アントニア・ブリコ
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アントニア・ルイーザ・ブリコ(Antonia Louisa Brico[1], 1902年5月22日 - 1989年8月3日)は、オランダ出身の指揮者、ピアノ奏者。[2]
ロッテルダムの出身。6歳の時に家族でアメリカに移住。1919年にオークランドの高等学校を卒業するころにはピアノ演奏に熟達していた。その後、カリフォルニア大学バークレー校に進学し、ジグムント・ストヨフスキにピアノを師事して1923年に卒業した。大学在学中からサンフランシスコ歌劇場の音楽監督の助手を務め、1927年からドイツに留学し、1929年までベルリン国立音楽院で指揮法を学んだ。音楽院在学中にはカール・ムックの許で研鑽を積んでいる。1930年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューを飾る。1933年にはニューヨークのミュージシャンズ交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを果たす。1934年には女性のみで結成された交響楽団の指揮者となり、1942年まで率いた。1938年にはニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団に客演し、1939年にニューヨーク万国博覧会のコンサートを指揮。1942年にはコロラド州デンバーに定住し、その地でバッハ協会を立ち上げたうえで、女性メンバーによる弦楽合奏団を結成。1946年には指揮者及びピアノ奏者としてヨーロッパに演奏旅行に出かけ、この旅行中にジャン・シベリウスに招聘されてヘルシンキのオーケストラを指揮している。1948年にはデンバー・ビジネスメンズ管弦楽団を設立し、1968年には自らの名前を冠した交響楽団に改称して1980年代半ばまで活動した。1985年に引退。
デンバーにて没。
脚注
- ↑ Annico (2020-10-01) AnnicoAlyssa In One Ear and Out the Other: Antonia Brico and Her Amazingly Musical Life | School Library Journal 2020-10-01 arch. 2021-11-28 2021-11-28
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