ジャーヌ・エヴラール
ジャーヌ・エヴラール(Jane Evrard, 1893年2月5日 - 1984年11月4日)[1][2]は、フランスの指揮者。[3]
ヌイイ=プレザンスにジャンヌ・ステファニー・シュヴァリエ(Jeanne Stéphanie Chevallier)[4]として生まれる。7歳の頃からヴァイオリンを始め、パリ音楽院に進学してソルフェージュでプルミエ・プリを獲得。1905年から同音楽院のヴァイオリン科に進み、オーギュスタン・ルフォーに入門した。この時にガストン・プーレと出会い、ジョルジュ・ラバニの率いるコート・ダジュールのオーケストラに一緒に参加したり、ドーヴィルのカジノやオデオン劇場等で一緒に演奏したりした。1910年には2人でアルフォンス・アッセルマンの指揮するオーケストラに参加。1912年にヴァイオリンでプルミエ・プリを取得し、[5]プーレと結婚。1913年には夫婦でピエール・モントゥーの指揮するイーゴリ・ストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演に参加した。また、夫が弦楽四重奏団を結成すると、時折欠席する第二ヴァイオリンの席に代理で座って演奏を助け、1917年には夫等と共にクロード・ドビュッシーの弦楽四重奏曲を作曲者の面前で演奏してお墨付きを得るという経験もしている。1920年代半ばから夫が指揮をするようになり、1926年にコンセール・プーレ[6][7]を組織して指揮活動を本格化させていくに従い、しばらくヴァイオリン教師をしていた。1930年頃から夫と別に活動し、後に離婚。1930年にパリ女性管弦楽団を設立して指揮活動を開始したが、この時からジャーヌ・エヴラールを名乗り、フランスで初の女性指揮者[8]として脚光を浴びた。しかし、第二次世界大戦の影響で、次第にパリ女性管弦楽団の活動は低迷し、1943年に同管弦楽団は解散。戦後は他のオーケストラへの客演もこなしたが、往時の栄光を取り戻せぬまま、1965年に引退。
パリにて没。
脚注
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- ↑ Broad (2012) BroadStephen [ Olivier Messiaen: Journalism 1935–1939 ] Routledge 2012 9780754608769 149
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- ↑ コンセール・プーレの活動開始を1929年とする資料もある。(アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ)
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