大奥

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大奥(おおおく)とは江戸城本丸及び西丸御殿において将軍大御所正室側室、その生母や子女、及び御殿女中奥女中)たちの居所の事、またこれに倣って同様の呼称が用いられた尾張家紀州家、また大大名奥向(後述参照)の事を指す。なお本項目では江戸城大奥についてのみ扱う。西丸御殿や二丸御殿にも大奥に相当する区画があり、非常時に将軍が西丸や二丸に居したときはそれぞれが大奥として機能した。大奥は将軍と将軍の幼い息子、及び御匙医師を除けば基本的に男性が立ち入る事が許されていなかった。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われており、世界史上でも最大級の規模を誇る後宮であった[1]

初代徳川家康の時代から江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していたが、その当時は「表」と「奥」―つまり男性と女性の境界が存在せず、正室や女中などが表に足を運んだり家臣が奥を訪れる事があった。その後、3代徳川家光の時代に家光の乳母で権勢を振るった春日局元和4年(1618年)に大奥法度を定め、将軍家の奥を制度上で部署的なものとして整備し統括した。

構造[編集]

本丸御殿を大きく3つに大別した時、幕府の政庁に当たる「表」、将軍が執務を行ない普段の生活空間でもある「中奥」、そして将軍の妻妾や女中たちのいる「大奥」とに区別された(将軍家以外の武家では大奥に相当する空間を「奥」あるいは「奥向き」、あるいは「大奥」と呼称していた[2])。本丸御殿は表と中奥が同一の建物であるのに対して大奥は別の建物として分離しており、周囲を銅塀によって囲われていた。この間を繋いでいるのは僅か一本の廊下であり「御鈴廊下」と呼ばれていた。将軍が大奥へ入る際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていた事からこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。

大奥は大別して広敷向、長局向、御殿向に区画される。「広敷向」は大奥の事務や警備等を担う男性役人の詰所から成る。唯一、男性も入る事の出来る区画だがもちろん御殿向と長局向には入れないため、広敷向と各方面との間には御錠口があった。その中でも長局向の出入り口は七ツ口と言う。女中たちの部屋方の出入りや御用達商人からの買い物に用いられたもので、七ツ時(夕方4時)に閉まる事からこの名が付いたとされる。「御殿向」は将軍の寝所である御小座敷、御台所の居所である新御殿や御切手の間、側室や世嗣以外の子女の居所、そして奥女中の詰所などからなる。「長局向」は奥女中たちの2階建ての居所で一之側から四之側までの4棟があり、格式に応じて一之側が上臈や御年寄、二之側、三之側がその他のお目見え以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分された。

大奥の女性たち[編集]

将軍の妻妾・生母[編集]

大奥一の女主に相当するのが正室たる御台所である。しかし御台所が実際に権力を握った例は少なく、生前に官位を賜ったのは6代家宣正室の近衛煕子、10代家治正室の五十宮倫子女王、11代家斉正室の近衛寔子、13代家定正室の近衛篤子(島津敬子)の4人だけで、世嗣となる子供を産んだのは2代秀忠正室の於江与だけである。そのため大抵は上級の奥女中や世継ぎを産んだ側室、及び将軍生母が実権を持っている場合が多かった。御台所は慣わしとして天皇家宮家、及び公卿から迎える事となっている。武家から迎える場合も仕来りとして、まずは公家に養子になりその後輿入れした。御台所の居所は「新御殿御上段・御下段」と「御休息」が居間にあたり、「御切形之間」が寝所に当たる。御台所は自らの夫が亡くなった場合は落飾して本丸から退き、西丸に移って将軍の菩提を弔いながら余生を過ごした。

将軍の側室は基本的に将軍付の中臈から選ばれていた。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。もし御台所付の中臈が将軍の目に適った場合は将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って寝間の準備が行なわれたとされている。寝間を終えた中臈は「お手つき」と呼ばれ、懐妊すれば「お腹様」となり正式に側室となる。その後、自らの産んだ子供が世嗣と定まればその子が将軍宣下を受けると同時に将軍生母と呼ばれるようになり、大きな実権を握る事ができた。但し側室や将軍生母の大奥内での立場は時代によって異なっており、世嗣を産んだからといって必ずしも実権を持てたわけではない。5代綱吉の生母である桂昌院は御台所、側室於伝之方、姫君よりも順序が先となっている。稀に出産後や落飾後に上臈年寄上座格が与えられる事があるが、あくまでも給与面的なもので決して御年寄の権限が与えられてはいなかった。落飾後の側室は二丸御殿か桜田御用屋敷で残りの余生を過ごした。

大奥女中[編集]

大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名は殆ど同じである。但し、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼称していたという。序列は時代によって異なるが、江戸時代後期の奥女中の役職は以下の通りであった[3]

大奥女中一覧
階級 読み方 主な役職
上臈御年寄 じょうろうおとしより 将軍や御台所の御用や相談役を担当。御台所に同伴して京から来た公家出身の女性が多い(上臈御年寄を参照)。
小上臈 こじょうろう 上臈御年寄の見習い役。
御年寄 おとしより 老女とも呼称。大奥の万事を取り仕切る最高権力者。「表」の老中に相当する(御年寄を参照)。
御客応答 おきゃくあしらい 諸大名からの女使が大奥を来訪した際の接待役を担当する。
中年寄 ちゅうどしより 御年寄の指図に従う代理役。献立のチェックから毒見役までをこなした。
中臈 ちゅうろう 将軍・御台所の身辺世話役。家元や器量の良い女性が選ばれこの中から側室が選ばれていた。
御小姓 おこしょう 御台所の小間使。7歳~16歳くらいの少女の場合が多かった。
御錠口 おじょうぐち 大奥と中奥の出入り口である錠口の管理を担当した。
表使 おもてづかい 外公役。御年寄の指図で物資調達を広敷役人に要請していた。
御右筆 ごゆうひつ 日記から書状に至る一切の公文書管理を担当。諸大名からの献上品の検査役も担っていた。
御次 おつぎ 御膳や様々な道具の運搬から対面所掃除などを担当。
切手書 きってがき 七ツ口を通ってやってくる外部からの来訪者の持つ「御切手」という通行手形をあらためる役職。
呉服之間 ごふくのま 将軍、御台所の衣装仕立て係。
御坊主 おぼうず 将軍の雑用係。剃髪姿で羽織袴を着用している。中高年の女性が就く事が多く、場合によっては中奥へ出入りすることもあった。
御広座敷 おひろざしき 表使の下働き。大奥を来訪した女使たちの御膳の世話をした。
御三之間 おさんのま 御三之間以上の居間の掃除一切をこなす。
御仲居 おなかい 御膳所にて料理一切の煮炊きを担当。
火之番 ひのばん 昼夜を問わず大奥内の火の元を見回る。武芸に長けており警備員的な役割も担っていた。
御茶之間 おちゃのま 御台所の茶湯を出す役。
御使番 おつかいばん 広敷・御殿間の御錠口の開閉を管理する。
御半下 おはした 大奥の雑用一切を受け持つ下女。

奥女中のうち、上臈御年寄から御坊主までがお目見え以上と言い、将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中たちである。女中たちのお禄(手当)は主に切米、合力金、扶持(月々の食料)、湯之木(風呂用の薪)、五菜銀(味噌や塩を買うための銀)、油などの現物が多かった。また御年寄などの上級の女中たちになると、町屋敷が与えられていたという。奥女中たちは大抵の場合、旗本などの武家出身の女性が雇用された。町人である女性たちが奉公に上がる場合、先輩女中の口利きを頼るか、旗本へ養子入りする必要があった。

大奥最後の日[編集]

慶応4年(1868年)4月、江戸幕府新政府軍江戸城を明渡すことになった。大奥に残っていた、本寿院(13代将軍生母)と天璋院(13代将軍御台所)は一橋家の屋敷へ、静寛院宮(和宮親子内親王)は西ノ丸にいた実成院(14代将軍生母)とともに田安屋敷へと移り、城の明け渡しに備えた。4月11日5月3日)、東海道先鋒総督が江戸城に入った。この時、城に入った人数は約800名とされる。大奥法度も廃止となった。

ちなみに最後の将軍であった徳川慶喜の正室・一条美賀子は一度も大奥入りしなかったので、この場には立ち会わせなかった。

大奥総取締について[編集]

近年の小説、ドラマ、映画等の大奥作品の中に「大奥総取締」という呼称が登場するが、実際には存在しない役職である。但しこの呼称は一部の書籍に登場しており、於万之方右衛門佐のように御年寄の役目を担っていなかったものの大奥の総支配を命ぜられた女性たちや、初期の職制が確立されていない時代の女性である春日局の立場を説明する際に「大奥総取締」やそれに類似した表現が用いられている。だが先述したように大奥には総取締という役職名は実際には用いられていなかったことから、先にあげた右衛門佐などの女性がどのような立場にあったのかは定かではない。

明治の大奥もの[編集]

解雇された女中たちは面白おかしく大奥内情を暴露した。但し、これらの資料は事実と虚構が入り混じっている。

  • 『旧事諮問録』:明治24年(1881年) 大奥の中臈・箕浦はな子の口述
  • 『千代田之大奥』上下:明治25年(1882年
  • 『大奥の女中』上下:明治27年(1884年
  • 『お局生活』明治の女官:明治40年(1907年
  • 『御殿生活』6篇:桜井秀 明治44年(1911年) - 旗本の回想
  • 『御殿女中』:三田村鳶魚 昭和5年(1930年) - 元八王子千人同心の家に生まれた

有名な大奥の女性[編集]

関連書[編集]

補注[編集]

  1. 実際は玄宗後宮4万人など、大奥を遙かに凌駕する宮廷は世界中の歴史を見渡せば他にも数多くあった。
  2. 東海道二川宿の「御休泊記録」によると、薩摩藩の奥女中を「薩州 奥女中」や「薩州 大奥女中」などと表記しているとされる。
  3. 上臈御年寄、小上臈、御年寄をそれぞれ異なる職とする説の他に、この三役を総称して老女と呼称したとする説が存在する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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