興福寺

提供: Yourpedia
2021年11月24日 (水) 16:16時点におけるEifuku21 (トーク | 投稿記録)による版 (追記)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

興福寺(こうふくじ, Kofukuji Temple)は南都七大寺のひとつで、法相宗の大本山である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。

概要

前身の開山

645年(皇極4年)藤原鎌足乙巳の変のクーデターが成功することを祈り、成功した暁には釈迦三尊像と四天王を作る願いを立てたという。クーデターの成功後、病を得たとき妻[1]の勧めにより山科に釈迦三尊四天王などの諸仏を安置するため「山階寺」を造営しした。[2][3]。 「山階寺」の所在地は長く不明であったが、JR山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である[2]。京都府山科区御陵大津畑町に「山科寺跡」の碑がある。

厩坂への移転

壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻ったとき山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、「厩坂寺」と称した。その正確な位置は不明とされているが、候補地として大軽町の北、現奈良県橿原市久米町と奈良県橿原市石川町の境の小字丈六とする説がある。『 日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源がある地名で、軽坂と厩坂は同地に存在していた。福山敏男は(橿原市石川町字 ウラン坊で発見された円形の造り出しを持つ礎石 6個 と重弧文軒平瓦が出土したことから、軽池北遺跡付近に比定している[4]

興福寺の開山

710年(和銅3年)、平城遷都の際に藤原不比等によって厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と命名された。藤原氏の氏寺であった。最近では山科寺と興福寺は別の寺とする説もあるが、正倉院文書の経典の貸出記録に同じ経典の借用先が山科寺と興福寺と書かれており、同一の寺と見られる[2]

奈良時代の興福寺

興福寺は平城京の東端南北東西各四町の16町の敷地に、東六坊大路の西側4町、南側4町園池(現猿沢池)も興福寺の敷地であったから、合計24町という広大な敷地であった。東大寺以前では、大安寺・薬師寺をしのぎ、当時としては最大の寺院であった。興福寺の敷地は平安遷都の計画段階から決まっていたと思われる。 藤原不比等が亡くなると妻の三千代の願いで、中金堂内に弥勒仏の浄土を再現する彫像群が作られた。その後も、聖武天皇による東金堂(726年)、光明皇后による五重塔(730年)、西金堂(734年)が作られた。奈良時代の造営の最後に講堂(746年)を建築した。 奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされた。730年(天平2)光明皇后五重塔を建立した。813年(弘仁4年)藤原冬嗣南円堂を建立した。 平安時代には本地垂迹説に基づいて、興福寺は春日大社を支配下に収めた。

鎌倉時代・室町時代

鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。1595年(文禄4年)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められた、

明治時代

1868年(慶応4年)4月7日、大和国鎮撫総督府から春日大社における権現などの神号の廃止命令が出された。大乗院一乗院は連名で鎮撫総督に「復飾(還俗)願い」を提出した。神祇局は還俗を許可し、興福寺の僧侶に「新宮司」の地位を与えた。春日大社の仏具類は、興福寺に引き取らせ、完全に神仏を分離させた。堂塔は破却処分となり、境内と七堂伽藍が残った。一部の千体仏は、民間に流出し、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)などに流出した。他に快慶作の木造弥勒菩薩立像はボストン美術館、乾漆梵天・帝釈天立像はアジア美術館(サンフランシスコ)、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)は東京国立博物館に行ってしまった。興福寺の廃仏毀釈においては五重塔(国宝)も破却の危機にあった。

五重塔

730年(天平2年)、興福寺の創建者である藤原不比等の娘の光明皇后の発願で建立された。その後、5回の焼失・再建を繰り返した。現在の塔は1426年(応永33年)頃に再建されたものである。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されている。塔の高さは50.1メートルあり、日本の仏塔として京都、東寺の五重塔に次ぐ規模である、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物である。

注・参考文献

  1. 鏡女王
  2. 2.0 2.1 2.2 多川俊映・金子啓明(2018)『興福寺のすべて』小学館
  3. 『興福寺流記』所引「宝字記」に「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と書かれる
  4. 大協潔(1977)「遺跡の位置と環境」『軽池北遺跡発掘調査報告』(軽池北遺跡調査会)、奈良文化財研究所、pp.3-8