小澤征爾
小澤 征爾(おざわ せいじ、英:Seiji Ozawa、1935年〈昭和10年〉9月1日[1] - )は、日本の指揮者。[2]
満州国奉天に歯科医師の小澤開作の子として生まれる[3][4]。1941年に家族と共に日本に行き、1945年から兄の克己にピアノを学んだ。1948年から豊増昇にピアノを師事[5]したが、中学時代に熱中していたラグビーで指を骨折してピアノを断念。1949年には斎藤秀雄に入門し、1952年に桐朋学園女子高等学校の音楽科に進学して斎藤の許で指揮法を学んだ。1959年に単身フランスに渡り、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。その翌年にはヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子になるための指揮者コンクールに出場して優勝し、カラヤンの門下となった。またブザンソンで知己を得たシャルル・ミュンシュに誘われてタングルウッド音楽祭に参加し、クーセヴィツキー賞を受賞した。1961年には日独修好100周年記念行事でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、レナード・バーンスタインの指揮するニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者を務めた。さらに初めての日本のオーケストラへの出演として、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮。1962年にNHK交響楽団と客演契約を結び、オリヴィエ・メシアンのトゥーランガリラ交響曲の日本初の演奏を行うなどの活躍をしたが、団員との間に軋轢が生まれ、以後1995年まで同交響楽団との共演は行わなかった[6]。1963年にラヴィニア音楽祭に出演し、その翌年から1968年まで同音楽祭の音楽監督を務めた。1965年から1969年までトロント交響楽団の首席指揮者。1966年にはウィーン交響楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。またザルツブルク音楽祭やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会にも初登場している。1967年にはニューヨーク・フィルハーモニックによる武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》の初演を指揮。1968年から1972年まで日本フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める。1970年から2002年までタングルウッド音楽祭の芸術監督、1976年までサンフランシスコ交響楽団の音楽監督を務めた。1972年には新日本フィルハーモニー管弦楽団の結成に参加。1973年から2002年までボストン交響楽団の音楽監督を歴任。1984年に齋藤秀雄没後10周年のメモリアル・コンサートを指揮し、この時に結成した臨時編成のオーケストラを元にサイトウ・キネン・オーケストラを結成。2000年から小澤征爾音楽塾を始めた[7]。2002年から2010年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務める。