通州大虐殺
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通州大虐殺(つうしゅうだいぎゃくさつ)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民に対する虐殺を指す。通州事件と表記されることも多い。
事件の概要
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。当時ここには、日本の傀儡政権であった冀東防共自治政府が置かれていたが、1937年7月29日、突如約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の3つの説が存在している。
- 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復で起こったとする説[1](しかし誤爆の事後処理は通州大虐殺以前には終わっている 。)
- 中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるために「日本が大敗した」と嘘のラジオ放送をおこない、冀東保安隊がそれに踊らされたという説[2]。
- 1986年に冀東保安隊長であった張慶餘の回想録が公表され、また中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触しており、「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説(日本と国民党との和平妨害工作。)[3]。
なお、中国側では「抗日蜂起」と看做されている。
影響等
一部で「通州虐殺事件」、「第二の尼港事件」とも言われる[4]。
女性は強姦して陰部にほうきを刺して殺害、腹から腸を出して殺害、針金で鼻輪を通された子供など、殺され方が極めて残虐であったとされ、日本の対中感情は大きく悪化した[5]。 その後1937年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い、事件は解決した。
近年ではこの事件に対する報道は日中両国で皆無であり(中国政府が日中記者交換協定の規制管理下としている為)、歴史の闇に埋もれようとしている。
参考文献
- 中村粲 『大東亜戦争への道』 ISBN 4886560628