西山広喜
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西山 広喜(にしやま こうき、1923年 - 2005年2月24日)は、宮崎県出身の右翼で、政財界をつなぐフィクサーとして知られた。日本政治文化研究所理事長。
概観[編集]
日本社会党宮崎県委員会青年部長から、部落解放同盟のリーダー松本治一郎の養子・松本英一と親交があった縁で社会党本部に移り松本治一郎秘書。その後、治一郎の紹介で大物右翼の三浦義一の知遇を受け、三浦の片腕である関山義人の大日本義人党で活動。1961年、義人党から独立し、昭和維新連盟を結成し、初代会長になる。
伊藤忠商事、野村證券、ヤクルト本社のトラブルに暗躍。総会屋で『現代の眼』主幹だった木島力也とは刎頚の友であり、児玉誉士夫や広域暴力団ともつながりがあった。松本信一(元太陽ファーマーズ社長)は門下生にあたる
1987年9月23日の朝日新聞によれば、1982年の中曽根康弘内閣成立の影にも暗躍したと報道された。1993年にオープンした宮崎県の大リゾート施設シーガイア建設に際し、第一勧業銀行宮崎邦次頭取から1000億円の融資を引き出した事でも知られる。
2005年2月24日午後0時50分、肝不全のため、東京都中央区の病院で死去、享年81。