石本新
石本 新(いしもと あらた、1917年6月 - 2004年)は、日本の論理学者。石本恵吉・静枝夫妻の長男。1942年、京都帝国大学理学部卒。翌月、召集され、1943年にスマトラ島へ出征、1946年に復員した。母方の親戚だった鶴見俊輔とは幼少の頃から親しく、復員後に鶴見が助教授となっていた東京工業大学で論理学を講義、『思想の科学』の活動にも参画した。1977年、慶応義塾大学文学博士[1]。東工大名誉教授[2]。
経歴[編集]
1917年6月、福岡で、男爵・石本恵吉と静枝夫妻の長男として生まれる[3][4][5]。
東京高等師範学校附属中学校から学習院高等科へ進学[6]。
母方の5歳年下の親戚に鶴見俊輔がいて、幼少の頃から交流があり[7]、1936年頃、軽井沢の祖母・広田敏子の別荘にいたとき、近くの別荘に来ていた鶴見とトルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキーなど、ロシアの小説について、話し込むことがよくあった[8]。
- 石本は「当時の戸坂潤に関心をもち、日本の軍閥主義を罵倒し、関東軍が暴走してもロシアの地のまもりにはブリューヘル将軍 がいると言ってロシアの自衛力に信頼をもって」いたという(鶴見の回想)[8]。
- 石本は鶴見に、クロポトキン(著)大杉栄(訳)『革命家の思出』[9]を勧めたことがあり[10]、鶴見のアナーキズムは石本譲りだったという[11]。
1937年12月、第1次人民戦線事件で母・静枝が検挙・留置される[12]。1938年1月上旬、黄疸に罹る[13]。同年4月、従五位華族の継嗣として参内し、天盃の下賜拝謁を受ける[14]。1939年4月、虫様突起除去手術のため茅場町の吉川病院に入院[15]。同月、京都帝国大学理学部に進学し、数学(記号論理学)を専攻[16][17]。
1942年9月、同大学を繰り上げ卒業し[3]、帰京すると、2週間後に召集を受け、翌10月1日に入隊、世田谷区淡島近衛連隊に所属した[18]。1943年4月、スマトラ島へ出征[19][20]。宮3811部隊重清隊(-1944年5月)[21]、富3811部隊本部浅野隊(1944年6月-8月頃)[22]、同部隊代永隊(1945年2月)[23]所属。
1946年4月に復員[24]。加藤勘中と再婚していた母・静枝の家で暮らす[25]。1949年に中国大陸から帰国した父・恵吉の入院の世話をする[26]。その後(1954年以降、同大学助教授となっていた鶴見俊輔の推薦で?)東京工業大学で論理学を教えた[27]。
1951年頃、思想の科学研究会会員[28]。雑誌『思想の科学』発刊の頃、市政会館の編集部に出入りしていた[29]。1950年秋から京都で始められた「記号の会」の月例の発表会の話し手となった[30]。
1960年夏に『思想の科学』が日米新安全保障条約の強行採決に反対する声明を出したときには、会の中でも最も保守的といわれていた石本が文案を起草した[7]。
1998年、体調を崩し入院、日本医大付属病院で胃の手術を受ける[31]。6年間の闘病の後、2004年、87歳で死去[3]。
著書[編集]
- 1965 ノヴィコフ(著)石本新(訳)『記号論理学』〈数学選書〉東京図書、NDLJP 2967760
- 1972 レモン(著)――・高橋敬吾(訳)『公理的集合論入門』東京図書、JPNO 69004906
- 1972 ――(訳編)『論理思想の革命 - 理性の分析』東海大学出版会、JPNO 74007566
- 1974 ヒルベルト、アッケルマン(著)――・竹尾治一郎(訳)『記号論理学の基礎 改訂最新版』大阪教育図書、JPNO 69004586
- 石本 (1977) 1977 ――『自然言語への回帰』慶応義塾大学文学博士論文乙第876号
- 1978 M.J.クレスウェル(著)――・池谷彰(訳)『言語と論理』紀伊国屋書店、JPNO 78020067
- 1982 H.ライヘンバッハ(著)――(訳)『記号論理学の原理』大修館書店、JPNO 82040332
- 1989 Raymond Turner(著)松田利夫・――(訳)『人工知能と論理』共立出版、ISBN 4320024974
- 1990 ――(編著)『自然言語の論理とその存在論 - レスニェウスキー存在論の立場から』多賀出版、ISBN 4811562321
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 石本 1977
- ↑ 船橋 1988 399
- ↑ 3.0 3.1 3.2 石本幸子 2013 2
- ↑ 加藤 1988 214
- ↑ 船橋 1988 399,400。この頃、父・恵吉は三井鉱山の三池炭鉱に赴任中だった(船橋 1988 361-362,400)。
- ↑ 船橋 1988 6,361
- ↑ 7.0 7.1 石本幸子 2013 375
- ↑ 8.0 8.1 石本幸子 2013 374
- ↑ 春陽堂、1924年、NDLJP 983058
- ↑ 黒川 2018 74
- ↑ 石本幸子 2013 376
- ↑ 加藤 1988 6,35
- ↑ 加藤 1988 53-66
- ↑ 加藤 1988 137
- ↑ 加藤 1988 274
- ↑ 加藤 1988 281
- ↑ 船橋 1988 378
- ↑ 船橋 1988 379
- ↑ 加藤 1988 341
- ↑ 船橋 1988 380
- ↑ 加藤 2013 40-106
- ↑ 加藤 2013 110-113
- ↑ 加藤 2013 115
- ↑ 船橋 1988 404
- ↑ 石本幸子 2013 346
- ↑ 石本幸子 2013 346-347,385
- ↑ 石本幸子 2013 2,375
- ↑ 黒川 2018 233
- ↑ 黒川 2018 190
- ↑ 黒川 2018 230
- ↑ 加藤 2013 358-360
参考文献[編集]
- 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090
- 加藤 (2013) 加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』朝日新聞出版、ISBN 978-4021002175
- 石本幸子 (2013) 石本幸子「解説」「あとがき」「略歴」加藤シヅエ・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』朝日新聞出版、ISBN 978-4021002175、pp.346-351,379-385
- 加藤 (1988) 加藤シヅエ(著)船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、JPNO 88052649
- 船橋 (1988) 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」加藤シヅエ(著)船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、JPNO 88052649、pp.359-406