千家尊福

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千家 尊福(せんけ たかとみ、1845年 - 1918年)は、日本の宗教活動家。第80代の出雲国造・千家家の当主で、宗教団体・出雲大社教の創始者。明治維新後の国家神道形成期に神道西部管長に就任。神道事務局に祀る祭神を巡る祭神論争伊勢神宮の大宮司・田中頼庸と対立し、1872年に出雲大社の大宮司に就任すると、1873年に信者団体を結集して出雲大社敬神講を組織した。1882年の神官の布教活動・葬祭行為禁止通達を受けて出雲大社と信者団体を分離し、出雲大社の大宮司を辞任して宗教団体・神道大社教の初代管長となった。

経歴

弘化2年(1845)生まれ[1]

出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造千家家の第80代当主となった[2][1]

明治維新の後、神道西部管長として、明治初年の国家神道形成期の神道界で指導的立場にあった[2]

明治5年(1872)に出雲大社の大宮司に就任し、明治6年(1872)に「甲子講」「出雲講」と呼ばれた出雲大社の信者団体を結集して「出雲大社敬神講」を組織[2][1]

  • 柏書房 (2011 249)は、千家は、「祭神論争」で民間の神道系講社が所属する団体・神道事務局に祀る祭神を巡って伊勢神宮の大宮司・田中頼庸と対立したことから、国家神道として祭祀を行うだけでなく、出雲大社の神道の伝道につとめる必要性を感じた、としている。
  • 村上 (1978 66)は、千家は、幽冥界の主宰神として人間に安心立命を与えるオホクニヌシノミコトの神徳によって、明治の新政下の人心を導こうと志した、としている。

敬神講の神道事務局加入後も「祭神論争」が数年間続き、千家は事務局からの独立を志向[1]

1882年(明治15)に政府が神官の布教活動禁止、葬祭行為禁止の通達を発出に伴い、出雲大社と出雲大社教会を分離して宗教団体・神道大社派を結成し、同年11月に神道大社教と改称して神道事務局から独立した[3]。千家は出雲大社の大宮司を辞し、神道大社教の初代管長となった[3]

1918年に死去[2]

付録

脚注

参考文献

  • 柏書房 (2011) 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
  • 村上 (1978) 村上重良『日本宗教事典』講談社、JPNO 79002209