アイビーリーグ
アイビー・リーグ(英:Ivy League)とは 、アメリカ合衆国北東部に所在する私立大学8校で構成されるカッレジスポーツ連盟。また、その名称はスポーツと関係ない文脈においても一般的に使われる。構成大学はブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学(アルファベット順)。
正式にはスポーツ連盟の名称であるが、学問や教育、大学入試などの分野においても広く使用され、「東海岸のエリート私立伝統校群」として、上流社会の象徴とされることも多い。世界中から各国のトップ層にランクされる学生を受け入れており、アイビー・リーグ各校の卒業生はアイビー・リーガー (Ivy Leaguer)と呼ばれ、彼らは米国のエスタブリッシュメント(既得権層)を構成し、政界・財界・官界・学界・法曹界に広範な人脈を形成している。アイビー・リーガーと他の難関大学卒業生との根本的な違いは、前者がこの世界で最も知名度のある学閥・既得権層に所属しているという点である。さらに、数百年の歴史を通じ築き上げた大学の莫大な資産や強固な人脈を通じ、多大な社会的影響力を誇る。
目次
リーグを構成する8大学
- ブラウン大学
- ロードアイランド州の州都プロビデンスに立地。1764年創立。スクールカラーはブラウン。大学を純粋な研究・学問の場として捉え、ビジネススクールやロー・スクールなどの専門大学院の設置を拒み続けている。8校中財政基盤は最も脆弱であるが、学生の満足度は全米1位の人気を誇る。ブラウン・カリキュラムと呼ばれる、アイビー・リーグで最もリベラルな教育課程を導入(専攻単位以外の必要科目無し、全課目で成績付・成績無しを選べる、単位不合格の場合は公式記録に残らない、必要があれば自分だけのための課目を教員と新設できる、更に必要があれば自分だけの専攻を大学当局の認可後に設置できる等)。専門大学院が無いため日本での知名度は低いが、学部課程はその教育レベルの高さから全米随一の名門校とされる。
- コロンビア大学
- ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区アッパー・ウェスト・サイドのハドソン川沿いに立地。1754年創立。スクールカラーはスカイ・ブルー(コロンビア・ブルー)。世界的な研究大学として数多くのノーベル賞受賞者を輩出。マンハッタンに位置するだけあって最も国際色豊か且つリベラルな校風を有し、留学生の比率は28%に達する。ピューリッツアー賞選考委員会が同校ジャーナリズム大学院に設置されており、アイビー・リーグで唯一ジャーナリズム専門大学院を有する。アイビー・リーグで最も大学院の比率及び絶対数が高い特徴を持つ(学生の63%、19,000人が大学院に所属)。約100年の歴史を誇るコアカリキュラムと称する全員必修の教養課程(ひとクラス20人以下のゼミ方式)は、他校に無いコロンビアカレッジ最大の特徴のひとつである。
- コーネル大学
- ニューヨーク州中部の小都市イサカに立地。マンハッタンへは車で5時間程である。1865年創立。スクールカラーはカーネリアン・レッド。アイビー・リーグ8校のうち、唯一南北戦争後に創立された。理系分野で名高いほか、世界最高峰と言われるホテル経営学で有名である。また、世界的にも珍しい半官半民の大学である。アイビー・リーグの中でも特に卒業要件が厳しいとされる一方、受験者数はアイビー・リーグで最も多い。キャンパスは氷河の浸食によって形成された丘陵地の斜面に広がり、全米で最も美しいとも評される。
- ダートマス大学
- ニューハンプシャー州西部の小さな町ハノーバーに立地。1769年創立。スクールカラーはグリーン(ダートマス・グリーン)。歴史的経緯から、総合大学であるにもかかわらずuniversityではなくcollegeを名乗る。学生数は学部・大学院の合計で6000名弱と、アイビー・リーグの中で最も少ない。それだけに伝統のリベラル・アーツ教育を重視するが、全米最古のビジネス・スクールであるタック経営大学院を擁するなど実学でも評価は高い。
- ハーバード大学
- マサチューセッツ州ボストンとチャールズ川をはさんだ対岸の街ケンブリッジに立地する。1636年に創立した全米最古の大学。スクールカラーはクリムゾン。258億ドルという大規模な大学基金を持つ、世界的教育・学術機関である。ビジネススクール(HBS)、ロースクール(HLS)、ケネディスクール等の専門職大学院が有名である。また、2014年度の全米大学ランキング及び世界大学ランキングでは2位であった。合格率はアイビー・リーグで最も低い。ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、マーク・ザッカーバーグ(フェイスブック創業者)等多くの著名人を輩出しているほか、ノーベル賞受賞者輩出数で世界一位である。
- プリンストン大学
- リーグが本部を置くニュージャージー州中央部の学術都市プリンストンに立地。1746年創立。スクールカラーはオレンジとブラック。総合大学であるが、ブラウン同様伝統のリベラル・アーツ教育を守っており、メディカルスクール、ロースクール、ビジネススクールなどの専門職大学院を設置していない、少数精鋭の大学である。数学・物理学で著名であり、フェルマーの最終定理を証明したことで有名なアンドリュー・ワイルズが教鞭を執っていた。また、村上春樹も客員研究員として2年間在籍していた。2014年度の全米大学ランキングでは単独1位であった。
- ペンシルベニア大学
- ペンシルベニア州の最大都市フィラデルフィアに立地。ダウンタウンの西側、ユニバーシティ・シティ地区にキャンパスを構える。1755年創立。スクールカラーはレッドとブルー。Penn, UPennと略される。全米で初めて"University"の名を冠された教育機関であり、全米最古の医学部を持つ。専門大学院で名高く、同学のビジネス・スクールであるウォートン・スクールは金融・会計学の分野では不動の評価を誇るほか、ロースクールも著名である。企業や官庁からこれらの大学院に派遣される日本人が多いため、日本での知名度は比較的高い。創立者ベンジャミン・フランクリンの理念から、実学重視のリベラルかつ先進的な校風を有する。2018年の世界大学ランキングでは10位にランクインしているほか、億万長者出身校ランキングでは25人で世界1位であった。同校出身の大統領はウィリアム・ヘンリー・ハリソン弟9代アメリカ合衆国大統領とドナルド・トランプ第45代アメリカ合衆国大統領である。日本人の出身者には、2010年にノーベル化学賞を受賞した根岸英一、アーティストの松本良多、国際大学理事長の小林陽太郎がいる。
- イェール大学
- コネチカット州南部の都市ニューヘイブンの中心部に立地。1701年創立。スクールカラーはアジュール(イェール・ブルー)。法学・政治学の分野では右に出る者のない存在であり、全米大学院ランキングロースクール部門では長年1位を維持している。また、学部部門でも毎年トップ3に入っているほか、2018年の世界大学ランキングでは12位であった。また演劇大学院も特に優秀であり、志望者と難易度は最高峰で、世界一の演劇大学院と称されている。キャンパスは蔵書数1100万冊を誇るスターリング記念図書館が有名である。また、スポーツ・学術の分野で長年ハーバードのライバルとされる。ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュ等、政治家を多く輩出してきたことで知られ、校風は保守的と言われる。
学費
年間の授業料と寮費・書籍費が5万 - 6万ドル近くかかることから、卒業する為には20 - 24万ドルほどかかってしまう。そのため学生の両親の大部分は富裕層であるため大学がエリートクラブ化してしまい、一般家庭出身の学生が入学できないのではないかという社会的批判が以前から根強く存在する。
全校がアメリカ国民または永住者の選考の際、伝統的にNeed Blind Admission Policyと称する制度を採用し、家庭の収入に関係なく合否判断を行い、合格した場合、家庭の負担能力に応じて奨学金を出す(例、世帯年収未満の場合授業料及び寮費を全額免除等、各校で比率は異なるが、40 - 70%の学生が大学から奨学金を得ている)制度を導入している。
歴史
リーグ結成以前
アイビー・リーグを構成する8校のうち、コーネル大学を除く7校は独立戦争前に創立された(コーネル大学の創立は南北戦争の直後であった)。これら7校は北部・中部の植民地での高等教育において圧倒的な多数派であった。ハーバード大学に次いで1693年に創設されたウィリアム・アンド・メアリー大学は、アイビー・リーグに所属していない(名門公立大学を称するパブリック・アイビーに属している)。これら7校の教授や創立委員会の多くは他のアイビー・リーグ校から引き抜かれた。その他にはイギリスの大学を卒業した者もいた。オックスフォード大学卒よりもケンブリッジ大学卒のほうが多かったが、一方でエディンバラ大学やその他のイギリスの大学の卒業生もいた。1766年に創立したラトガース大学の創立者たちも大部分はアイビー・リーグ校の卒業生であった。独立戦争後も、アイビー・リーグ校の卒業生たちは各地に次々と大学をつくっていった。
これら7校は、創立時にはいずれもプロテスタント系であった。イェール大学・ハーバード大学・ダートマス大学の3校は会衆派教会が創立した。一方、長老派教会はプリンストン大学を創立した。聖公会系のキングス・カレッジは独立戦争の最中に解散し、後に無宗教のコロンビア大学として再編された。ペンシルベニア大学も創立したのは聖公会であったが、開学時には教会から離れ、無宗教の大学となっていた。ブラウン大学はバプテスト教会が創立した。しかし19世紀に入ると、改革派教会の聖職者の養成は神学校に任されるようになっていった。それでも20世紀に入る頃までは各校が礼拝を義務付けたりと、創立時の宗教色が残っていた。コーネル大学はこれに呼応する形で創立当初から無宗教を守り通している。なお、現在ではリーグに所属する8校全てが無宗教である。
「アイビー・リーグ」という語が初めて用いられたのは1933年のことであった。当時はアイビー・リーグの指すものは曖昧で、長い伝統を持つ東部の大学群を指すに過ぎなかった。これらの大学のスポーツチームは強く、全米優勝することもあった。大学は練習場を備え、スポーツ奨学金を出していた。しかし、当時はまだスポーツリーグを組むことはなかった。当時、各大学の学生数は現在よりも少なく、ほぼ均質であった。ほとんどの学生は独立戦争前からアメリカ合衆国に住んでいた裕福な家柄の白人男子で、プロテスタントであった。
そうした学生の層から、「アイビー・リーグ」は「ワスプ」同様白人のエリート層を指す語として使われるようになった。こうした感覚での用法は少なくとも1935年までさかのぼることができ、小説や回想録の中にも見ることができる。
第二次世界大戦後、アイビー・リーグの各校は様々な学生に門戸を広げた。また教授の幅も広げた。こうした動きは、アメリカ合衆国で最も長い歴史と伝統を誇るこれらの学校が世界的な研究機関になろうと、そしてスポーツ面でも高いレベルで競っていこうという決意の表れであった。
スポーツ連盟としての歴史
アイビー・リーグの各校は、アメリカ合衆国に大学間でスポーツが競われるようになったころから各種の競技でライバル関係を築いてきた。1852年、ハーバード大学とイェール大学のボート部はニューハンプシャー州のウィニペソーキー湖で対戦した。この対戦はアメリカ合衆国史上初となる大学間のスポーツの試合であった。1873年10月19日、マンハッタンの5番街のホテルに4校代表(コロンビア、プリンストン、ラトガース、イェール)が集まり、フットボールを含め大学間競技に関するルールの確立を協議した。その際、ハーバードは、招待されたが、「ボストンルール」に准じて行うことを理由に出席を辞退、1876年まで、参加しなかった。この会議で取り決められたルールが20世紀に至るまで維持された。伝統的には、イェール大学は陸軍士官学校と、ラトガース大学はプリンストン大学やコロンビア大学と現在に至るまで続いているライバル関係があり、フットボール以外のスポーツで競っている。
アイビー・リーグには、正式なリーグ結成以前に既に「明文化・明言されていない東部諸大学の運動部の連携関係に関する協定」が存在していた。しかしこうした協力関係の存在にもかかわらず、これらの大学は正式なリーグ結成に緊急性を感じていなかったようであった。1ヶ月にもわたる協議のあと、ようやく1936年12月3日に学部生がリーグ結成に乗り出した。各大学の新聞には「時は今」という見出しが並んだ。しかし翌1937年1月11日、リーグ結成の提案は各大学の体育局に拒否されてしまった。ただし、リーグ結成は全くの廃案になったわけではなかった。その時点でのリーグ結成は見送りとされながらも「将来的には考慮の余地もある」と付け加えられていた。
第2次世界大戦後
1945年、8校の学長は初めてアイビー・グループ協定 (Ivy Group Agreement) に調印した。これは各大学のフットボールチームに関して、学業、学費援助、フットボールの全てにおける統一基準を取り決めたものだった。この協定は、1916年にハーバード・イェール・プリンストンの各大学の学長が取り決めた協定をもとにしたものだった。アイビー・グループ協定はフットボールで優秀な選手であることが入学基準に影響することのないように基本的な原則を打ち立てた。それは以下の文面に現れている。
本協定の加盟校は運動奨学金を禁止することを再確認する。選手はあくまでも学生として入学を許可し、奨学金は他の学生同様に学業成績と経済的必要性のみを考慮して給付しなければならない。
1954年、アイビー・グループ協定は全てのスポーツに拡大適用された。一般的には、この年を「アイビー・リーグ誕生の年」としている。アイビー・リーグとしての大学間競技が始まったのは1956年であった。
共学化
1960年代まで、アイビー・リーグの各大学はコーネル大学を除いてすべて男子校であった。コーネル大学は創立当初から共学であった。最も共学化が遅かったのはコロンビア大学で、1983年のことであった。
共学に移行する前は、各大学はそれぞれセブン・シスターズと呼ばれる名門女子大学群の学生と週末訪問、ダンス、パーティーなどで交流を持っていた。バーナード大学とコロンビア大学、ラドクリフ大学とハーバード大学といったごく近くに位置する大学同士だけでなく、かなり遠いところに立地する大学間でも交流があった。ダートマス大学の男子学生がスミス大学やマウント・ホリヨーク大学の女子学生と会うために大学のあるニューハンプシャー州ハノーバーからマサチューセッツ州まで2時間以上車を飛ばすこともあった。なお、セブン・シスターズ校のうち、ラドクリフ大学はハーバード大学と統合され、ヴァッサー大学は共学化したが、あとの5校は現在でも女子大学である。
米国名門大学がハイレベルである理由
米国で「名門(エリート)大学」と呼ばれるのは、東部「アイビーリーグ」の通称で呼ばれるハーバード、イェール、プリンストンなど8大学。これにシカゴ、マサチューセッツ工科大学(MIT)や西部のスタンフォード、カリフォルニア工科大学などが加わる。
アイビーリーグは米国の歴代大統領を多く輩出し、教育力の高さで世界的な名声を維持している。入学は狭き門。アイビーリーグの合格率は7%前後、SAT(大学進学適性試験)で2250点以上必要だ。
とはいえ、これら大学は「全人的に優れた学生」が最優先であり、SATで2400点満点を取っても不合格になる学生もいる。学業に加え、スポーツや生徒会活動、地域でのボランティア、芸術などで実績があり、「将来優れたリーダーになる」ための資質が問われる。
教育力の高さは断トツだが、それは教職員と学生数の比率にも表れている。アイビーリーグのほとんどの大学が、教員1に対して学生5。1対20である多くの大学と比べて、いかにきめ細かい対応が用意されているかがわかる。
それだけに学生生活はかなりハードだ。米国の大学では最初に年間のカリキュラムが明確に提示され、授業ごとに予習の必要な範囲も示される。 授業には予習をしたうえで臨むのはもちろん、独創的な質問や研究をすることも期待される。
ハーバード大学に通う留学生、山田寛久さん(20)は、「宿題はとにかくたくさん。毎週出てきつい」と苦笑する。ただ、「宿題が出るクラスもあれば、たまにペーパーを出すクラスもある」という。イェール大学の留学生、古賀健太さん(23)も、「想像より授業や宿題はきついが、刺激的で毎日が楽しみ」と話す。
コンピュータサイエンス専攻の古賀さんは、「同じ専攻以外にも文学や演劇、哲学などの学生と気軽に交流できて、毎日が知的刺激にあふれている。これは日本の大学では味わえなかったこと」とその充実ぶりを語る。
一方東京大学理科Ⅰ類にも合格し、数カ月間通学したこともある山田さんは、「東大にもすごい学生はたくさんいる。だが、日本人として米国の大学に通うからこそ生じる付加価値を身に付けられるのは、やはりハーバード」と言う。
入学選抜
大学名 | 入学許可率 (%) | 入学許可された者の数 | 応募者数 |
---|---|---|---|
ハーバード | 5.20 | 2,056 | 39,506 |
コロンビア | 5.84 | 2,185 | 37,389 |
プリンストン | 6.09 | 1,890 | 31,056 |
イェール | 6.91 | 2,272 | 32,900 |
ブラウン | 8.32 | 2,722 | 32,724 |
ペンシルベニア | 9.15 | 3,699 | 40,413 |
ダートマス | 10.44 | 2,092 | 20,034 |
コーネル | 12.52 | 5,889 | 47,038 |
アイビー・リーグを構成する8校はすべてU.S. News & World Report誌が毎年発行している大学ランキングで常に15位以内に入っており、各学部・大学院とも入学は難関とされている。2017年の学部課程の新入生としての応募者に対する入学許可率は、5.2 - 12.52%であった。
外部からはアイビー・リーグは結束の固いグループとして見られるが、実際には各大学内、そして大学間での競争はかなり激しい。これらのエリート校の間では、学生獲得競争も過熱気味である。2002年には、プリンストン大学の入試担当職員がイェール大学の入学選抜ウェブサイトにログインし、併願者の情報を盗み見るという事件が起きた。イェール大学は当該ウェブサイトにソーシャル・セキュリティ・ナンバー以外にパスワードをかけていなかったのである。事件は連邦捜査局 (FBI) に通報され、プリンストン大学の入学事務室長が辞職する事態になった。
日本との関係
第二次世界大戦前から東京六大学野球連盟とスポーツ試合があり、その延長で学術的交流が存在していた。現在は、出雲全日本大学選抜駅伝競走に出場するなど、東京六大学野球連盟以外のスポーツ交流も深まっている。
その他
彼らのブレザースタイルを中心としたトラディショナルな着こなしは、「アイビー・ルック」と呼ばれ、米国エリート学生の象徴として日本でも人気を博した。 日本においてアイビー・リーグの知名度を上げたのはVAN創業者の石津謙介であり、写真集『TAKE IVY』(林田 昭慶)の人気とともにアイビー・ルックというファッションを流行させた。アイビー・ルックは、1960年代の日本において、みゆき族とともに一大ファッション・ムーブメントとなった。