメア島の出身で、オーシャン島でロンドン伝道協会English版の責任者をしていたルシア牧師は、日本軍が上陸した数日後、家に来て掠奪をした日本兵に抗議したところ、連合軍のシンパとして逮捕・監禁され、処刑されそうになった。数日後に島にやってきた日本人医師が警備隊司令官に処刑の中止を申し入れてくれ、助命されたが、伝導を禁止された。その後、日本人の学校教師の協力により、大幅な自由が認められるようになった。[21]

あるとき、数人の原住民が打ち首で処刑されることになり、ルシア牧師も他の島民全員とともに現場に立ち会うよう命令された。その後、ルシア牧師は多くのギルバート・エリス諸島民とともにコスラエ島へ移送された。[21]

マヌエラ特務曹長の話

ルシア牧師と同じナヌメア島の出身で、オーシャン島でサーフボートの乗組員から船長となってBPCと取引を続け、その後ギルバート・エリス植民地保安警察隊に加わったマヌエラ特務曹長は、日本軍上陸の約1ヵ月後に、島内の4つの村落で或る種の国民会議が開かれ、日本人の指示の下で原住民は整列させられ、日本の国旗に向かって3回最敬礼をさせられた。[22]

4人の住民は、少量のを盗んだために打ち首になった。2人のタビテウエア島民、1人のマイアナ島出身の青年、1人のクォーターの青年の4人が、墓穴の前で両手を背にして踞る姿勢をとらされ、日本軍によって首を切られて処刑された。その現場にはオーシャン島の全ての住民が召集され、処刑の様子を見せられていた。[21]

また別のエリス諸島出身者は、日本兵が、彼の私物が入っている箱をかきまわしているのをみて抗議したところ、銃剣で刺されて重傷を負い、翌日死亡した[21]

日本軍は、目隠しをした3人の原住民を「電流の通じているワイヤー」の防禦網に追い詰めて、感電死させたこともあった[21]

島民虐殺事件の調査

オーストラリア軍とアルバート・エリスは、ナベタリが島を脱出した当時、島に残されていたギルバート諸島民約160人の行方について、日本軍守備隊の数名の将校に質問した。このとき、(鈴木)司令官は自発的に、原住民はリーフで魚を捕るために与えられていた爆弾をいくつも隠し持っており、それを使って日本人を攻撃する陰謀を進めていたため、日本軍は原住民をボートハーバー近くの海岸へ連れて行って全員を射殺し、遺体を海に投棄したと陳述した[22]

  • アルバート・エリスは、ギルバート諸島民が完全武装していて人数も多い日本軍に対して攻撃を企てたという説明は信じがたい、と考えた。そこでマヌエラ特務曹長にも残された住民の行方について質問したが、マヌエラは、1943年10月2日以降、米軍の哨戒機が毎日飛来していた中、他島に移送されたとは考えにくく、全員殺害されたと思うと答えた。[22]
  • 奈良 (1987 101)によると、鈴木少佐は、戦犯訴追に対して、島民が暴動を起そうとしていることを事前に察知して捕捉殲滅したと説明することを強硬に主張したという。奈良は、その主張はダメだ、腹を決めて自分が決めたことだから中隊長以下には責任がないと言って欲しいと伝えたが、受け入れられなかった。そこで戦犯裁判では意思統一をはかり、鈴木の主張が正しいと主張することになった。

終戦後、第67警備隊の隊員は、ソロモン諸島タロキナブーゲンビル島)の収容所からピエズ島の収容所へ送られ、オーストラリア軍の管理下に置かれた[23]

  • ピエズ島ではマラリアが流行し、3-4割の人が被害を受けた(罹患した?)という[23]

島民殺害事件はオーストラリア軍ラバウル裁判で裁かれることになった[24]

カブナレの証言

1945年12月、島民虐殺事件から4ヶ月ほど経ってから、殺害を免れたニクナウ島出身の住民・カブナレが現われ、ウェークフィールド少佐を通じてアルバート・エリスにもその証言が伝えられた。[25]

  • 1945年8月18日に、カブナレは他の7人とともにタビアン村(Tapiwa?)下の断崖の上に連行され、両手を背後で縛られ、目隠しをされて、互いに寄り添って断崖の端にしゃがませられた。1人の住民に兵士1人が付いていた。そのときカブナレは誰かが刺されたような強い叫び声を聞いて、それと同時に無意識に崖から転落した。転落後に銃撃を受けたが弾は当らず、浅い海中で、死んだ振りをして日本兵が去るのを待った。その後、両手を縛っていたロープを岩でこすって切断し、湾内の洞窟のくぼみによじ登って身を隠した。[25]
  • その後しばらく、日本軍は海岸で原住民の遺体を集め、ランチで外洋に運んで捨てる作業をしていたが、カブナレは状況を知らずに洞窟内に隠れ続け、その後、夜間に内陸部の洞窟へ移動し、ココナッツを取って暮らす生活を3ヶ月続けていた。[26]
  • 同年12月2日に、高い木に登って島内の様子を観察していたとき、トラックに乗っている人々がギルバート諸島民だと確認して木を下り、声を掛けて発見・保護された。[26]
  • カブナレは、入院して体調が回復した後、ウェークフィールド少佐を事件の現場に案内し、その後、ナウル島からトロキナ(タロキナ)またはラバウルへ飛行機へ移動して、日本兵の残虐行為について証言することになった。[27]

戦犯裁判

  • 生き延びた島民(カブナレ?)によって収容所に収容されていた部隊幹部らが特定され、戦犯訴追を受けた[23][1]

鈴木隊長、4人の中隊長と、うち1中隊の3小隊長の計8人が死刑判決を受けた[28]

  • シソンズ (2002a )は、鈴木隊長以下4人が死刑、11人の将校と2人の准士官が有期刑に処せられた、としている。
  • 井上ほか (2010 394)は、鈴木隊長に死刑判決が下された、としている。
  • 奈良は1審で死刑判決を受けたが、書類審査で20年の有期刑に減刑され、1953年に日本に帰国。帰国後3年間巣鴨拘置所に収監され、その後釈放された。[29]

付録

関連文献

  • 大槻巌『ソロモン収容所』図書出版社、1985、JPNO 86004982
  • エリス (1946) サー・アルバート・エリス『中部太平洋の前哨点』
    • Sir Albert Ellis, Mid-Pacific Outposts Auckland, Brown and Stewart Ltd., 1946[30]
  • 『ツヴァル史』南太平洋大学
    • Simati Faaniu, Tuvalu: a history, editorips@usp.ac.fj, 1983, GoogleBooks:NWaSHqXlS30C

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 中島 1987 92
  2. 中島 1986 8 - 「パシフィック・アイランズ・イヤーブック』のキリバスの項」による(版次不明)。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 奈良 1987 92
  4. 奈良 1987 96-97
  5. 西野 1986 13
  6. 西野 1986 13 - エリス (1946 )による。
  7. 中島 1986 8
  8. 西野 1986 12
  9. 9.0 9.1 9.2 奈良 1987 97
  10. 奈良 1987 94,97
  11. 西野 1986 15
  12. 奈良 1987 98-99
  13. 13.0 13.1 13.2 西野 1986 17 - エリス (1946 )による。
  14. 奈良 1987 99は、6人で脱出し、途中5人が死亡した、としている。
  15. 西野 1986 17-18 - エリス (1946 )による。
  16. 奈良 1987 99
  17. 奈良 1987 99-100
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 奈良 1987 100
  19. 西野 1986 15,18 - エリス (1946 )による。
  20. 西野 1986 8-15
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 西野 1986 15 - エリス (1946 )による。
  22. 22.0 22.1 22.2 西野 1986 16 - エリス (1946 )による。
  23. 23.0 23.1 23.2 中島 1986 9
  24. 奈良 1987 95
  25. 25.0 25.1 西野 1986 18 - エリス (1946 )による。
  26. 26.0 26.1 西野 1986 18-19 - エリス (1946 )による。
  27. 西野 1986 19 - エリス (1946 )による。
  28. 奈良 1987 105
  29. 奈良 1987 91,104
  30. 西野 1986 8

参考文献

  • 中島 (1987) 中島洋「オーシャン島事件の概要」太平洋学会『太平洋学会学会誌』no.36、1987年10月、p.92、NAID 110001366091
  • 奈良 (1987) 奈良賀男(述)「太平洋戦史研究部会報告(6) われらポツダム戦争を戦えり - オーシャン島の日本海軍」太平洋学会『太平洋学会学会誌』no.36、1987年10月、pp.91-107、NAID 110001366090
  • 西野 (1986) 西野照太郎「オーシャン島の日本軍 - 太平洋戦争の知られざる一断面」太平洋学会『太平洋学会学会誌』no.31、1986年7月、pp.8-21、NAID 110001366625
  • 中島 (1986) 中島洋「ナウル、オーシャンの日本海軍」太平洋学会『太平洋学会学会誌』no.30、1986年4月、pp.8-9、NAID 110001366595

あまり参考にならなかった文献