葉隠

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葉隠」(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。葉可久礼とも書く。

概要[編集]

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、当時の大和魂など精神主義の風潮が高まると再評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は、巻頭にこの全十一巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く禁書の扱いで覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。二人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳の事という。

浮世から何里あらうか山桜    常朝

白雲やただ今花に尋ね合ひ    陣基

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」[編集]

葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と曲解されあるいは解釈されている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻玉砕自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をする者が認められる。

しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の中には嫌な上司からのの誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。また衆道男色)の行い方を説明した記述等、近代人が勝手に想像している『武士道』とはかけ離れた内容もある。 戦後、軍国主義的書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。

なお、戦後も葉隠を愛好した文学者に純文学三島由紀夫、大衆文学の隆慶一郎がおり、二人ともそれに取材した作品を書いている。三島の『葉隠入門』、隆の『死ぬことと見つけたり』(いずれも新潮文庫)である。両作品は葉隠の入門書としても知られている。

書名の由来[編集]

本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。

刊本[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]