日本占領時期死難人民記念碑
日本占領時期死難人民記念碑(にほんせんりょうじきしなんじんみんきねんひ)、一般に英語:the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)は、シンガポール・ダウンタウン・コア の戦争記念公園 にある高さ222フィート(約68メートル)の慰霊塔。1967年に、シンガポール中華総商会 が中心となって、1960年代初めにシンガポール島内で発掘された華僑粛清の犠牲者の遺骨を納め、1942年2月から1945年8月の日本軍占領時期に殺害された無辜(むこ)の市民を追悼するために建てられた。日本語文献では血債問題との関連から血債の塔とも呼ばれる。
目次
遺骨の発掘
1961年の暮れから翌1962年1月にかけて、大規模な宅地造成工事が行われていたシンガポール・イースト・コースト 7.5マイルの「シグラップの谷」と呼ばれる場所で、大量の遺骨が出土し、日本がシンガポール占領直後に行った中国人粛清の犠牲者として新聞で連日報道された[1]。
シンガポール中華総商会 は、1962年1月31日に「日本占領時期死難人民遺骸善後委員会」を組織して、埋葬地点の情報を集めて遺骨の発掘調査をシンガポール全島で展開[2][1]。1965年までの第1次発掘で、遺骨収容容器155個分の遺骨が集められた[3][4]。
1962年2月28日に中華総商会はシンガポール政府に対日賠償要求交渉を進めるよう要請することを決議[1]。同年3月15日にリー・クアンユー首相は立法院で、日本に賠償を要求するとともに、シンガポール政府が遺骨の発掘区域を買い上げ、慰霊碑を建設する計画だと発表した[1][6][7][8]。
1963年3月に「日本占領時期死難人民記念碑募捐委員会」が結成され、記念碑建設のための募金が始められた[9][10]。同年4月21日にシンガポールで行われた募金運動の開会式では、リー首相が英国植民地政府が締結したサンフランシスコ条約ですべてが解決済とする主張を批判する演説をした[11]。
1966年に行われた遺骨の第2次発掘では、島内12地点から収容容器452個分の遺骨が発掘された[12]。
塔の建立
いつ?慰霊碑については、シンガポール政府代表と中華総商会の代表とで「紀念碑工作委員会」が組織され、政府がラッフルズ・ホテル斜め前の空地を提供したことにより、建設計画が具体化[12]。
1966年3月に慰霊塔の建設工事が開始され、建設途中の同年11月に、島内35ヵ所から発掘・収集された遺骸を納めた甕607甕のうち、身元が判明した2甕を除く605甕が塔の土台部分を含む池の地下に収められた[12][13]。
1967年1月に竣工、竣工後の管理はシンガポール政府に委ねられた[14][15][16]。
記念碑の建設費用48.7万シンガポール・ドルは、シンガポール中華総商会などが集めた募金28万シンガポール・ドルと、政府からの拠出金20.7万シンガポール・ドルで賄われた[17][18]。
意匠
当初は、日本軍の占領直後に起きたシンガポール華僑粛清事件の犠牲者の慰霊碑とすることが考えられていたが、最終的には、日本の占領中に犠牲になったシンガポールの全市民のための慰霊碑として建立された[6][19][20]。
碑は高さ222フィート(約68メートル)[21]の4本の白い塔からなり、4つはそれぞれ華人、マレー人、インド人、ユーラシア人を象徴している[6][22][23]。
塔の名称は一般に英語:the Civilian War Memorial(市民戦没者記念碑)と呼ばれており[23]、正式名称は台座部分に4つの言語(英語、中国語、マレー語およびタミル語)で示されていて、記念碑の正面礎石には英語:The Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation(中国語:日本佔领时期死难人民纪念碑)1942-1945と刻まれている[24][25][26][27]。
日本語文献では、中国語の正式名称から「日本占領時期死難人民記念碑」[28][29][30]、あるいは血債問題との関連から「血債の塔」と呼ばれている[31][28][32]。また形状が似ていることから[33]、「チョップスティックス(箸)」の愛称がある[34]。
塔の柱の下部内側には、4つの言語で碑文が刻まれており、「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」との内容になっている[35]。
塔の基底部には、台座下にある犠牲者の遺骨を納めた甕の象徴として、青銅の壺が置かれている[36][37]。
壺の台座には、4つの言語で碑文が刻まれている[38]。英語の碑文の内容は「1942年2月15日から1945年8月18日までの間、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、われら住民の内から無実の罪で殺された者は多く、数えきれないほどだった。20余年が過ぎたいま、はじめてここに遺骨を収集し、ていちょうに埋葬するとともに、この碑を建立して、その悲痛の念を永久に誌してとどめる」。[38]
所在地
シンガポール・ダウンタウン・コア の、ブラス・バッサー路 とビーチ路 (シンガポール) の交差点の、ラッフルズ・ホテルの向い側にある戦争記念公園 の中にある[23][29]。[39]
慰霊
落成式
1967年2月15日に、リー・クアンユー総理の主催で、政府幹部、各国使節、各界代表、遺族ら約1千人が参列して落成式が行われた[14][40][41]。
追悼式
以来、(1987年当時まで)毎年2月15日に犠牲者の追悼式が行われている[42][43][44]。
日本人の参拝
1967年2月の落成式には、駐在日本大使も出席した[42]。
同年10月に佐藤栄作首相がシンガポールを訪問したが、慰霊塔は訪問しなかった[45]。
1972年の慰霊塔建立5周年のとき、時事通信のシンガポール特派員が『世界週報』(時事通信社、1972年4月4日号、発売はその数日前)誌上で、碑をもう少し目立たない場所に移す計画があるという噂を取上げて、現地の日本人がそれに期待している旨の報道をし、これを荘恵泉が1972年4月2日の『星洲日報』で批判し、シンガポール政府と中華総商会に計画の有無を問いただし、「全くその気はない」との回答を得たことがあった[46]。
- 高嶋 (1987 29)は、同記事中には、塔が日本の無償援助の一部を充てて建設された、対日補償要求は1965年にシンガポールが分離独立した後「忽然として起こった」等々、事実を誤認した決め付けが多かったと指摘している。
1976年2月15日の追悼式には、高橋・シンガポール日本人会会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した[47][48]。
1994年8月28日に、村山富市首相が日本の首相として初めて慰霊塔を訪れ、献花した[49][50]。
観光ガイド
高嶋 (1987 13-14)は、戦争記念公園 はシンガポールの中心地にあり、周辺をツアーで訪れる日本人観光客は多いが、現地のツアーガイドは質問されない限り塔について説明しようとしないし、質問してもまともに答えない、としている。
付録
関連文献
- 『日本占領時期死難人民紀念碑徴信録』新嘉坡中華総商会、1969年
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 シンガポール日本人会 1978a 101-102
- ↑ 高嶋 1987 21-22
- ↑ 3.0 3.1 高嶋 1987 22
- ↑ シンガポール日本人会 1978a 101-102。同書は、遺骨の発掘は1962年いっぱい継続された、としている。
- ↑ 林 2007 163
- ↑ 6.0 6.1 6.2 岩崎 2013 52-53
- ↑ 林 2007 163,236
- ↑ 南洋商報 1962-03-01
- ↑ 林 2007 236
- ↑ 篠崎 1978 80は、シンガポール華僑粛清事件の被害者遺族を中心とした「集体鳴冤委員会」の発議に基づいて建てられた、としている。
- ↑ 林 2007 240
- ↑ 12.0 12.1 12.2 高嶋 1987 23
- ↑ 林 2007 163,236。同書は、台座の下に納められた、としている。
- ↑ 14.0 14.1 林 2007 236,238
- ↑ 篠崎 1978 80,81
- ↑ 篠崎 1976 220-221
- ↑ 林 2007 238
- ↑ 篠崎 1976 222は、シンガポール政府が中華総商会に対して記念碑建設費として50万ドルを交付し、当時の中華総商会主席・孫炳炎(ソンペンヤム)が更に50万ドルを会より支出、合計100万ドルで建設した、としており、篠崎 (1978 81)は、「中華総商会はさらに50万ドルを預金して」塔を建設したとし、政府の支出については言及していない。
- ↑ 林 2007 237
- ↑ 篠崎 1976 220-221は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に虐殺された華僑犠牲者の霊を慰めるため」としており、篠崎 (1978 80)は、「日本軍がシンガポールを占領した直後に行った華僑虐殺の被害者のほか、戦争中の砲爆撃で亡くなった人や、占領中に治安維持法や軍規に触れたとして死刑になったり、獄中死した人々も含まれている」としている。
- ↑ 篠崎 (1978 80)は「125メートル」、篠崎 (1976 220-221)は「120メートル」としている。
- ↑ 高嶋 1987 13
- ↑ 23.0 23.1 23.2 林 2007 14
- ↑ 林 2007 14,219,237
- ↑ 高嶋 1987 14
- ↑ 篠崎 1976 220
- ↑ (編注)写真などを見ると、マレー語ではマレー語:Tugu Peringatan Bagi Mangsa Awam Pemerintahan Jepun。タミル語の名称は不詳。
- ↑ 28.0 28.1 林 2007 14,163,236
- ↑ 29.0 29.1 篠崎 1978 80
- ↑ シンガポール日本人会 1978b 567。「日本占領時期受難人民記念碑」
- ↑ 高嶋 1987 12
- ↑ 篠崎 1976 220は「華僑虐殺記念碑」としている。
- ↑ サイレンバーグ 1988 316
- ↑ シンガポール政府観光局 2020
- ↑ 林 2007 14-15,237
- ↑ 林 2007 5
- ↑ 篠崎 (1978 80)および篠崎 (1976 222)は、この壷には遺骨の一部が納められている、としている
- ↑ 38.0 38.1 高嶋 1987 14-15
- ↑ (編注)林 (2007 14)に「地下鉄シティ・ホール駅を出た海側」とあるが、Google mapsで見ると最寄はMRT環状線のプロムナード駅 (E番出口)のもよう。
- ↑ 南洋商報 1967-02-16
- ↑ 篠崎 1978 81は、中華総商会の孫炳炎会頭が祭主となり、各商工会議所代表、宗教団体、遺族多数が参列した、としている。
- ↑ 42.0 42.1 高嶋 1987 24
- ↑ 篠崎 1978 81
- ↑ 篠崎 1976 223
- ↑ 林 2007 15-16,241。日本の駐シンガポール大使は「祖国に忠誠を尽くした無名戦士の墓ならともかく、シンガポールの記念碑は戦争中に死んだ一般人の墓にすぎない。わざわざ首相が行く性質のものではないと思う」とコメントした(同、『朝日新聞』1967年8月19日付からの引用として)。
- ↑ 高嶋 1987 28-29
- ↑ 篠崎 1978 82。「現地の人々に喜ばれた」(同)。
- ↑ 南洋商報 1976-02-16
- ↑ 林 2007 15
- ↑ 聨合早報 1994-08-29
参考文献
- 岩崎 (2013) 岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』〈中公新書〉中央公論新社、ISBN 978-4121022080
- 林 (2007) 林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、ISBN 978-4874983867
- 原 (1995) 原不二夫「マレーシア、シンガポールの賠償問題」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.10、1995年12月、NDLJP 4427969/15 、pp.26-30
- サイレンバーグ (1988) サイレンバーグ, ジョン・バートラム・グァン(著)幸節みゆき(訳)『思い出のシンガポール - 光の日々と影の日々』幻想社、ISBN 4874680550
- 高嶋 (1987) 高嶋伸欣『旅しよう東南アジアへ - 戦争の傷跡から学ぶ』〈岩波ブックレット 99〉岩波書店、ISBN 4000030396
- 篠崎 (1978) 篠崎護「日本占領時期死難人民記念碑」(シンガポール日本人会 1978 80-82)
- シンガポール日本人会 (1978a) 「戦後の日本人の歩み - シンガポール日本人会を中心に」(シンガポール日本人会 1978 83-137)
- シンガポール日本人会 (1978b) 「シンガポール・日本関係年表」(シンガポール日本人会 1978 563-568)
- シンガポール日本人会 (1978) シンガポール日本人会『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』シンガポール日本人会、1978年、JPNO 79090009
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 聨合早報 (1994-08-29) REUTERS「日本首相村山富市到死难人民纪念碑献花圈 」『聨合早報』1994年8月29日、p.2
- 南洋商報 (1976-02-16) 「日治蒙難人民紀念碑‐舉行九週年祭奠」『南洋商報』1976年2月16日、p.18
- 南洋商報 (1967-02-16) 「死難人民紀念碑擧行隆重揭幕禮」『南洋商報』1967年2月16日、p.1
- 南洋商報 (1962-03-01) 「中華總商會董事會議一致通過 ‐ 請政府向日本交涉賠償遭屠殺者家屬」『南洋商報』1962年3月1日、p.5
外部リンク
- シンガポール政府観光局 (2020) ホーム > 観光&体験 > 歴史 > ウォー・メモリアル(市民戦没者記念碑) 2020年6月7日閲覧