新人会

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新人会(しんじんかい)は、1924年頃、東京帝国大学で組織されていた左翼団体[1]是枝恭二や後藤寿夫(林房雄)がリーダーとして活動していた[1]

政治研究会の創立や総同盟内紛の話は学内でよく知られていた[1]

石堂 (1986 46)は、会員相互の関係が慣れなれし過ぎることや、学連の女子学生と連れ立って歩いている姿に多少抵抗を感じていたという。

大阪市電のストライキのとき、一部の学生がスト破りを計画した事件で、批判演説会を開いていた[1]

朝永三十郎は初期の新人会と交渉があった[2]

1924年11月の講演会では京大に在籍していた後藤信夫が「マルクス主義について」と題して講演した[3]

同年12月の6周年記念講演会では石浜知行麻生久が講演し、会友の森戸辰男元教授が「思想と闘争」と題して講演し、反響が大きかった。講演速記は小冊子として改造社から刊行されて数版を重ね、版権が会に譲渡されて会の基金となった。[3]

新人会の初期メンバーには帝大キリスト教青年会の関係者が多かった[4]クリスチャンだった教授の吉野作造が創立時の顧問のような立場にあり、新人会の会員のうち、河村又介、河野密、松沢兼人、山崎一雄、早坂二郎、新明正道、風早八十二、赤松克麿らは『東京大学基督教青年会年表』にも名前を載せており、新人会と関係の深かった星島二郎、森戸辰男、木村久一らもキリスト教青年会の関係者だった[4]

催事のとき、学内の講堂や集会所は紹介教授が居ないと使用許可が下りなかったが、新人会は主に吉野作造の認印をもらっていた[5]。また本郷追分にあったキリスト教青年会の宿舎を会合に使っていた[4]

1925年の小樽高商軍事教育事件の後、軍部・文部当局に対する抗議活動が高潮し、この頃開かれた新人会の7周年紀念講演会には学生約1,000人が集まった。新人会が単独で開催した会合の中で最大規模の集会だった。[6]

森川町合宿[編集]

1926年頃、新人会の本部は谷中の桜木町から下谷の清水町に移っていた[7]。会では会員が増えたので別に合宿所をつくることになり、本郷通り岡野栄泉堂と教会の間をおりてカフェ・エトアールの近所にある三河屋の離れ屋敷を借りて拠点とし、労働組合や農民組合、地方の学連の上京者の宿泊所にしていた[8]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749