飛鳥寺(2)

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飛鳥寺(あすかでら)は奈良県明日香村飛鳥に建立された日本で最初の本格的な寺院であった。豪族の蘇我馬子が創建した日本最古の寺である。

概要[編集]

588年(崇峻元年)造営を開始し、590年に用材の伐採が始まった。592年、本堂と回廊の建設に着手し、593年に百済からもたらされた仏舎利を塔の心礎に収め、塔の建設に着手した。596年(推古4年)に塔が完成し、馬子は息子の膳徳を寺司に任命し僧を居住させた。605年(推古13年)、本尊の鋳造を開始する。高麗国の大興王から黄金三百両を送られた。寺院全体は606年(推古14年) 本尊の金銅釈迦如来像が完成し金堂に安置した。この時点で完成したと考えられている[1]。建設地は飛鳥真神原である。

百済の支援[編集]

倭国は自力で寺院建立ができなかったため、技術指導を百済に要請し、6人の僧、寺工(寺大工)、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者の派遣を受けた。。『元興寺縁起』の塔露盤銘によれば、 東漢氏が建設にあたり、金工は忍海・朝妻・鞍部・山西の各氏が統率し たとする。595年には高句麗僧恵慈が渡来し、596年百済僧恵聡とともに飛鳥寺に居住し、「三宝の棟梁」となった。

その後[編集]

当初「法興寺」、「元興寺」とも呼ばれたが、平城京遷都の8年後に平城京に移り、「元興寺」となる。飛鳥に残った寺院は「本元興寺」の名称となった。

発掘調査[編集]

1956年,1957年の奈良国立文化財研究所による発掘調査で、伽藍配置は一塔三金堂 式伽藍配置と判明した。南大門、中門、塔、中金堂、講堂と一直線上に並び、塔の東西に金堂を配置している。この形式は同時代の百済には見られず、高句麗時代の清岸里廃寺(平壌、創建478年)と同じである。すなわち高句麗の影響で建てられていることが分かる。 飛鳥寺の西門は正門の南門よりも大きく、壮大な門であることが発掘調査で判明している。 第3次調査で出土した埋納物はわが国初の寺院の塔の舎利荘厳具として貴重なものである硬玉・碧玉・琥珀・水晶・銀・ガラスなどで作られた勾玉・管玉・水晶の切子玉・空玉・トンボ玉などの多数の玉類、金環、金銀の延板と小粒、金環、金銅製打出金具・金銅鈴・金銅製瓔珞、青銅製馬鈴、挂甲、蛇行状鉄器、刀子、馬鈴など1750点の遺物が出土した。

出土する瓦は軒丸瓦であり、蓮華文は蓮先端の切れ込みや蓮子の大きさが百済の扶余から出土する蓮華文に似ている。

現在[編集]

創建時の伽藍はすべて失われ、塔や金堂の礎石だけが残る。現在はその飛鳥寺中金堂跡に「安居院」という小さな寺院が建つ。香久山にあった寺僧が飛鳥寺に隠居し、寺号を「安居院」と改め、破損していた飛鳥大仏を補修した。

飛鳥大仏[編集]

「飛鳥大仏」と呼ばれる釈迦如来坐像が本尊で、606年の作。日本最古の丈六仏である。幾度もの火災にあって後世の補修が多いが、顔の上部と右手の中央の指3本は当時のまま残る。本尊の銅造釈迦如来坐像は国の重要文化財となっている。

アクセス等[編集]

参考文献[編集]

  1. 熊谷公男(2008)『大王から天皇へ』講談社