野村東印度殖産
野村東印度殖産(のむらひがしいんどしょくさん)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の商社。ポンティアナク市に拠点を置き、ランダック河流域でのダイヤモンドの採取事業やマディ高原での水銀鉱床の調査・採掘事業などを展開した。
拠点
野村東印度殖産(以下、N社)は、ポンチアナク市内に拠点を置いた[1]。
ダイヤモンドの採取
カリマンタン島には、石油、鉄鉱石、水銀鉱、石炭、ボーキサイトなどの地下資源が埋蔵されており、このほかにダイヤモンドの原石を産出した[2]。西ボルネオのランダック河流域は、南ボルネオ・マルタプーラのプレハリー地域とならぶダイヤモンドの産地(砂鉱床)だった[2]。
戦時中、ダイヤモンドは戦時用物資の中の必需品の1つとされ、N社は、採取命令を受けて西ボルネオに展開し、ランダック河流域の砂鉱床におけるインドネシア人や華人による採取グループからの買付を独占し、また自社で砂鉱床の探査を行って直営採取を行った[2]。
当時、砂鉱床1m3当りに平均0.4-0.1カラットほどが含まれており、採取・集荷された中で最大のものは29カラット余のものだった。N社はこれを2,400円余で買い付けた[2]。
N社の社員は奥地のンガバン からランダック河を更に遡上したクアラベヘー に事務所を設置し、そこで1年半以上の間、ダイヤモンドの採掘を続けた[3]。
それから2年間、山深いジャングルの中での生活がはじまりました。ダイヤを掘り出すと言っても、2次鉱床地帯のため、地質学よりむしろ河川学を必要とした採鉱法は、まことにお粗末なもので、原始的な鉄の棒を地中につきさし砂礫層に当った感触だけで、その辺一帯を露天掘りするのですから、言葉通りの"宝探し"でした。
ある時は原地人の長老の神秘的な方法で、何とかいう鳥が夜中にとまる木の下を真剣になって掘りおこすと言った、毎日毎日が必死の思いの「宝探し」の日がつづきました。そして4ヵ月位してからようやくにして、米粒程のダイヤの原石1個を採取した時、思わずポロポロ涙をこぼしたことが忘れられません。
当時戦争に勝つために、飛行機の精密機械の研磨用として必要なダイヤ原石を採掘する重要な仕事をになっているのだと、唯々ひたすらに信じ切って、1年半以上も山を降りることなく頑張った、若かった当時の私の行動が走馬灯のように思いおこされます。
– 山地昭司 野村東印度殖産ポンチアナク支社時代の思い出 [3]
他にもクアラベヘーより上流のブリンビン、スリンボウ(Serimbu)、下流のバゴー、シボトなどに採掘現場を作った[3]。
水銀鉱床の調査
1942年の占領当初から、カリマンタン島は水銀鉱床の有望な候補地と考えられており、N社は南部メラツース山地やサンバス、南西部のメランティ山地で鉱床の調査を行い、メランティ山地スケレー地区ではマンガン・水銀鉱床を発見した[4]。
カプアス河源流域、マディ高原北西部の「トンガオ谷」と呼ばれた砂金の採鉱地では、砂金にバトゥ・メラ(赤い石)、バトゥ・トンガオ(トンガオ石)と呼ばれる赤から暗赤色の重鉱物が混入することが知られていたが、N社でこれらの石を調べた結果、良質な辰砂、メタ辰砂(硫化水銀)だったこことがわかった[4]。
そこでN社は日本人1人(平田茂留)と現地人約100人から成る調査隊を組織し、ナンガ・ブノット(Nanga Bunut)[map 1]を前進基地として、1943年5月から約1年にわたり奥地の調査を行い、パチカ、タタラ、プシンドック、テガリン、トンガオ、ロンカイ、ルアイの各水銀鉱床を発見[5]。日本から搬送した開発資材が全て米国の潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、原始的な採掘・選鉱方法(手掘り、樋流し、腕掛け)による生産だったが、1945年5月に戦況の悪化を受けて鉱業所を閉鎖するまでの1年余の間に、純水銀換算で15トンを生産した[5]。
- 1944年2月11日に平田と温が鉱床の発見に関してボルネオ民政部長官から表彰を受けた[5]。
- 調査隊は、山ヒル、ハマダラ蚊、豪雨、出水、交通途絶、食料欠乏、熱帯特有の悪疫などに悩まされ、ほとんどの隊員がマラリヤに罹り、一時、隊員の1/3近くがアメーバ赤痢を併発。隊の現地人幹部のうち、温燕金(ブン・ジャン・キン)は死亡してシンタン病院の墓地に葬られ、黄慶和(ボン・キン・ホウ)とザイニーは重症となり、調査終了後、数ヶ月間の静養を要した。[5]
付録
地図
脚注
参考文献
- 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073