暁烏敏
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暁烏 敏(あけがらす はや)は、石川県の出城村(現白山市)北安田の明達寺の住職[1]。
1913年-1914年頃、明達寺で日曜学校を開いていた[1]。日曜学校では、讃仏歌を作詞して讃美歌の歌詞で小学生に歌わせたり、お伽話を話して聞かせたりしていた[1]。
1920年-1921年頃、九津見房子の紹介で日本社会主義同盟に加盟しようとした[2]。
家族
暁烏の妻は小松中学で石堂清倫の友人だった今川尚のいとこだったが、奈良の女高師を出て春辺会に参加していた原谷とよ子は暁烏の愛人になった[3]。
評価
石堂 (1986 30-31)は、大正期の石川県における暁烏ら浄土真宗の僧侶による思想運動は、理論というより心情的なものだったが、その分却って理想主義的な学生や若い知識人の心条に合うところがあり、大きな役割を果たすことが期待されたが、1921年(大正10)以降、県下で政治研究会や労働農民党、労働組合が結成されると、僧侶達は社会主義を批判するようになり、満州事変以降は大衆運動から離れた、と評している。
付録
脚注
参考文献
- 石堂 (1986) 石堂清倫『わが異端の昭和史』勁草書房、ISBN 4326151749