南京大虐殺論争

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南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年から始まった日中全面戦争初期に起きたとされる南京虐殺(南京事件)に関して、事件の存否、規模、信頼性などを論点とした論争である。


1971年まで

「南京虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった。この『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早く単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった。


1971年から1982年まで

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。この時、否定論の先陣を担ったのは、山本七平と鈴木明である。


1982年から1995年まで

三番目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年の教科書問題の時である。それは、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)であり、この訴訟では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多両氏を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって南京事件調査研究会を発足。研究会は日中双方の資料や証言を突き合わせて虐殺事件の全容の解明に乗り出した。

一方、この時、否定論の中心となったのは評論家である田中正明である。しかし、この時は、否定説が破綻することで決着がついた。というのは板倉由明が陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見したからである。板倉は大虐殺にはどちらかといえば否定的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した。


1995年以降

自由主義史観・自慰史観などが唱えられ、1980年代に破綻したとしてマスコミでは省みられない否定説が、インターネットの幅広い普及等にともない、匿名掲示板などで話題となり再び登場する事となった。

従来の、南京での虐殺そのものが無かったといった論調ではなく、北村稔などの主張する、南京で虐殺と言える殺戮があった事は認めるが「犠牲者30万人」は誇大であるとして、あくまで「中国が主張する30万人説」を否定するといった論調が主流となっている。


諸説

この論争での主な論点は、日本軍が犯した虐殺の存否とその規模にある。その規模に対する諸説は次のように大別される。


30万~41万人説

主に中国側の見解としてみられる。代表的な研究者は孫宅巍 (江蘇省社会科学院研究員)、高興祖(南京大学教授)などが挙げられる。南京にある侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館も同様の見解をもっている。

孫宅巍の研究によれば、独自の調査から、1,000人以上の大規模な集団虐殺数と、それ以外の集団虐殺数を割り出し、これらの調査結果と埋葬記録とを照らし合わせ、その数を27万4000人と推定する。さらにこれを、記録に残らないような虐殺や埋葬があったことを考慮し、30万以上と推計している。また、現在判明している埋葬数を加算すると40万以上になるが、記録の重複、戦死者が含まれること及び埋葬記録に残らない死体などを考慮し、30万以上と推計する。


10数万~20数万説

論争において肯定派・虐殺派と呼ばれる。ここでは肯定説に統一する。代表的な研究者は、南京事件調査研究会のメンバーである笠原十九司(都留文科大学教授)、洞富雄 (早稲田大学教授)、藤原彰(一橋大学教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士(駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)などが挙げられる。

笠原の研究によると、中国側史料から中国軍の総数を15万人と推計し、このうち虐殺された数を、中国側史料からは8万余人、日本軍の戦闘記録などから8~10万人以上と推計する。市民に対する虐殺は、ラーベの日記、埋葬記録、スマイス調査などから、最低限度を1~2万人と推計する。合計すると10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上となる可能性があると結論する。


4万~10万人説

一般的には中間派と呼ばれる。ここでは中間説とする。秦郁彦(現代史家・元日本大学教授・法博)の研究として、『南京事件』(中公新書)にまとめられている。

秦の研究によると、中国軍の総数を日本軍の推定数と台湾の公刊戦史から10万人とし、日本側の戦闘記録・新聞記事などから戦死数5万3,900人、捕らわれて殺害された者3万人、生存捕虜1万0,500人、脱出成功者5,600人と推計する。このうち捕らえられてから殺害された3万(各部隊の戦闘記録から算出)を虐殺数とする。市民に対する虐殺は、スマイス調査による都市部・農村部の被害者総数に修正を加え2万3,000人とし、不法殺害の割合は1/2~1/3と判断し、虐殺数を8,000~1万2,000人と推計する。概数として市民と兵士の虐殺総数を3万8,000人~4万2,000人と結論する。


数千~3万人説

一般的に少虐殺派、過小虐殺などと呼ばれる。ここでは小虐殺説に統一する。代表的な研究者は『南京戦史』(偕行社)の編集に携わった畝本正己(元防衛大学校教授)、板倉由明(南京戦史編集委員・南京事件研究家)、原剛(防衛研究所調査員)などの他、中村粲(獨協大学教授)が挙げられる。

板倉自身は虐殺数30万人のみを否定する南京事件派と標榜している(著書に『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会))。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計する。その上で虐殺数を8,000人と推計する。市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000人と推計する。兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1~2万人と推計する。


虐殺否定説

一般的に否定派、まぼろし派、虐殺なかった派などと呼ばれる。ここでは否定説に統一する。主な研究者は鈴木明(雑誌記者)、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道(亜細亜大学教授)、冨澤繁信(日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次(明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一(上智大学名誉教授)などが挙げられる。

東中野の研究によると、便衣兵(ゲリラ兵)、投降兵の殺害については戦闘行為の延長であり国際法上合法であるとし虐殺に分類しない。日本兵による犯罪行為も若干はあったが大規模な市民殺害は当時の史料では確認できない。埋葬記録などの死体数に関する資料は捏造・水増しであり、史料により確認できる死体は虐殺に該当しないと主張する。よって、虐殺に該当するような行為はほとんど無かったと主張する。


主な論点

南京大虐殺論争では事件における虐殺数や規模を中心にさまざまな論点が争われる。主な論点を挙げると以下の通りとなる。


事件の期間

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており、否定説の見解は概ねこの判決を踏襲している。肯定説は、研究により多少見解が分かれるが、笠原十九司の「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を概ね踏襲している。


地理的範囲

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

南京行政区 南京市と近郊6県 南京市 城区と郷区 城区 南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外 南京城 城壁を境にした内部 安全区 南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km²) 否定説と中国側の見解では概ね南京市を範囲の基準に考えている。東京裁判判決では「南京とその周辺」としているが、ここには「南京から二百中国里(約66マイル)」という範囲が含まれているので南京行政区を指しているのではないかと考えられている。肯定説は東京裁判を踏襲して南京行政区を範囲としている。


人口数の実数・真偽

否定説は、南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が収容数を20万人と認識していた事から「陥落時の南京の人口は20万人しかなく、30万人を虐殺することは不可能だ」と主張している。安全区外の住民は、日本軍による南京攻略前に中国軍による堅壁清野作戦が行われたため、周辺地域の市民は殆ど存在しなかった筈だとも主張している。また、虐殺が行われていれば、20万を超える市民が、南京にとどまっていることはありえないこととして「陥落時20万人だった人口が、その後すぐに増加していることから、市民が虐殺の存在を認識していなかった」としている。

肯定説は、まず、日本国内で30万人を主張している肯定説はいないと指摘した上で、中国側の主張する30万人には、上海戦以降の軍人の犠牲者が入っており、単純に南京の人口と比較することは意味をなさないと指摘する。また、陥落時20万人という人口数は、南京攻略戦が始まる前の予測値であり、陥落時の実測値ではないこと。攻略前の日本軍の展開により周辺地域から戦災避難者の流入は予想できる事であり、さらに堅壁清野作戦後も南京郊外で日本軍による食料の強制徴用が行われていた事から、実際には逃げ切れなかった多くの住民がいたと思われる事、日本軍に囲まれている状況下、南京国際委員会などが機能する城内の方がましではないかと考えた人々が、南京城内に多く残留していたと考えられるとも主張している。


虐殺の定義

否定説、肯定説とも「虐殺」を国際法違反行為と定義づけているが、何が国際法違反行為に当たるかが争点となっている。

投降兵の殺害 戦闘中に降服して投降してきた兵士を、受け入れずに殺害することについて見解が分かれる。否定説では違法ではあるがそれがあったとしても中国軍も行っていた為、お互い様と指摘している。肯定説は、ハーグ陸戦規則第23条第3項「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を根拠に、投降兵殺害の違法性を指摘している。 捕虜の殺害 一旦捕虜として受け入れたのちに殺害するケースについても見解が分かれている。否定説では捕虜の殺害についてもお互い様と指摘している。また捕虜であっても敵対行動があった場合の処刑は合法としている。肯定説は、ハーグ陸戦規則第第4条「俘虜は、敵の政府の権内に属し、之を捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし」や当時の慣習法、一般的な戦時国際法学者の見解などを根拠に、捕虜殺害の違法性を指摘している。捕虜の敵対行動に関しては、否定論と同様に処刑の合法性を否定はしていないが、否定説が主張するようなケースでの手続上の問題点や、そのような事実の存在に関して反論を主張している。 便衣兵の殺害 最も処刑数が多いと思われる、便衣兵の摘出と処刑についても見解が分かれる。否定説は便衣兵(ゲリラ兵)捕虜資格なしと見なしている。何故なら投降しようと思えば出来たのにそうしなかったのは、隙あらば友軍と合流し攻撃を再開する意図があったからだ、と見なせる余地がある為である。また日本軍は民間人と便衣兵を識別し摘出しているが、その過程において誤って民間人を処刑した場合があったとしても、その責任は投降を拒んで民間人を装い一般市民に紛れ込んで逃亡を図った便衣兵(民間人を巻き込む為国際法で禁止されている)の側にあると主張している。肯定説は、これらの処刑は南京が陥落して戦闘が終了した後に行われたものであり、戦闘行為とは見なすことが出来ないと指摘している。また、もう抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していた兵士を便衣兵と見なして殺害したり、一般市民から敗残兵を摘出した際に、便衣兵が紛れている可能性があるとして識別の努力もせず殺害した場合等は虐殺であると主張している。 便衣兵に対する裁判 便衣兵の処刑に関して裁判が必要か否かで見解が分かれる。 否定説は、便衣兵の裁判なし処刑は軍事上の必要性によって違法性が阻却されると主張する。あるいは処刑に当たって裁判を義務付ける国際的慣習は確立されていなかったことを指摘している。 肯定説は、裁判を経ずに処刑したということは、その処刑の正当性を証明するべき根拠がないことから、違法行為であると主張する。この見解は、当時の主な戦時国際法学者である立作太郎、信夫淳平、篠田治策などの見解によって裏付けられている。また、国際慣習法が確立されていない、つまり違法性がないと主張しているにも関わらず、並行して違法性阻却事由の存在を主張する否定説の矛盾も指摘できる。

文献批判

否定説は、虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被・加害者証言などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。

肯定説は、いずれの史料批判も学術的な妥当性が無く、その史料批判が恣意的であるとしている。また、否定説は、加害側の証言や記録を一方的に取り上げ、自身の見解に都合の悪い史料に関しては、捏造・偽証というレッテルをはって切り捨てる傾向が見られる。このような傾向が高じ、否定論者である松村俊夫はその著書で、被害者である李秀英を「偽証言者」と書いたことで、李秀英の名誉を毀損したとして民事裁判が起され、150万円の支払いを命じられている。この判決において、松村俊夫の史料批判には妥当性がないと断じられている。


物理的虐殺説の否定

否定説は、「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺を実行するには極めて困難になる」とする。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとする。

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣や銃弾を持っていることを考えるならば、大量の殺害は可能であり、また、ルワンダ虐殺に見られるように計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと、反論している。また、遺体については、遺体を揚子江に流すという手段がとられたことを指摘するとともに、否定説が否定している論は、肯定説の主張ではなく、否定説自らが作りあげた「虚像」であると指適したうえで、殺害は南京城区とその近郊を含む広大な地域で行われた事を、否定説は無視していると主張している。


事件前後における日本軍軍紀の不一致

否定説は、南京攻略戦まで日本軍の軍紀は保たれており、南京攻略戦時のみに虐殺を行ったというのは不自然であると主張する。

肯定説は、ティンパーリーの著作や本多勝一の取材によれば上海 - 南京間でも虐殺行為が行われていた事。一部の史料や参戦者の証言によれば上海上陸時から住民に対して殺害する命令が存在していたと主張している。


陰謀説

否定説では「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた。」としており、「南京事件は東京裁判で中国側が初めて主張し始め、注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 - 1980年代は全く沈静化していた。六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では300000であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。また大屠殺記念館の館長は日本のテレビ局の取材で300000という数字が政治的な数字である事を認めている。


日本軍残虐行為の動機

否定説は、兵の体力の消耗と弾薬の無駄使であること、サーベルなどで殺害するにしても武器を無駄にいためることになり、日本軍の利益になることはないこと、などを理由に日本軍に大虐殺を起こす動機は存在しないと主張する。

肯定説は、(1)敗残兵の処刑は組織的なものであり、命令があれば動機は必要ないこと、(2)補給(特に食糧の補給)を軽視して現地徴発を多用した結果、この徴発に伴って行われた殺害が多数存在したこと、(3)便衣兵戦術を採る中国軍とのゲリラ戦でかなりの死傷者が出ており、兵士の間で便衣兵への憎しみや恐れが転化して、民間人や捕虜・投降兵の殺害につながったこと、(4)「人を殺した経験がなければ一人前の軍人ではない」という歪んだ英雄主義があったことなどを指摘する。また、多数の予備役・後備役の戦線投入により、兵士の質が低下したことも原因の一つだと考えられている。


写真の真偽

否定説・東中野は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。

この主張に対して肯定説は、 (1) 今までの学術的な南京大虐殺の研究において、写真を根拠資料とするものはほとんどなく、その写真を「南京大虐殺の証拠写真」と主張すること自体がおかしい、 (2) 東中野の研究の根拠には主観的なものが多く、学術的な研究とは言い難い、 (3) 一部に問題があるという点を明らかにしただけで、すべての写真を否定することはできない、などの反論をしている。


陰謀説2

否定説・東中野は、国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカのイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。

これに対し肯定説は、 (1) 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』からでは、ティンパーリーが国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったことは証明できない、 (2) ティンパーリーの著作は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、その出自をもって捏造とすることは論理的に不可能である、 (3) ベイツの国民党顧問説の根拠である新聞記事は出所がまったく不明であり、他の史料と比べても内容の信憑性に欠ける、と批判している。


学者・研究者の反応

肯定論者によると、否定説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張する。また現在では歴史研究者の間では南京事件の有無を問うことは、中国政府をいたずらに刺激し、研究活動に支障が出るという。また一部の社会学や心理学の研究者の間では、「なぜ大衆が非学術的な言述を信用するのか」という研究の対象となっているとする。

否定論者からは、中国政府のご機嫌を伺いながらの歴史研究が果たして学術的と言えるものかどうかが問われ、今後の肯定論者の大きな課題と言われる。