関東軍
関東軍 | |
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新京の関東軍司令部 | |
創設 | 1919年(大正8年)4月 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
再編成 | |
廃止 | |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 総軍 |
兵科 | |
兵種/任務/特性 | |
人員 | |
所在地 | 満州 |
編成地 | 旅順 |
通称号/略称 | 徳 |
愛称 | |
標語 | |
補充担任 | |
上級部隊 | |
最終上級部隊 | |
担当地域 | 当初は南満州鉄道附属地 満州事変以降は満州 |
最終位置 | 満州 新京 |
主な戦歴 | 満州事変-ノモンハン事件- 第二次世界大戦(ソ連対日参戦) |
特記事項 | |
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概要
日本の中国からの租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍として独立する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。
張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。
また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。
また、関東軍は、阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織を作った。
歴史
日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立した。当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成。
1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官(後に総司令官)は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、満蒙(ノモンハン事件)国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年、満州国の首都新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。
一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、革命ソ連の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実にソビエト連邦軍極東軍の増強を続けていた。1938年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では、関東軍自身が対決して大きな損害を被り、日本陸軍内で北進論が弱まる契機となった。
なお戦後のある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は日本陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソ連側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、北進の意図を挫くというソ連側の目的は達されたのであるから、戦略的にはソ連軍が勝利したことは疑いないであろう。
これらの武力衝突によりソ連軍の、関東軍にとっての脅威が認識されたことや欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強された。日中戦争勃発前夜の段階で関東軍は独立守備隊5個大隊及び4個師団となっていたが、1941年にはさらに14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は74万以上に達した。精強百万関東軍と言われたのはこの時期である。
しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は南方に移り関東軍からは戦力を抽出され、関東軍も進んで戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。
8月9日に開始されたソビエト連邦軍の侵攻に対して、関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化にしたがって防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。この作戦によって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難されることとなった。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎え、日本の本土では降伏と停戦命令が発せられ、その命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった、伝えられた山田乙三総司令官は「徹底抗戦」を主張する参謀もいる中、夜10時に停戦を決定、戦闘を停止した。
戦後、関東軍将兵は、捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三大将や参謀の瀬島龍三中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎少佐の部隊は、東北民主連軍航空学校を設立し、中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。
関東軍が関係した戦闘・事件等
- 張作霖爆殺事件(1928年(昭和3年)):要人暗殺事件
- 満州事変(1931年(昭和6年)):満鉄付属地外出兵
- ノモンハン事件(1939年(昭和14年)):満蒙国境紛争
- 太平洋戦争末期のソ連軍侵攻(1945年(昭和20年)):日ソ中立条約違反のソ連軍侵攻に対する防衛戦闘
- 東安駅事件:撤退に当たって弾薬を爆破処分。安全確認を疎かにしたため満州から引き揚げる民間人多数が巻き込まれ死傷。
基本情報
- 通称号:徳兵団
- 編制時期:大正8年4月
- 最終位置:満州・新京
関東軍の人事
- 階級は全て就任時のもの
- 総軍制度が設けられたことに伴い、昭和17年10月1日から総司令官、総参謀長、総参謀副長と呼称変更。
- 昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍(総)司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。
司令官
- 立花小一郎 (1919年 - 1921年)
- 河合操 (1921年 - 1922年)
- 尾野実信 (1922年 - 1923年)
- 白川義則 (1923年 - 1926年)
- 武藤信義 (1926年 - 1927年)
- 村岡長太郎 (1927年 - 1929年) - 張作霖爆殺事件
- 畑英太郎 (1929年 - 1930年)
- 菱刈隆 (1930年 - 1931年)
- 本庄繁 (1931年 - 1932年) - 満州事変
- 武藤信義 (1932年 - 1933年)
- 菱刈隆 (1933年 - 1934年)
- 南次郎 (1934年 - 1936年)
- 植田謙吉 (1936年 - 1939年) - ノモンハン事件
- 梅津美治郎 (1939年 - 1944年) - 1942年以後、総司令官。
- 山田乙三 (1944年 - 1945年) - 終戦時の総司令官。ソ連軍によって抑留される。
参謀長
- 浜面又助少将(陸士4期:大正8年4月12日~大正10年3月11日)
- 福原佳哉少将(陸士5期:大正10年3月11日~大正12年8月6日)
- 川田明治少将(陸士10期:大正12年8月6日~大正14年12月2日)
- 斎藤恒少将(陸士10期:大正14年12月2日~昭和3年8月10日)
- 三宅光治少将(陸士13期:昭和3年8月10日~昭和7年4月11日)
- 橋本虎之助少将(陸士14期 昭和7年4月11日~昭和7年8月8日)
- 小磯国昭中将(陸士12期 昭和7年8月8日~昭和9年3月5日)
- 西尾寿造中将(陸士14期 昭和9年3月5日~昭和11年3月23日)
- 板垣征四郎少将(陸士16期 昭和11年3月23日~昭和12年3月1日)
- 東條英機中将(陸士17期 昭和12年3月1日~昭和13年5月30日)
- 磯谷廉介中将(陸士16期 昭和13年6月18日~昭和14年9月7日)
- 飯村穣中将(陸士21期 昭和14年9月7日~昭和15年10月22日)
- 木村兵太郎中将(陸士20期 昭和15年10月22日~昭和16年4月10日)
- 吉本貞一中将(陸士20期 昭和16年4月10日~昭和17年8月1日)
- 笠原幸雄中将(陸士22期 昭和17年8月1日~昭和20年4月7日)
- 秦彦三郎中将(陸士24期:昭和20年4月7日~終戦)
参謀副長
- 岡村寧次少将(陸士16期:昭和7年8月8日~昭和9年12月10日)
- 板垣征四郎少将(陸士16期:昭和9年12月10日~昭和11年3月23日)
- 今村均少将(陸士19期:昭和11年3月23日~昭和12年8月2日)
- 笠原幸雄少将(陸士22期:昭和12年8月2日~昭和12年9月27日)
- 石原莞爾少将(陸士21期:昭和12年9月27日~昭和13年12月5日)
- 矢野音三郎少将(陸士22期:昭和13年12月5日~昭和14年9月7日)
- 遠藤三郎少将(陸士26期:昭和14年9月7日~昭和15年3月9日)
- 秦彦三郎少将(陸士24期:昭和15年3月9日~昭和16年5月9日)
- 吉岡安直少将(陸士25期:昭和16年5月13日~昭和16年7月7日)
- 綾部橘樹少将(陸士27期:昭和16年7月7日~昭和17年7月1日)
- 秦彦三郎少将(陸士24期:昭和16年7月23日~昭和17年7月1日)
- 池田純久少将(陸士28期:昭和17年7月1日~昭和20年7月28日;情報・政策担当)
- 田村義富少将(陸士31期:昭和18年8月2日~昭和19年2月25日;作戦担当)
- 松村知勝少将(陸士33期:昭和20年3月1日~終戦;作戦担当)
- 四手井綱正中将(陸士27期:昭和20年7月29日~昭和20年8月18日;情報・政策担当、赴任途上の台湾で飛行機事故により殉職)
高級参謀・第1課長
※昭和6年10月5日から第1課長
- 香椎秀一(陸士6期:大正8年4月12日~大正8年6月28日)
- 高橋小藤治(陸士9期:大正8年6月28日~大正9年4月1日)
- 竹森正一(陸士11期:大正9年4月1日~大正11年8月15日)
- 松井七夫(陸士11期:大正11年8月15日~大正12年11月10日)
- 黒田周一(陸士14期:大正12年11月10日~大正15年3月2日)
- 河本大作(陸士15期:大正15年3月2日~昭和4年5月14日)
- 板垣征四郎(陸士16期:昭和4年5月14日~昭和6年10月5日)
- 石原莞爾(陸士21期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
- 斎藤弥平太(陸士19期:昭和7年8月8日~昭和8年8月1日)
- 塚田攻(陸士19期:昭和8年8月1日~昭和10年3月15日)
- 下村定(陸士20期:昭和10年3月15日~昭和10年12月2日)
- 坂西一良(陸士23期:昭和10年12月2日~昭和12年3月1日)
- 綾部橘樹(陸士27期:昭和12年3月1日~昭和12年10月30日)
- 安倍克巳(陸士28期:昭和12年10月30日~昭和14年3月9日)
- 寺田雅雄(陸士29期:昭和14年3月9日~昭和14年9月7日)
- 有末次(陸士31期:昭和14年9月7日~昭和15年10月10日)
- 田村義富(陸士31期:昭和15年10月10日~昭和18年8月2日)
- 松村知勝(陸士33期:昭和18年8月2日~終戦)
作戦主任参謀
- 浦澄江中佐(陸士16期:大正12年4月~大正15年3月)
- 役山久義中佐(陸士19期:大正15年8月6日~昭和3年10月10日)
- 石原莞爾少佐(陸士21期:昭和3年10月10日~昭和7年8月8日)
- 遠藤三郎少佐(陸士26期:昭和7年8月8日~昭和9年8月1日)
- 河辺虎四郎中佐(陸士24期:昭和9年8月1日~昭和10年8月1日)
- 綾部橘樹中佐(陸士27期:昭和10年8月1日~昭和12年10月30日)
- 欠員 (昭和12年10月30日~昭和13年3月1日)
- 岡部重一中佐(陸士31期:昭和13年3月1日~昭和14年3月9日)
- 服部卓四郎中佐(陸士34期:昭和14年3月9日~昭和14年9月7日)
- 中山源夫中佐(陸士32期:昭和14年9月7日~昭和15年8月1日)
- 武居清太郎中佐(陸士35期:昭和15年8月1日~昭和18年8月2日)
- 草地貞吾中佐(陸士39期:昭和18年8月2日~終戦)
情報主任参謀・第2課長
※昭和16年10月5日から第2課長
- 桜田武(陸士25期:大正14年8月7日~昭和3年8月10日)
- 花谷正(陸士26期:昭和3年8月10日~昭和4年8月)
- 新井匡夫(陸士26期:昭和4年8月~昭和6年10月5日)
- 板垣征四郎(陸士16期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
- 喜多誠一(陸士19期:昭和7年8月8日~昭和9年8月1日)
- 石本寅三(陸士23期:昭和9年8月1日~昭和10年8月1日)
- 河辺虎四郎(陸士24期:昭和10年8月1日~昭和11年6月19日)
- 武藤章(陸士25期:昭和11年6月19日~昭和12年3月1日)
- 冨永恭次(陸士25期:昭和12年3月1日~昭和13年3月1日)
- 山岡道武(陸士30期:昭和13年3月1日~昭和14年4月20日)
- 磯村武亮(陸士30期:昭和14年4月20日~昭和15年11月9日)
- 甲谷悦雄(陸士36期:昭和15年11月9日~昭和16年2月4日)
- 西村敏雄(陸士32期:昭和16年2月4日~昭和17年8月20日)
- 武田功(陸士34期:昭和17年8月20日~昭和19年10月31日)
- 大越兼二(陸士36期:昭和19年10月31日~昭和20年4月10日)
- 浅田三郎(陸士36期:昭和20年4月10日~終戦)
後方主任参謀・第3課長
※昭和16年10月5日から第3課長
- 竹下義晴(陸士23期:昭和6年10月5日~昭和7年8月8日)
- 原田熊吉(陸士22期:昭和7年8月8日~昭和10年8月1日)
- 永津佐比重(陸士23期:昭和10年8月1日~昭和11年3月15日)
- 竹下義晴(陸士23期:昭和11年3月15日~昭和12年10月13日)
- 磯矢伍郎(陸士29期:昭和14年4月20日~昭和15年8月1日)
- 青木一枝(陸士33期:昭和15年8月1日~昭和16年9月11日)
- 村中嘉二郎(陸士33期:昭和16年9月11日~昭和18年8月2日)
- 中島義雄(陸士36期:昭和18年8月2日~昭和19年2月7日)
- 谷岩蔵(陸士37期:昭和20年1月12日~終戦)
政策主任参謀・第4課長
※昭和16年10月5日から第4課長
- 松井太久郎(陸士22期:昭和6年10月5日~昭和7年2月17日)
- 坂田義郎(陸士21期:昭和7年2月17日~昭和8年8月28日)
- 秋山義隆(陸士24期:昭和8年8月28日~昭和9年8月1日)
- 欠員 (昭和9年8月1日~昭和12年3月1日)
- 片倉衷少佐(陸士31期:昭和12年3月1日~昭和14年8月1日)
- 黒川邦輔中佐(陸士32期:昭和14年8月1日~昭和17年2月14日)
- 小尾哲三大佐(陸士34期:昭和17年2月14日~昭和19年10月14日)
- 原善四郎中佐(陸士40期:昭和19年10月14日~昭和20年8月7日)
- 宮本悦雄大佐(陸士38期:昭和20年8月7日~終戦)
報道部長
※報道部長は参謀の発令を受ける
- 甲谷悦雄(陸士36期:昭和15年8月1日~昭和15年11月9日)
- 長谷川宇一(陸士32期:昭和15年12月2日~終戦)
経理部長
- 佐野会輔:主計総監(昭和5年12月22日~昭和8年8月1日)
- 鈴木熊太郎:一等主計正(昭和8年8月1日~昭和11年12月1日)
- 矢部潤二:主計監(昭和11年12月1日~昭和14年8月1日)
- 古野好武:主計少将(昭和14年8月1日~昭和20年7月5日)
- 栗橋保正:主計中将(昭和20年7月5日~)
軍医部長
- 伊藤賢三:軍医監(昭和6年8月1日~昭和9年3月5日)
- 梶井貞吉:軍医監(昭和9年3月5日~昭和10年8月1日)
- 石黒大介:軍医監(昭和10年8月1日~昭和11年8月1日)
- 出井淳三:軍医総監(昭和11年8月1日~昭和13年3月1日)
- 斎藤干城:軍医少将(昭和13年3月1日~昭和14年12月1日)
- 梶塚隆二:軍医少将(昭和14年12月1日~)
法務部長
- 大山文雄(昭和4年6月21日~昭和7年12月19日)
- 竹沢卯一(昭和7年12月19日~?)
- 匂坂春平 陸軍法務官(昭和13年1月20日~昭和15年3月29日)
- 松本倭文雄 法務少将(昭和15年3月29日~昭和20年4月20日)
- 小幡通徳 法務少将(昭和20年4月20日~終戦)
補給監
※補給監は昭和17年10月20日に新設され、参謀長が兼任した
補給監部参謀長
- 高田清秀大佐(陸士29期:昭和17年10月20日~昭和18年8月2日)
- 田村義富少将(陸士31期:昭和18年8月2日~昭和19年2月25日)
- 佐藤傑少将(陸士29期:昭和19年2月25日~終戦)
特種情報部長
※昭和13年8月1日に参謀部第2課別班として設置され、研究部と俗称された。
※昭和16年5月15日に特種情報部に改編
※昭和19年6月30日に特種情報隊に改編
- 大久保俊次郎大佐(陸士24期:昭和13年8月1日~昭和17年8月1日)
- 深堀游亀少将(陸士28期:昭和17年8月1日~昭和18年6月10日)
- 小松巳三雄大佐(陸士29期:昭和18年6月10日~終戦)
築城部長
※創設当初は関東軍参謀部第2別班と称した
※昭和16年5月31日築城部へ改編
※昭和20年5月25日建設団へ改編
- 前田正実大佐(陸士25期:昭和12年7月5日~昭和13年2月1日)
- 河田末三郎大佐(陸士28期:昭和13年2月1日~昭和17年8月10日)
- 久保禎三少将(陸士28期:昭和17年8月10日~昭和18年6月10日)
- 花井京之助大佐(陸士32期:昭和19年7月15日~終戦)
化学部長
※昭和14年8月1日に技術部から独立
- 勝村福治郎大佐(陸士27期:昭和14年8月1日~昭和14年11月1日)
- 小柳津政雄大佐(陸士28期:昭和14年11月1日~昭和15年12月2日)
- 宮本清一大佐(陸士29期:昭和15年12月2日~昭和18年1月18日)
- 山脇正男少将(陸士28期:昭和18年1月18日~昭和19年6月20日)
- 秋山金正少将(陸士30期:昭和19年6月20日~昭和20年7月28日)
- 丹羽利男大佐(陸士34期:昭和20年7月28日~終戦)
防疫給水部長
※関東軍防疫給水部の項参照
軍馬防疫廠
- 高島一雄:一等獣医正(昭和11年8月1日~昭和15年3月9日)
- 並河才三:獣医中佐(昭和15年3月9日~昭和17年7月1日)
- 若松有次郎:獣医大佐(昭和17年7月1日~終戦)
大陸鉄道司令官
※関東軍野戦鉄道司令官として設置
※昭和19年12月16日大陸鉄道司令官と改称
- 舞伝男少将(陸士19期:昭和12年8月20日~昭和14年3月9日)
- 草場辰巳中将(陸士20期:昭和14年3月9日~昭和15年10月1日)
- 横山鎮雄中将(陸士24期:昭和15年10月1日~昭和17年6月26日)
- 木村経広中将(陸士23期:昭和17年8月31日~昭和18年12月27日)
- 鎌田銓一少将(陸士29期:昭和18年12月27日~昭和19年12月16日)
- 草場辰巳 予備役中将(陸士20期:昭和19年12月16日~終戦)
その他の主要な参謀
(順不同:主任参謀(課長レベル)になっていない者)
- 辻政信
- 田中隆吉
- 瀬島龍三
- 小林隆
- 中野良次
(注)網羅的な資料が存在しないため、関東軍のすべての参謀の氏名を把握することはできない。
関東軍総司令部の編制
※カッコ内は通称号
- 参謀部
- 第1課
- 第2課
- 第3課
- 第4課
- 経理部
- 軍医部
- 獣医部
- 法務部
- 補給監部
終戦時の所属部隊
その他
- 慣用句として
- 関東軍が中央政府のコントロールに従わずしばしば独自の行動をとったことから、中央の方針に従わず勝手に行動するグループや、開拓民を見捨てたこと(誤解説もある)から弱者を見捨てる人のことを「関東軍」に例えたりすることがある。
- (用例)取締役会の意向を無視して勝手に暴走する○○事業部は我が社の関東軍だな。
参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍<2>関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社
- 小林英夫著『満州と自民党』(『新潮新書』)、新潮社、2005年11月。ISBN 4-10-610142-4
- 太平洋戦争研究会編 / 森山康平解説『写説満州』、ビジネス社、2005年10月。ISBN 4-8284-1221-2
- 太平洋戦争研究会編著『満州帝国』(『河出文庫』)、河出書房新社、2005年11月。ISBN 4-309-40770-6
- 中見立夫ほか著 / 藤原書店編集部編『満洲とは何だったのか』、藤原書店、2004年7月。ISBN 4-89434-400-9
- 村瀬守保著『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録-村瀬守保写真集』新版、日本機関紙出版センター、2005年3月。ISBN 4-88900-836-5