スンガイ・ドリアン飛行場
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スンガイ・ドリアン飛行場(スンガイ・ドリアンひこうじょう、インドネシア語:Bandar Udara Sungai Durian)は、太平洋戦争中、西カリマンタンを占領した日本海軍のボルネオ民政部がポンティアナク市郊外に建設した飛行場。スンゲイ・ドリアン飛行場も同じ。1943年7月頃から、西ボルネオの各村に労務者2,000人を供出させ、半年以上かけて工事が行われた(完成時期未詳)。ポンティアナク事件のとき、この飛行場近くで現地住民170余人が殺害された。1945年4月末からの連合軍による空襲で破壊され、使用不能となった。戦後、修復され、空港として利用されている(1969年当時。現在のスパディオ空港 )。
建設
1943年7月頃から、ボルネオ民政部の交通土木局が、ポンチアナク市周辺に飛行場を建設することになり、町から16km[1]の川上に候補地を選定[2]。労務者2,000人の使役を想定して、労務者用の宿舎と事務所や倉庫、炊事場を設置し、各村に労務者の供出を割り当てて、村民を使役した[2]。工事は6ヵ月以上(1944年1月以降まで)続けられた[3]。
戦争中後期に、在留日本人の官民が軍の指示で勤労奉仕として何日か土運びをしたことがあった[4]。
現地住民の処刑地
1944年1月初旬から6月までの間または同年12月から1945年3月までの間に、(主な処刑地はマンドールだったが)飛行場付近で現地住民170余人が殺害された(ポンティアナク事件)[5]。
空襲
1945年4月29日から終戦まで定期的に行われた連合軍による空襲の際に、飛行場は連合軍の偵察機に発見され[6]、爆撃を受けて使用できなくなった[4]。
戦後の利用
戦後、1969年に元住友ボルネオ殖産の社員が現地を訪問したときには、飛行場として使用されていた[4]。