井上孝哉
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井上 孝哉(いのうえ こうさい、1870年 - 1943年)は、日本の官僚・政治家。元衆議院議員。岐阜県出身。岐阜中学(現在の岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。
経歴[編集]
東京帝国大学卒業後、高等文官試験行政科に合格。内務書記官などを経て、1908年に佐賀県知事に就任。1917年、富山県知事に就任。1919年、神奈川県知事に就任。1936年、大阪府知事に就任。1937年、内務次官に就任した。
- 明治 3年 岐阜県本巣郡席田村郡府に生まれる
- 明治30年 東京帝國大学法学部卒
- 明治30年 内務省入り
- 明治30年 群馬県議会議員小野茂兵衛の末子八重子と結婚。八重子の姪新井三枝子は福田赳夫の妻
- 明治39年 神奈川県警察部長
- 明治42年 佐賀県知事
- 明治43年 東洋拓殖株式会社理事。朝鮮渡航、以降八年余を朝鮮半島の振興に尽力する。
- 大正 6年 富山県知事
- 大正 8年 神奈川県知事
- 大正 9年 岐阜県選挙区より衆議院議員選挙に出馬。当選、以降4期連続当選
- 昭和11年 大阪府知事
- 大正12年 内務次官。この年関東大震災が起こり、陣頭指揮をとる。
- 昭和 7年 政界を引退。以降政友会岐阜県支部長、政友会顧問として党活動に従事する
- 昭和19年 没。享年72歳
大正8年ごろ現職の知事も衆議院議員に立候補できる制度が制定された。当時この制度を利用していたのは井上孝哉と三重県出身の宮田光雄の2名だけであった。
関連する人物[編集]
井上孝哉の親友には天皇機関説で知られる美濃部達吉や立作太郎、筧克彦、俵国一ら東京帝國大学出身でそれも学者が多かった。学生時代井上孝哉だけが東京森川町に自宅を持っていたので、そこに集まり親交を深めたという。
妻の八重子は東京の跡見女学校を卒業後、17歳で孝哉と結婚。三男四女をもうけ昭和16年3月62歳で他界した。昭和13年愛国婦人会理事に就任。他界するまで東伏見宮妃殿下の側近として活躍する。