手取川の戦い

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手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日1577年11月3日)に加賀国手取川において上杉謙信軍が織田信長軍に大勝したとされる合戦

この戦いは上杉方の史料にのみ見ることができ、『信長公記』には天正5年に織田軍と上杉軍とが交戦した記録は存在しない(天正6年の月岡野の戦いでの勝利は記録されている)。また、同じく信長公記では、天正5年に柴田勝家が手取川に出兵した際の交戦相手は不明であるが、大阪の画家の法橋岡田玉山の絵本太閤記では、大聖寺城の攻防戦などで、柴田勝家・佐久間盛政は加賀国の一揆と交戦している。(江戸の有職故実家の栗原信充の著作の重修真書太閤記でも同様の記述である。)

なお、信長公記の天正8年の手取川出兵では一揆と交戦となっている。

なお、手取川という川名は、『信長公記』から引用しており、上杉方の史料では湊川となっている。

大日本戦史(高柳光寿、井上一次)昭和17-19年発行では、加賀手取川の戦として掲載されている。

概要

天正4年(1576年)、越後国上杉謙信能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻した。これに対し当時の能登の領主能登畠山氏(当主幼年のため重臣の長続連が実権を掌握)は七尾城籠城する。七尾城は北陸でも屈指の堅城だったため、戦いは翌年までもつれこんだ。

百姓や町人までも城内に収容していた(籠城戦において城は住民の避難所としての役割があった)ため屎尿処理能力が追いつかず、極めて不衛生な状態の結果、疫病が発生。当主畠山春王丸までもが病死するに至り、畠山軍は危機的状況に陥った。

続連は、かねてから誼を通じていた織田信長に救援を求めるべく、息子の長連龍を使者として安土城に派遣した。信長としても謙信の勢力拡大は望むところではなく、即座に援軍の派遣を決定し、柴田勝家を総大将に1万8000の軍勢を先発させ、自らも3万の軍勢を率いて出陣した。

ところが織田軍到着前の9月15日10月26日)、以前より続連が実権を握る事に不満を抱いていた遊佐続光温井景隆ら親上杉派が内応して謀反、続連をはじめとする長一族は皆殺しとなり、七尾城は落城した。

柴田勝家率いる織田軍先発隊は七尾城落城を知らないまま進軍を続けたが、途中で以前から勝家と不仲だった羽柴秀吉が、意見の対立から勝手に離陣するなど、すでに内部統制が乱れていた。

一方、織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城を攻略した。対して、勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、上杉軍の追撃を受け、千余人を討ち取られ、この時、河川の増水で溺死するもの多かった。

なお、歴代古案には、織田軍の参戦武将の名前の記載がないため、信長公記の記述から引用している、また、首実検などによって、討ち取られた武将の名前も記載されていない。

上杉謙信伝(布施秀治著・大正6年)には、「上杉に逢ふては織田も名取川 はねる謙信迯げるとぶ長」という落首が紹介されている。

史料の考察

歴代古案の上杉謙信の書状一通(ただし、原本は現存せず、写しのみ)を根拠に、上杉謙信公略履歴(上杉茂憲著・明治24年)に簡潔な概略が記載されている。ここには、信長が出陣し、逃げ帰ったことになっている。狂歌は掲載されていない。著者の上杉茂憲は、最後の米沢藩主。

合戦を伝えるとされる謙信の書状[歴代古案89・越佐史料5-397=抜粋]

当陣之模様無心元候間、内々以飛脚可申候処、此表仕置執紛令延引候、 如啓先書ニ、当月十五、遊佐美濃守守年来以奏者之好令忠信、彼之讒輪ヘ 当手可引入由申候間、何蕨も不入愚入乗移、一日も不抱候、七尾城主ニ候 長対馬一類一族百余人討捕、実城乗取、其外温井備中・三宅備後・内藤王・ 平以下身命計相扶、七尾存分之尽ニ入事ニ、同十七、号末森与地モ入手ニ、 是者 賀・能之間之地ニ候間、源五殿、斎藤龍置、当国一変ニ申付候処ニ、 是を信長一向ニ不知、十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢 為先勢差遣、謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、 乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略) 天正五年九月十九日 長尾和泉守(あて先)

学研の歴史群像の上杉謙信には、手取川の合戦が掲載されており、その文中に、この合戦はなかったという疑惑が指摘されている。書状の日付が、九月十九日にもかかわらず、それ以降の二十三日の日付のことも記述されている。また、あて先の長尾和泉守が後から加筆されたものであるという指摘がある。織田軍が、手取川を打ち越したのが、信長公記では、8月8日になっているのに、歴代古案では9月18日になっており、つじつまが合わない。歴代古案以外にこの合戦を伝える史料はない。

歴代古案は、江戸時代に米沢藩が行った修史事業による古文書。この史料の信憑性を疑うものに、河越の戦いがあり、北条氏康感状では、天文10年(1541)10月末~11月初と伝えているのに対して、歴代古案では、天文12年(1543)4月のことと伝えており、年次が一致しない。また、上杉憲政書状写(武家事紀)の伝える天文15年(1546)4月20日とも年次が一致しない。

また、歴代古案の、是を信長一向ニ不知・・・の記述のくだりが、大久保の三河物語の、義元ハ、其ヲバ知リ給ズシテ、弁当ヲツカハせ給ひて、ユク/\トシテ御給ひシ処に、車軸ノ雨ガ降リ懸ル処に、永禄三年庚申五月十九日に、信長三千計にて切て懸ラせ給えば、我モ/\ト敗陣シケレバ、義元ヲバ毛利新助方ガ、場モ去ラサせズシテ打取。松井ヲ初トシテ拾人余、枕ヲ并打死ヲシケリ。其外敗陣シテ追打に成。の記述と非常に類似している。(冒頭の総大将が敵軍が身近に迫っていることを知らないという書き出し、雨による影響、追撃して大勝利など非常に酷似。)

そのほか、歴代古案の上杉謙信書状の本文中に、謙信自身が執筆しているにもかかわらず、謙信という語句が2度も登場し、まるで第3者が執筆しているようである。通常、書状の最後に日付、本人名(サイン)、あて先(人名)、花押(捺印)がくるため、文中に本人名が登場することはない。

そのほか、上杉家については、直江状についても疑義が提示されており、原本は存在せず、その写しが不自然であるという指摘がある。

また、松川の戦い、においても上杉家と伊達家において、その戦果・日時・合戦そのものの存在の有無について論争になっているものがある。

織田家側の記録を見ると、合戦があったとされる当日は、信長公記に記録がない。天正5年8月8日に、柴田勝家軍が手取川を越えて、焼き討ちを実行した、秀吉が勝手に帰陣した、という簡単な記述があるのみで、9月23日よりも前のことである。上杉謙信が出陣したなどの上杉方の動向の記述は一切ない。10月3日に、加賀国中の耕作を薙ぎ捨て、御幸塚を普請し、佐久間玄蕃を入れ置く。大正寺も普請し、人数を入れ置く。北国表の諸勢、帰陣。

朝倉始末記によると、織田信長の天正3年8月の越前一向一揆討伐戦において、加賀国へも乱入・刈田狼藉を行い、大聖寺城、津葉城を構え、城将を留め置き、諸卒は越前へ引き取ると記載されている。

また、上杉謙信伝(布施秀治著・大正6年)には、信長公記の記述を引用して、秀吉が勝手に帰陣したのを、上杉に恐れを成して逃げ帰ったことに摩り替えられている。その後、歴代古案、本朝戦国策を出典として、謙信の発言(書状の内容)と狂歌が紹介されている。謙信が信長を破った最初で最後の合戦と締め括られている。

絵本甲越軍記(甲陽軍鑑と北越太平記を基に編纂)には、上杉謙信加州乱入之事として、織田軍と対陣したが、夜間の内に撤退して、織田軍との衝突は記述されていない。

絵本太閤記には、加賀国の一揆蜂起して、大聖寺城を攻める、佐久間盛政を城に入れ、柴田勝家は加賀国一揆を平定。その後、上杉謙信が大軍を引率して越前に乱入・上洛するという風聞で越前が大揺れだったとあり、信長は、秀吉のほか諸将の援軍を越前に送るも、秀吉は上杉軍の旗をいまだ見ないため、武田などの他の敵に当たるべしとして、安土へ勝手に帰陣した。(上杉謙信との交戦記録は一切なく、大聖寺城などで、加賀国の一揆との交戦が記述されている。)

長氏文献集(太田敬太郎;1938)内の長家家譜には手取川の戦いに当たる内容は記されておらず、七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが落城の報に接し、戦わずして帰陣したと記されている。なお、家譜と書いてあるが、幕藩体制下に長氏が作成したものではない。

北越軍記には謙信が越前丸岡城下に進出した。また、加賀国南部の大聖寺城が上杉方によって陥落し、柴田勢は越前北ノ庄に撤退したという記載があるが、他の史料には記載がなく矛盾する。

北越軍記は、宇佐美定行の子孫と自称する宇佐美定祐という軍学者の著作で、つじつまの会わない記述が多く、古くから信頼を置かれていない俗書である。宇佐神流という軍学を唱え、上杉家(米沢藩)に拾われた。

なお、織田信長の天正元年十二月二十八日付けの奥州の伊達輝宗宛の朱印状には、朝倉義景を討伐して越前国を平定。それ以来、若狭・能登・加賀・越中皆分国としたと記述しており、織田家の勢力圏が越後の上杉家の隣国の越中まで及んだことになってる。