ウィルマ・コザート
ウィルマ・コザート(Wilma Cozart, 1927年3月29日 - 2009年9月21日)は、アメリカはアバディーン生まれのレコーディング・プロデューサー。
コザートは1927年3月29日、アメリカ、ワシントン州西部のアバディーンに自動車機械工の娘として生まれた。そしてテキサス州のフォートワースで育った。彼女は音楽とビジネスをデントンの北テキサス州立大学で学んだ。そして卒業後、幸運なことに、アンタル・ドラーティの個人秘書の職を得た。職業の実態は、彼女はドラーティの秘書ではなく、楽団の事実上のマネージャーであった。 ドラーティがミネアポリス交響楽団に移ると、彼女もドラーティとともにミネアポリスに移った。しかし、すぐにドラーティの勧めで、ニューヨークのマーキュリーに雇われた。
マーキュリーはポップ音楽のレーベル(マイケル・ジャクソンの録音もあり、一部は彼女が手がけた)として知られていました。コザートは素晴しい録音技能を持っていただけではなく、素晴しいマーケティングセンスの持ち主であった。彼女はオーケストラ音楽をレーベルに加えてくれるようグリーン社長に訴ったえた。それは社長の故郷であるシカゴのシカゴ交響楽団と録音契約を結ぶことであった。 こうして、コザート弱冠23歳のとき(1950年)にシカゴ交響楽団はと録音契約を結んだ。
モノラル録音時代、マーキュリーはたった1本のマイクで収録していた。それはテレフンケン(ノイマンU-47)の全指向性マイクロフォンをオーケストラの最前列の25フィート(7メートル62センチ)上において収録した。マーキュリーはこのマイクの位置こそが自然なポジションで全ての楽器の音を拾い上げることが出来る位置だと考えた。ちなみに同時期のRCAのトスカニーニの録音ではトスカニーニ頭上3メートルに置かれたマイクが収録位置であった。
1951年の初め、ムソルグスキーの「展覧会の絵」のLPはアルトゥール・ロジンスキー指揮のニューヨーク・フィルのみが存在していた。そこで、マーキュリーはこの曲で勝負に出た。それは同時にコザートの最初のセッションとなった。 最初の彼女とシカゴ交響楽団とのセッションは、ムソルグスキーの「展覧会の絵」であった。指揮はラファエル・クーベリック、1951年4月のことであった。 この時の録音は同じ年、1951年の秋に発売され、センセーショナルな話題を巻き起こした。たった1本のマイクロホンだけで収録されたその音は、実際に演奏されているがごとくの音をもたらした。
評論家は、「それを聞いていると、あたかもそこで演奏をしているがごとく感じる!」と賞賛した。 録音の際、録音レベルは最大になるよう細心の注意を払った。しかしマイクからマスターテープの間にはリミッターとフィルターは用いられなかった。
この時のサウンド・エンジニアはC.ロバート・ファインで、後に1957年に2人は結婚し4人の男子をもうけた。 1997年、ウォール・ストリート・ジャーナル紙のインタビューに次のように答えている。「わたしたちは、わたしたちの録音を可能な限り作曲家の意思に近づくように努力しました」。
コザートのリーダーシップの下、マーキュリーは、デトロイト交響楽団、イーストマン・ウィンド・アンサンブル、ミネアポリス交響楽団と契約を結んた。 この影にはコザートがドラーティの秘書をしていたことが大きく影響している。でなければ、マーキュリーのような小さなレーベルが大きなオーケストラと録音契約をすることが出来なかった。 この最中、残念な知らせが舞い込む。シカゴ交響楽団の指揮者にフリッツ・ライナーが就任した。 今と違って、指揮者や楽団はレーベルをまたいでの録音は出来なかった。ライナーはRCAの配下にあった。つまりライナーの指揮者就任は、今後シカゴ交響楽団との録音ができないことを意味していた。
ドラーティの指揮での、チャイコフスキーの「1812年序曲」はウェストポイントで録音された実際の大砲を用いて収録している。最初の収録(1954年)はモノラルであったが、後にステレオ収録(1958年4月収録)されたレコーディングは大きな商業的な成功を収めた。 1963年までに100万枚が売れ、1990年までに200万枚が売れました。 コザートはマーキュリーのマーケティングと品質管理ならず、マーキュリーの録音のほぼ全てをマネージした。
コザートの最初のステレオ録音は1955年で、デトロイト交響楽団であった。3本のノイマン、U-47コンデンサ・マイクロフォンが使われた。 レーベルでのステレオ録音の最初は、1953年で、ロバー・E.ブレーク、ドン・ガボールのレミントン・レーベル、1954年にRCAとデッカ(ロンドン)が行った。 1950年代後半にステレオ録音一般的になったとき、コザートのマイクロホン技術は3つ(左右とセンター)に拡大した。 コザートの夫、ファインが録音した3本のマイクロフォンから音をコザートがコンソールを操作しミキシングを行った(2チャンネル化した)。 また、彼等も最初は、一般的な記録媒体であったテープを用いていた。しかし、1950年代後半から、録音は映画で用いられている、35ミリフィルムでするようになった。 当時の録音は今のようにデジタルではなく、すべてアナログであった。情報量の多さが高音質につながる。 高音質にする方法は2つである。テープ・スピードを早くするか、テープ幅を広くすることである。彼等はテープ幅を広くすることを選んた。 彼等の録音は、ステレオ録音の場合、左右センターのマイクを用いて、途中、ミキサーなど一切の余分な装置を通すことなく、テープもしくは、35ミリフィルムに記録した。 映画のサウンド・トラックで用いられていた35ミリフィルムに録音を行った理由について以下のように述べている。デジタル録音も、ドルビーなどのノイズ低減装置もなかった当時、35ミリフィルムへの収録こそが、テープヒスノイズをなくすと考えた。また当時のハーフインチテープの幅の3倍の35ミリフィルムで収録することは、周波数レンジの拡大や、各チャンネル間での音の漏れを防ぐと考えていた。 そして、当時のLPレコードであれば、これまたマスター・テープから一切イコライジングすることなく、LPマスターが作られた。 なお、インタビューでも答えているように、スプライシング(つなぎ合わせ)は行ってる。オーケストラは時たまミスをする。ミスをしたときはその部分を修正してつなぎ合わせたと述べている。
マーキュリーには、あたかもステージに直面していて、我々がコンサート・ホールの椅子で聴いているかのようである。 これはミネアポリスとデトロイトで作られたレコーディングで特に明白である。 ロンドンで作られたレコーディングはより大きなコンサート・ホールの椅子での異なる音響効果を示している。
1964年、コザートはマーキュリーを去る。それは4人の息子(クリストファー、マシュー、トーマス、及びジョン)を育てるためであった。
1989年、コザートは録音の世界に舞い戻っています。それは、新しい記録媒体、CDが登場したからである。これに先立つこと1982年に夫であるC.ロバート・ファインが亡くなった。ファインには前妻との間に娘Dugieとロバートがいた。 彼女は、真空管のマスター録音機を再調整した。このアンペックスの真空管録音機の調整には6ヶ月の期間を要した。マスターテープから「リヴィング・プレゼンス」シリーズを作った。昔と変わらぬ、イコライジングなど一切使わずに、3チャネルの音をミックスし、2チャンネルにし、DATレコーダーに記録しなおした。彼女自身の手によるCD化は200本以上ものテープにのぼりった。 コザートはCD化にとりかかる様子について次のようにインタビューに答えている。 まず、彼女は、何度もLPを聴き、録音当時の記憶を呼び戻した。そして作家と同じように人との接触を避け、集中力を高めていった。ファインはいつもサンプリング・レートが低すぎるといっていました。しかし、CDはLPよりもっとオリジナル・テープに近い。 CD化はマスター・テープからDATに移され。16ビット、サンプリング周波数は44.1khzであった。
コザートは再び音楽の世界に戻ったことをこう答えている。「あまりにもたくさんの人々がマーキュリー・アルバムからクラシック音楽を学びました。今、私たちは新しい世代にこのマーキュリーが届くことを希望している」と。
コザートは2009年9月21日に82歳でニューヨーク、ハリソンの自宅で亡くなった。この日は月曜日であった。 彼女が生涯製作した「リヴィング プレゼンス」シリーズのクラシックは400を越えるものとなった。
しかし、最近のSACDシリーズはコザートによってなされなかった。
1967年に、最後のマーキュリー・リヴィング・プレゼンス録音が作られてた。
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