スマラン慰安所事件
スマラン慰安所事件(スマランいあんじょじけん)は、1944年2月-4月にジャワ島中部スマラン市で、日本軍の将校や慰安所の経営者の軍属らが、民間人抑留所のヨーロッパ人女性を同市内の慰安所へ連行し、女性を強姦し、殴打・脅迫するなどして売春を強要した事件。ヨーロッパ人女性たちは、日本軍(第16軍)の占領下にあって女性・子供の民間人抑留所に抑留されていたところ、日本軍(南方軍幹部候補生隊)の将校や憲兵によって、目的を伏せたり、「事務所で働くため」などの虚偽の説明を受けたりして市内4カ所の慰安所へ連行され、売春を拒否した女性は強姦され、殴打されたり、「家族に危害を加える」「食事を与えない」「より待遇の悪い慰安所へ移す」などの脅迫を受けたりして、約2ヵ月間にわたり売春を強要された。1947年-1951年のオランダ軍バタビア裁判で、強制的な連行や売春の強要を実行・指揮したこと、強姦、慰安所での虐待が戦争犯罪にあたるとして、軍人・軍属11人が有罪判決を受け、1人が死刑となった。
目次
背景
日本軍のジャワ島占領と欧州系住民の抑留
1942年3月にジャワ島を占領した日本軍(第16軍)は、バタビアに軍政監部を設置して蘭印政府の中央機関を解体・吸収し、地方では州庁・警察幹部など従来の行政機構の要職に日本人を配置する形で軍政を敷いた。軍政に携わるために日本から官吏や事務職員など2,000人余が軍属としてジャワ島へ渡った。[1]
ジャワ島に住んでいたオランダ・インドネシアの混血を中心とするヨーロッパ系の住民は、「外国人居住登録」を受け、占領当初は捕虜となった成人男性以外はその多くが収容所外で生活していた。その後、1942年の後半頃には、15万人超が捕虜ないし民間人抑留者として抑留所に収容され、約22万人が収容所外での生活を続けていた。[2]
民間人抑留所は、当初は軍政監部が管轄しており、軍政監は第16軍の参謀長(国分新七郎少将)が兼任していた。しかし1943年11月に、生活に逼迫する「敵性外国人」の管理について治安上の不安が高まったとして、「軍抑留者取扱規程」が発出され、1944年3月1日から第16軍司令部に移管されることになった。[3][4][5]
慰安所の設置
ジャワ島で女性に性的サービスをさせる「慰安所」を設置するには第16軍司令官の認可が必要で、定期的な性病検診や、適当な料金体系の設定、慰安所で働く女性の自主的な就業などが認可の要件とされていた。第16軍では、参謀部の兵站担当の将校が慰安所の免許の発行や運営の監督を担当していた。[2]
1943年の後半まで、日本軍は、現地のホテルの経営者などに、施設を日本人用の慰安所として運営するよう指示し、売春宿の経営者や仲介業者に売春をする女性を募集させており、女給として募集した女性に売春をさせたり、就業した女性が言うことを聞かないときに脅迫した事例はあったが、抑留所から軍の慰安所へ組織的・強制的に女性を連行した事例は記録されていなかった[6]。
しかし、1943年の後半に慰安所の設置が第16軍の直接管理化に置かれると、ジャワ島の各地で、軍や憲兵隊が、抑留所から女性を徴用して慰安所で働かせるようになった。集められた女性は、外海諸島 の慰安所へも送られた。[7]
- 日本軍が抑留所の女性を徴用するようになった背景として、民間の売春宿で性病が増加して問題になっていたことや、売春に従事していたヨーロッパ系の女性たちが特定の日本人男性と愛人関係になることを志向し、自発的な応募では売春宿で働く女性の数が確保できなくなっていたことがあったとされる。このため、当時、売春宿で就労可能な若年女性が約2万人いるとみられていた民間人抑留所から女性を徴用して問題を解決することが志向されたとみられている。[8][3]
スマランの軍慰安所の設置を担当していたのは、日本軍の南方軍幹部候補生隊(幹候隊、隊長・能崎清次中将)の幹部だった[9][10]。
- 幹候隊は、1943年5月にジャワ島に設置された南方軍直属の幹部候補生の訓練部隊で、大学や専門学校を卒業して入隊した20代前半の兵士を約8ヵ月間訓練し、少尉として原隊に送り返していた。ジャワ島中部・スマランには本部と歩兵隊が置かれ、幹部候補生隊の隊長がスマラン州の駐屯地司令官を兼任していた。[11][12][3]
事件
計画・許可
戦後の戦犯裁判での幹候隊・能崎隊長の証言によると、1944年1月に、能崎隊長は、当時のスマラン州の長官(日本人)から、抑留所のヨーロッパ系女性を使った慰安所設立の希望を伝えられ、当時の部下で兵站を担当していた大久保大佐・池田大佐の2人から、抑留所の2万人の女性の中から100人程度の志願者を集めることは可能だと伝え聞いて、大久保らに慰安所を開設させることにしたという[1][10]。
大久保大佐と池田大佐は、軍慰安所の設置計画を作成し、池田大佐と岡田少佐はバタビアの第16軍司令部を訪問し、申請書を提出した。その後、1944年1月末-2月初から同年3月末頃まで、池田大佐は日本の東京教育総監部へ出張し、不在の間、池田大佐の事務は幹候隊の岡田少佐が引き継いだ。岡田少佐は、バタビアの第16軍司令部を訪問して慰安所の開設許可を受け、バンドンに開設されていたヨーロッパ人女性を働かせている軍慰安所を体験視察のため自主的に訪問した。[13][14][15][16][17]
徴募と連行
1944年2月10日に、第16軍からスマランの慰安所開設の許可が下りた[1]。同月下旬に、慰安所の経営者となる予定だった軍属4人と高橋少佐、石田大尉ら幹候隊の将校は、徴募する女性を選別するため、スマラン周辺の7カ所の女性の抑留所を訪問し、候補となる女性の名簿を作成させた[10][16]。
- 徴用者名簿の作成命令に対する収容所側の反応は様々で、例えばランペルサリ収容所では反対運動が進められ、日本側が譲歩することになったが、「残りの被収容者のために彼女等を差し出した方がいい」という意見も出ていたという[18]。
日本軍の将校の1回目の訪問から数日後の1944年2月の最終週(2月25-26日頃)に、幹候隊の将校と、憲兵、慰安所経営者らは、民間人抑留所を再び訪問して、17歳または18歳から26歳または28歳くらいまでの若い女性を選別し、トラックに乗せて連行しようとした[16][19][9][11][1][4]。このときの訪問先となった抑留所には、
- アンバラワ 第1または第6
- アンバラワ第4(のち第9)
- スモウォノ (アンバラワ第9-II)
- バンコン Bangkong
- ランペルサリ Lamper Sari (ソンポク Sompok)[map 1]
- ハルマヘラ Halmahera[map 2]
- ゲダンガン Gedangan
このうち、
- スモウォノ、バンコン、ランペルサリの3カ所では、抑留所のヨーロッパ人の管理者たちが抵抗したため、女性を連行することができなかった[16][20]。
- ハルマヘラ抑留所からは11人の女性が連行されたが、うち3人は病気のために抑留所へ戻され、数日後に、16歳の少女が若すぎるという理由で帰された[16][23]。
- ハルマヘラ抑留所からの連行の後、幹候隊の担当将校らは、アンバラワ第4・第6の2カ所の抑留所を訪問し、抑留所の女性たちから強い抗議を受けながら、選別した女性18人を連行した[16][24]。このとき、日本軍は、選別した女性は「事務の仕事に就かせる」などと説明し、売春を強要することは伏せていた[16][21]。
- その後、幹候隊の将校らは、ゲダンガンの収容所を訪問したが、同収容所では、日本軍が、志願者の女性[25]以外の女性を力ずくで連行しようとしたところ、抑留者が竹棒やパイプを持って抵抗したため、志願者の女性10数人のみを連行した[16][21][26]。このうち数人は、スマランに到着後まもなく収容所に戻されたが、少なくとも10人は残った[16][26]。
こうして、35人または36人の女性が集められた。この中には、慰安所で働くことを志願した女性も含まれていたが、ハルマヘラ、アンバラワ第4および第6抑留所から徴用された少なくとも24人または25人の女性は、慰安所での売春を希望していないにもかかわらず、強制的に徴用され、売春を強要されることになった。[16][26][27]
承諾の署名
各収容所から集められたオランダ人女性たちは、スマラン市内のカナリー・ラーン Kanari laan(Kenari 通り)[map 3]にあった建物で、仕事の内容についての説明をはぐらかされたまま、「徴募に喜んで応じる」とする誓約書に署名させられた[21][9][1]。
女性たちは、50ギルダーの前払いを受け(たが断り)、医師による(性病)検査を受けた後、「将校クラブ」、「スマラン・クラブ」、「日の丸」、「青雲荘」ないし「双葉荘」の4ヵ所の「慰安所」に配属された[21][26]。
この検査は洗滌室に充てられてゐた「ガレージ」の中で行はれた。その中には一台の手術台と壁にかゝった「ゴム」管のついた石油缶が設備されてゐた。その他には「つい立」のやうなものもあった。検査は日本人の医師伊藤と白井に依って「スペクルム 」で強引に行はれたり指で行はれたりした。其の場には中崎、井上、根立、佐藤等の憲兵、松原(「ジャティガレ 」の長)、古谷、その妻君「オクサン」又、慰安所の運転手兼番頭「ヨハン・オリエ」、及村上軍医大佐等も見てゐた。婦女達は交互にこの手術台に乗せられ一番検査に都合のよいやうな格好をした。之を眺めてゐるものが見て、大声で笑ひたてた。恐れと痛みから台から降りやうとすると、手荒く取扱はれたが中でも「ジョクジャ 」から来た伊藤は一番酷かった。此の時の村上の行動も極めて唾棄すべきものがあった。即ち彼は煙草の火で陰毛や大腿毛を焼いたりして皆で大笑ひの種にした。又、台の上に血が落ちると、伊藤は和蘭人の娘を「之はもう処女でない。兵補にもう強姦され使はれてゐる」と云って侮辱した。之は彼が自分の非行を隠さんが為に云った言葉に違ひなかった。私は身振りを入れてこの嫌悪すべき行為に対し抗議を発したら、扉の方を指して出て行けと云はれた。その後で伊藤は若しも何かのことについて喋舌ったら厳罰にすると云って脅迫した。3名の娘が失神したが名は憶えてゐない。此の3名は正気づかせる為に平手で殴られたり、大声で怒鳴られたりした。
– 慰安所「スマラン・クラブ」で衛生係として働いていたvan Pabst夫人の供述書より [14]
慰安所の開設、強姦
慰安所は1944年3月1日に開業したが、慰安所に連行された女性たちは、その数日前から軍関係者によって強姦された[28][21][1]。
- 慰安所の開業前日、慰安所に集った幹候隊の幹部ら日本軍の関係者は、女性を1人ずつ個室に連れて行き、事情がよく分からずに慰安所へ連れて来られていた女性たちの多くは逃げ回るなどして抵抗したが、殴打したり、突き飛ばされるなどした後に強姦された。1晩のうちに数人の客に強姦された女性もいた。女性たちは、翌日以降、慰安所で売春を強要された[29][30]。
日曜日(到着及検査の翌日)高熱を出したR...姉妹の処へ呼ばれた。既に第1日目である日曜日の午前中に18名-20名の客がとられその上に夜間にも「仕事」があった。月曜日の朝には既に数名の娘は起き上れず、歩けもしなかった。その時私は伊藤が3名の娘を帰さずにそのまゝとめてをき慰安所で強姦したと云ふことを聞いた。数名の犠牲者達は心痛と神経から態度が普通でなく、B...姉妹(は)逃げ出して終った。然し、彼女達は火曜日の朝には警察の手に依って捕った。送り帰されて来てから彼女達は裸かにされ洗濯鋏みを乳首につけられて便所の掃除をさせられ通りがかりの日本人達から侮辱された。
– 慰安所「スマラン・クラブ」で衛生係として働いていたvan Pabst夫人の供述書より [14]
売春の強要
女性たちの中には、客との性交を拒否して抵抗し続けた女性も何人かいたが、拒否したために慰安所の経営者らから殴打された場合もあり、また女性達の抵抗が続くと、慰安所の経営者は、「拒絶するのを止めないとより待遇の悪い(1日により多くの客と性交をしなければならない)慰安所に移す」「家族に危害が及ぶ」「食事を減らす」などと言って脅しながら、売春を強要した[29][1][9][11][31]。
彼女等の生活は第1日目から抵抗と悲鳴に依って始められた。私と彼女等の接触は初めの中の極く少日数であったとは謂え、「レストラン」を通じて連絡はとれたし又垣根越しにも彼女等が何をやってゐるかは私には良く判った。故に約1週間後に彼女達が益なしと見て抵抗をやめたのも知ってゐるし、数週間後には彼女達は全く平静になったことも知ってゐる。
又彼女等は志望者が「レストラン」へも連れて来られるのに反し、行動の自由は慰安所の庭の中だけに限られてゐた。又志望者の方は外へも出られ、外の医者にもかゝれたが強制組の方は全然之が出来なかった。此の差違は醜聞と逃亡を恐れたものであったと云ふ。彼女等は家の後ろで集って食事をしたが、内部には「ピアノ」もあり、その他の娯楽施設もあった。
– 慰安所「スマラン・クラブ」で衛生係として働いていたvan Pabst夫人の供述書より [14]
約2ヶ月続いた強制慰安所の結果、私の記憶では5~6名の花柳病 が出た。その中の2件は黴毒 、他は淋病 、又マラリヤ 1件、疑似患者では盲腸炎 と「チブス 」が夫々一件あった。之等婦女と私との接触は常に監視づきで行はれた。又私は妊娠の初期を2件認めた。之等の場合は「エリザベス」病院に送られたが、花柳病も亦この病院に入院し宮地の手当を受けた。然し入院も3~4日したら退院せねばならず、1週間以上は慰安所を休ませられなかった。宮地は流産に「ヨードチンキ 」の注射を私にさせようとしたが危険なので私は遂にやらなかった。黴毒に対する治療も非常に表面的で一連の注射をするだけであった。又、婦女達は殆んど例外なく、疲労と、絶えざる体の濫用に依って「白帯下 」にかゝってゐた。最初の4日間は私がしてあげた洗滌もその後は彼女達が自ら「ペンカシマン pencushman?」の溶解から行はねばならなかった。「サック 」の配給も毎日あったが男は大抵せゝら笑って使はなかった。私が病気だからと云って呼ばれて行くときには何時ももう病気は判然としてゐて入院の2~3日前であった。月経の時と謂へども彼女達は性交を強制された。(…)
– 慰安所「スマラン・クラブ」で衛生係として働いていたvan Pabst夫人の供述書より [14]
慰安所の閉鎖
ヨーロッパ系の女性に強制的に売春をさせていた慰安所は、開設から1-2ヶ月後に閉鎖された。4ヵ所の慰安所のうち、「スマラン・クラブ」は、女性たちの抵抗が続いたため、1ヶ月ほどで閉鎖され、女性たちは他の慰安所に移された。1944年4月の最終週には軍上層部から、抑留所から徴用したヨーロッパ女性に売春をさせている慰安所を閉鎖するよう命令があり、それまで営業を継続していた他の慰安所も閉鎖された。[32][17][9]
- 慰安所が閉鎖された経緯については、いくつか異なる証言があるが、およその経緯とされているのは、
- 何らかのきっかけで、東京の陸軍省から、抑留所の監督責任者だった俘虜管理部員兼俘虜情報局事務官の小田島董(ただし)大佐がジャワ島の民間人抑留所へ現地視察に訪れた。
- 娘を慰安所に連行されていたアンバラワ第4抑留所の女性が小田島大佐と面会する機会を得て、ヨーロッパ人の女性たちが日本軍によって連行されたことを訴え、問題の解決を依頼した。
- 小田島大佐は、東京の陸軍省、シンガポールの南方軍総司令部または第7方面軍司令部(44年3月創設)、バタビアの第16軍司令部に報告し、ヨーロッパ系の女性に売春を強要していた慰安所をすぐに閉鎖するよう勧告した。
- オランダ政府 (1994 49)は、これと同時に、ジャワ人女性の外海諸島の慰安所への輸送も停止となった、としているが、1944年4-6月にはスマランから女性たちが外海諸島のフローレス島の慰安所へ送られる事件(フローレス島事件)が発生している。
(1944年)3月末(アンバラワ第4)「キャンプ」は軍の手に渡り、永松が所長となって来たので我々はこの問題の善処方を依頼し彼も最善を尽すと云った。4月末早朝、7時30分頃、一大佐と副官が巡視に来たが、永松は出勤してゐなかったので、我々はこの大佐にこの件を頼んだら、永松は約束したにも拘らず、この大佐は始めて聞いたらしく、驚いたやうな様子で、姓名、番号等詳細を聞いた後、可及的速かに家族が一緒になれるやうに骨を折ると言明した。
5月10日、R...夫人は永松に呼ばれ10分程すると、顔中腫れ上らし血だらけとなって帰って来た。永松は「お前らの思ふやうになった。さっさと「キャンプ」を出て行け」と云って、いきなり拳で殴りつけたとのことである。それから1時間後には13名の家族達が行先も判らず出て行った。終戦後前記のR...夫人からの便りに依ると、彼女の娘等の一行はやはり「スマラン」で醜業につかせられてゐたとのことであった。
– アンバラワ第4抑留所の会長をしていたE. C. Ongerboerの供述書より [14]
事件が明らかになった後も、関係者に対する処罰は行われなかった[35]。命令によって、軍による抑留ヨーロッパ人女性の徴用は行われなくなったが、1944年4月の中頃から1945年8月15日の日本の降伏直後のある期間に至るまで、ジャワ島の日本軍は、既存の民間売春宿や売春周旋業者などを通じて抑留所外のヨーロッパ人女性を調達して慰安所の運営を継続した[36]。
- 吉見 (1995 190-191)は、ヨーロッパ系の女性に対する売春の強要は禁止されたが、日本人を除くアジア人への売春の強要は禁止されなかったとしている。
スマランの慰安所で働かされていたヨーロッパ人女性たちは、1944年5月初旬に、抑留所にいた母親や家族とともに、ボゴール 近くのコタ・パリ 抑留所に移され、同年11月初旬にバタビアの近くにあるクラマット 抑留所に移された[34][37]。バタビア、バンドン、マゲラン、プカロンガン などの「慰安所」で働かされていたヨーロッパ人女性たちもこれらの抑留所に移された。慰安所から合流した女性の人数は100人以上にのぼった。[34][38]
クラマットの収容所での待遇は、比較的良好だった。慰安所で売春を強要されていた女性たちは、日本軍から被害体験を口外しないよう口止めされ、またその抑留所は他の抑留所から隔離され、他の収容所の収容者から「売女収容所」と呼ばれるなどの差別を受けた。[39][40][37]
戦犯裁判
告発
事件の被害者となったジャン・ラフ・オハーンやエレン・ファン・デル・プルーフの戦後の証言によると、事件後、2人は被害体験をあまり口外しないようにしていたが、終戦後、オランダへ移住する前に、それぞれ家族の勧めにより、軍当局へ戦犯被害を報告し、供述書が作成された。[39][41]
戦犯裁判には、2人の他にも複数件の被害女性の証言が提出されている。特に強姦容疑での戦犯告発は、これら被害者の証言に基づいて行なわれたとの指摘がある。[14]
訴追
1947年1月頃、事件の戦犯容疑者は出頭を求められ、ジャカルタのチピナン刑務所 に送致された。幹候隊の幹部の中でも、事件の計画に中心的役割を果たしていたとみられていた大久保大佐は、出頭要請を受けた後、1947年1月に仙台で自殺した[34][42][43]。大久保容疑者の遺書は、証拠の1つとして戦犯裁判に提出されている。[14]
合同裁判
1947年11月26日に、幹候隊の幹部4人と、慰安所の性病検査を担当していた軍医2人、慰安所の経営者だった軍属4人、個別に女性を強姦したとして三橋スマラン支庁陸軍司政官と齋(いつき)陸軍曹長の合計12人がバタビアのウォータルー・オースト街にあった高等法院に設置されたオランダ軍バタヴィア臨時軍法会議に戦犯として起訴された[44][45][17][46]。(第69号裁判[47])
被告ごとの起訴理由、求刑、判決等の概要は下表のとおり。
id | 姓 | 役職 | 起訴理由 | 求刑 | 判決 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 池田 | 大佐 | (a)統率者としての責任 | 死刑 | 15年 | |
2 | 三橋 | 軍属 | (a)強姦 | 5年 | 無罪 | スマラン地区司政官 |
3 | 岡田 | 少佐 | (a)強制連行 (b)売春の強要 (c)強姦 (d)統率者としての責任 |
死刑 | 死刑 | |
4 | 河村 | 少佐 | (a)売春の強要 (b)強姦 | 10年 | 10年 | |
5 | 村上 | 軍医少佐 | (a)虐待 (b)売春の強要 | 10年 | 7年 | |
6 | 中島 | 軍医大尉 | (a)虐待 (b)強姦 | 20年 | 16年 | |
7 | 石田 | 大尉 | (a)強制連行 (b)売春の強要 | 2年 | 2年 | |
8 | 齊 | 曹長 | (a)強姦 | なし | 無罪 | |
9 | 古谷 | 軍属 | (a)売春の強要(暴行)(b)強姦 | 死刑 | 20年 | 「スマラン・クラブ」経営者 |
10 | 下田 | 軍属 | (a)売春の強要(脅迫) | 20年 | 15年 | 「青雲荘」経営者 |
11 | 森本 | 軍属 | (a)売春の強要(脅迫)(b)強姦 | 15年 | 10年 | 「日の丸」経営者 |
12 | 蔦木 | 軍属 | (a)売春の強要(脅迫) | 7年 | 5年 | 「将校クラブ」経営者 |
注:階級は終戦時。資料:法務省 (1999 )、茶園 (1992 107)、坂 (1968 12-13)
被告人らは、
- スマランにあった5ヵ所の民間人抑留所から強制的にヨーロッパ人女性を市内4ヵ所の慰安所へ連行したこと
- 抑留所から連行した女性に、市内4ヵ所の慰安所で幹候隊の幹部や関係部署の軍人を相手に、売春を強要したこと
- 慰安所で、性交を拒絶する女性たちを、暴力を振るう、脅迫するなどして強姦したこと
- 慰安所で、女性たちに必要な治療や施薬をせず、不衛生な状態を放置したこと
- 部下が、上記の強制連行、売春の強要、強姦などを行ったことを統率していたこと
事件の公判は1948年1月22日から行われた[14]。池田大佐は公判中に精神に異常をきたしたとして公判の途中で合同裁判から分離された[14]。
岡田少佐は、公判での証言の中で、慰安所で働く女性は軍司令部の許可を得て希望者を募ったものであり、また女性の選抜は抑留所を所管していた州庁が希望者の名簿を作成して実施したので、徴募や売春は強制的に行われたものではないと主張した。また自身は徴募や売春の状況について、戦犯として拘留されるまで状況を知らなかった、と主張した[14][48]。
判決
1948年3月24日に判決が宣告された[17]。
判決は、岡田少佐の主張について、
- 岡田少佐は連行や売春の強要への直接的な関与を否定していたが、他の被告人の証言から1944年1月末または2月初に池田大佐が日本へ出張することになった後、兵站に関する業務は岡田少佐に引き継がれていたことは明らかであり、また岡田少佐自身が、抑留所から女性を連行して慰安所を開設する許可を得るため第16軍司令部を訪問していたことや、自発的にバンドンへ慰安所の状況を視察に行っていたことを認めている。このため、事件当時、岡田少佐は同業務を統括する立場にあったと推定できる。
- 岡田少佐は、徴募の状況を預り知らなかったと主張しているが、上記の経緯の中で、岡田少佐は、第16軍司令部から希望者ではない女性を徴用しないよう指示を受けているため、もし徴募の状況を知らなかったとすれば、業務の統括者としての監督責任を果たしていなかったことになる。しかも、他の被告人の証言によれば、女性たちから取り付けたとしている同意書には職務内容に関する説明がなく、女性たちは職務内容について十分知らされていなかったし、また女性たちは何度か就業を拒否する意思を示しながらも、売春を強要されている。岡田の否認はこれらの証言と食い違っている。
- 岡田少佐は、就業させたのは希望者のみだと主張しており、抑留所から連行された女性の中には「志願者」も含まれていたが、抑留所の環境は日本軍によって劣悪な状況に置かれており、それを悪用して志願者を募集すること自体が人道に反する犯罪行為である。
などの理由からこれを斥け、強制連行と売春の強要、部下による戦争犯罪に対する統括者としての責任を認めた。また強姦の容疑についても、被害者を含め複数の証言から推定できる、として全ての容疑について有罪と認め、死刑を宣告した[14]。
判決は、5ヵ所の民間人抑留所からの強制連行の容疑のうち、スマラン・オースト(東)抑留所からの連行については、証拠不十分として各被告人の容疑を認めず、他の4ヵ所の抑留所からの強制連行を認めた。[14]
強姦の容疑については、被告人が容疑を否認し、被害者の証言のほかに証拠がなかった場合は、無罪とされた。このため、強姦のみについて訴追されていた三橋・スマラン地区司政官と齋曹長は、無罪となった[14][42]。
精神異常のため公判が延期されていた池田大佐に対しては、1948年9月11日に判決が下され、計画の立案と「仕上げ」に関与したことと、売春の強要が行われていることを知りながら放置したことに対しての統括者としての責任は認められたが、1944年1月末ないし2月初から日本に出張しており、同年3月末に帰任した後も他業務を抱えていたことが斟酌され、15年の有期刑の判決が下された[17][1]。
石田大尉は、自身が抑留所から女性を連行したことを認め、また連行に際して被抑留者が抗議して騒動になったため、このことを岡田少佐や高橋少佐に報告し、希望者ではない女性を連行しないよう抗弁したが認められなかった、と証言した。判決は、軍事に関する重要事項ではないので抗弁もできたはずだとして「不可抗力の抗弁」は認めず、石田大尉は強制連行について有罪とされた。[14]
刑の執行
岡田少佐の死刑は、1948年11月27日に執行された[17][49]。
- 岡田少佐は死刑の直前に妻宛てに遺書を書いたが、それとは別に獄中で「青壮日記」という半生記的なメモを書き残しており、その中では「慰安婦」にしたオランダ人女性との性交の様子が「当今のポルノ小説も顔負けの筆致で」綴られている上、戦犯として告訴されたことについて「将校倶楽部の婦人達をよく可愛がってやったつもり」だったのに「飼犬に手を咬まれた」と記すなどしている[50]。
能崎隊長の裁判
合同裁判の求刑後に日本から移送されてきた[51]能崎中将は、オランダ軍バタビア臨時軍法会議第106号裁判[52]で起訴され、幹候隊の隊長として、同隊員の軍人らが1944年3月および4月スマランの各収容所及びアンバラワの収容所に抑留されていた女性たちに対して、慰安所での売春の強要、強姦、虐待を行ったことへの統括者としての責任を問われた[53]。
求刑は死刑だったが、1951年8月29日に懲役12年の判決が宣告された[53]。
評価
- 戦犯裁判で被告側の弁護人を務めた荻原竹治郎弁護士は、法廷で岡田少佐は訊問に堂々と理路整然と答えていた、とし、また判決は最初から結果ありきで、量刑は重すぎる、としつつも、陸軍は国際法をほとんど無視していた、とし、起訴状にあるくらいのことは事実で、戦前の警察や憲兵隊では拷問など日常茶飯事だった、行き過ぎた命令に服従する義務など元々ない、私もそのことは学校で教えた、女性の虐待事件は現地住民の感情を害した、冤罪になった者はいない、むしろ実際にはやっているのに無罪になった者がいる、戦犯的事実は起訴された5倍、10倍あったと思う、など判決への感想を述べている。[14]
- 戦犯裁判で通訳を務めた松浦攻次郎元主計中尉は、慰安所開設の発案者は池田大佐、実施役は岡田少佐、要員の選考にあたったのが石田大尉で、石田大尉が選別にあたり希望者以外を含めたことが重大な過失だった、とし、岡田少佐が死刑になったのは裁判長も誰か死刑にしなければならなかったのだろう、としつつも、岡田少佐が法廷で堂々と語ったのは、自分は石田大尉に「希望者に限る」と命じていたから、開所式に招待されて安心して遊んだという趣旨の話だった、とし、こんなに恥ずかしい事件は他になかった、荻原弁護士も匙を投げていた、としている。[14]
- 坂 (1968 124-126)のイニシャル「S.K」の元軍医の受刑者の手記は、この事件では、最も重要な役割を果した州長官や州政庁の役人は1人も逮捕されず、そのうえ出廷証人などは1人もなく全く一方的に審理が進められた、としている。吉見 (1995 176)も、慰安所の開設を許可した第16軍司令部や、当時まだ抑留所を管轄していて抑留所の女性の徴用を許可し、選別に協力した州庁の関係者の責任が問われていない、としている。
- 被害女性の証言の中には、アンバラワ第4・第6抑留所の管理者が日本軍の指示を素直に受け入れ、抑留所の女性を連行させたことに責任があるとの見解も見受けられる[14]。ただ、幹候隊の幹部らは、同抑留所から女性を連行する以前に他の抑留所で連行の目的を察知されて強硬な反対を受けたため、同抑留所では連行の目的を「事務所で就労させるため」などと偽って説明しており[14]、これが奏功していたようでもある。
- 朝日新聞 (1992g )は、内海愛子・恵泉女学園大学教授の話として、朝鮮人やインドネシア人など多くのアジア人女性も売春の強要などの被害を受けていたが、BC級戦犯裁判ではその責任が問われていない、と指摘している。
事件の呼称
この事件は法務省 (1999 )などの日本政府の戦犯裁判関係資料ではスマラン慰安所事件と呼ばれており、この呼称は多くの日本語文献でも使用されている[54][5][55][56][46]。
「慰安婦問題」を扱う文献では、スマラン事件と記されることがあるが[57][58][10]、戦時中、スマランでは他にも「スマラン憲兵分隊事件」[59]や「スマラン抑留所事件」[60]などの戦犯事件が起きており、また1945年の終戦後にスマランで日本軍がインドネシア独立勢力を報復的に殺戮した事件が「スマラン事件」と呼ばれているため、文脈にもよるが、混同を避けるためには「慰安所」を付した方がいいと思われる。
また、『戦犯裁判の実相』(巣鴨法務委員会、1952年)収載の、戦犯受刑者の手記の中には、オランダ人女性を強姦したり、売春を強要したりした一連の事件を白馬事件と呼んでいる例がある。この呼称は、朝日新聞 (1992b )、ヒックス (1995 162)、井上ほか (2010 153)などにも、日本軍の関係者が事件を「下卑た」呼び方で呼んでいた、として紹介されている。人種差別的(白人への劣等感のあらわれ)かつ女性蔑視的な呼称[61]とされているが、新美 (1994 44)や秦 (1999 220)に事件の呼称として使用している例がある。
- この他にも、町田敬二『戦う文化部隊』[62]や後藤基治『海軍報道戦記』[63]が、第16軍司令部の将校や宣伝班員が『白馬会』なるクラブを組織して秘かにオランダ人女性を愛人にしていた、という話を載せているが、事件との関係性は不明である。
外部リンク
- デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金 2018年6月20日閲覧
- 須磨明(編著)「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料筆耕」(pdf)「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク、2014年7月26日更新、2018年7月2日閲覧 - 法務省 (1999 )を筆耕した資料。
付録
関連文献
- 内海愛子「『スマラン慰安所』事件」『Indonesia2』インドネシアべんきょう会年報 No.5/6、1996年10月、1-18頁
地図
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 朝日新聞 1992g
- ↑ 2.0 2.1 オランダ政府 1994 48
- ↑ 3.0 3.1 3.2 吉見 1995 176
- ↑ 4.0 4.1 4.2 山本 ホートン 1999 115
- ↑ 5.0 5.1 内海 2007 19
- ↑ オランダ政府 1994 48-49
- ↑ オランダ政府 1994 49-50
- ↑ オランダ政府 1994 50
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 朝日新聞 1992a
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 ヒックス 1995 52
- ↑ 11.0 11.1 11.2 朝日新聞 1992b
- ↑ 朝日新聞 1992g 。ほかにサラティガに砲兵隊、マゲランに輸送部門の輜重隊と工兵隊が置かれていた。
- ↑ 秦 2012 301
- ↑ 14.00 14.01 14.02 14.03 14.04 14.05 14.06 14.07 14.08 14.09 14.10 14.11 14.12 14.13 14.14 14.15 14.16 14.17 14.18 14.19 法務省 1999
- ↑ 吉見 1995 176-177
- ↑ 16.00 16.01 16.02 16.03 16.04 16.05 16.06 16.07 16.08 16.09 16.10 オランダ政府 1994 52
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 茶園 1992 107
- ↑ ヒックス 1995 53、著述家シャーレイ・F・フィエの資料提供者の1人の話として。
- ↑ 吉見 1995 177,184-185
- ↑ 20.0 20.1 吉見 1995 177
- ↑ 21.0 21.1 21.2 21.3 21.4 21.5 ヒックス 1995 53
- ↑ このほかに戦犯裁判の起訴理由にはスマラン・オースト(東)抑留所からの女性の連行も含まれていたが、判決では同所からの連行は認められなかった(法務省 1999 )。
- ↑ 吉見 1995 177。戦犯裁判の判決文は、8人が連行された、としている。
- ↑ 吉見 1995 177-178。戦後の戦犯裁判の判決文では、17人が連行された、としている。
- ↑ 抑留所に来る前は売春婦だったとの評判のある女性たちだった(オランダ政府 1994 52)。
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 吉見 1995 178
- ↑ 茶園 1992 107は、1944年3月に、能崎によって、軍司令部との「暗黙の了解の下」にスマラン抑留所に収容されていた約100名のオランダ人女性が「解放」され、市中4カ所に分配して慰安所が開設された、としている。
- ↑ 28.0 28.1 吉見 1995 185
- ↑ 29.0 29.1 吉見 1995 184-185
- ↑ オランダ政府 1994 52-53
- ↑ ヒックス 1995 54
- ↑ オランダ政府 1994 49,53
- ↑ ヒックス 1995 55
- ↑ 34.0 34.1 34.2 34.3 オランダ政府 1994 53
- ↑ 吉見 1995 185,191
- ↑ オランダ政府 1994 49
- ↑ 37.0 37.1 吉見 1995 186
- ↑ ヒックス 1995 56
- ↑ 39.0 39.1 Kloek 2016
- ↑ オハーン 1999 137
- ↑ オハーン 1999 155-156
- ↑ 42.0 42.1 吉見 1995 188
- ↑ 坂 1968 121
- ↑ 吉見 1995 186-187
- ↑ バタビア法廷判決 1994 48
- ↑ 46.0 46.1 46.2 坂 1968 12-13
- ↑ 茶園 (1992 107)は第70号とし、また吉見 (1992 75-76)によると法務大臣官房司法法制調査部『戦争裁判記録関係資料目録』では第71号としている。
- ↑ 坂 1968 124-126、イニシャル「S.K」の元軍医の受刑者の手記による。
- ↑ 坂 1968 12
- ↑ 秦 2012 304-305,313
- ↑ 坂 1968 120-122に収録されている池田省三大佐(S.I名義)の手記による。
- ↑ 茶園 (1992 120-121)によると、107号。
- ↑ 53.0 53.1 茶園 1992 120-121
- ↑ 井上ほか 2010 152
- ↑ 秦 1999 113,219
- ↑ 吉見 1995 175
- ↑ 梶村ほか 2008 103
- ↑ 吉見 1995 190
- ↑ 坂 1968 11
- ↑ 坂 1968 22,23,26-28
- ↑ 朝日新聞 1992g 、内海愛子・恵泉女学園大学教授の話として。
- ↑ 原書房、1967年、NDLJP 1673292 、373-374頁
- ↑ 新人物往来社、1975年、JPNO 73011561、75-78頁
参考文献
- Kloek (2016) KloekEls Ploeg, Elly Corry van der (1923-2013) ホイヘンス記念オランダ歴史研究所 2016-02-02 [ arch. ]
- 秦 (2012) 秦郁彦「スマランのオランダ人慰安婦たち」『昭和史の秘話を追う』PHP研究所、2012年、ISBN 978-4569803081、286-318頁
- 井上ほか (2010) 井上亮、半藤一利、秦郁彦、保坂正康『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞出版社、2010年、ISBN 978-4532167523
- 梶村ほか (2008) 梶村太一郎・村岡崇光・糟谷廣一郎『「慰安婦」強制連行』金曜日、2008年、ISBN 978-4906605415
- 内海 (2007) 内海愛子「【解説】『櫻倶楽部』事件の背景」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』NCID AN10431480、No.56、2007年6月15日、18-19頁
- 大沼 (2007) 大沼保昭『「慰安婦」問題とは何だったのか』〈中公新書〉中央公論新社、2007年、ISBN 4121019008
- オハーン (1999) オハーン・ジャン・ラフ 渡辺洋美 [ オランダ人「慰安婦」ジャンの物語 ] 木犀社 1999 ISBN 4896180232
- 秦 (1999) 秦郁彦「オランダ - 蘭人抑留女性の受難」『慰安婦と戦場の性』〈新潮選書〉新潮社、1999月、ISBN 4106005654、216-223頁
- 法務省 (1999) 法務省大臣官房司法法制調査部『BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第69号事件(12名)』Jacar:F0000000000000342943
- 山本 ホートン (1999) 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン「日本占領下インドネシアにおける慰安婦 − オランダ公文書館調査報告」(pdf)(財)女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会(編)『「慰安婦」問題調査報告・1999』(財)女性のためのアジア平和国民基金、1999年、107-141頁
- ヒックス (1995) ジョージ・ヒックス(著)濱田徹(訳)『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房、1995年、ISBN 438095269X
- 吉見 (1995) 吉見義明『従軍慰安婦』〈岩波新書〉岩波書店、1995年、ISBN 4004303842
- 西野 (1994) 西野留美子「オランダ人『慰安婦』 − 収容所体験に苦しみ続けるオランダ女性」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.6、1994年12月15日、68-73頁、NDLJP 4427965/36
- 吉見 (1994) 吉見義明「【解説】日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.4、1994年6月25日、44-45頁、NDLJP 4427963/24
- オランダ政府 (1994) 安原桂子「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.4、1994年6月25日、46-58頁、NDLJP 4427963/25
- 原語(蘭語)版:Poelgeest, Bart van. 1993. Gedwongen Prostitutie van Nederlandse Vrouwen in Voormalig Nederlands-Indie, Tweede Kamer, vergaderjaar 1993-1994, 23 607, nr.1. Sdu Uitgeverij Plantijinsraat, 's-Gravenhage.
- 英語版
- 新美 (1994) 新美隆「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決[解説]」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.3、1994年3月25日、44-45頁、NDLJP 4427962/25
- バタビア法廷判決 (1994)安原桂子・横山伊徳(訳)「オランダ女性慰安婦強制事件に関するバタビア臨時軍法会議判決」日本の戦争責任資料センター『季刊戦争責任研究』No.3、1994年3月25日、45-50頁、NDLJP 4427962/25
- 茶園 (1992) 茶園義男『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、1992年、JPNO 92034961
- 朝日新聞 (1992a) 「オランダ女性も慰安婦に・35人、4ヵ所に連行|『朝日新聞』夕刊1面1992年7月21日
- 朝日新聞 (1992b) 「『茶の接待を』実は慰安所・元幹部候補生証言・未成年女性も」『朝日新聞』夕刊11面、1992年7月21日
- 朝日新聞 (1992c) 「補償問題、新たな局面・「オランダ人慰安婦」の資料公表」『朝日新聞』朝刊5面、1992年7月22日
- 朝日新聞 (1992d) 「慰安婦『強制』を裏付け・問われる日本の対応」『朝日新聞』朝刊31面、1992年7月22日
- 朝日新聞 (1992e) 「『補償には応じない』決着ずみの考え強調」『朝日新聞』夕刊2面、1992年7月22日
- 朝日新聞 (1992f) 「法務省に資料あった・保存分の調査始める」『朝日新聞』夕刊15面、1992年7月22日
- 朝日新聞 (1992g) 「戦争の暗部うずく傷跡・オランダ人慰安婦事件の経緯と背景」『朝日新聞』朝刊9面、1992年8月30日
- 吉見 (1992) 吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、ISBN 4272520253
- 坂 (1968) 坂邦彦『蘭印法廷 (1)』東潮社、1968年、NDLJP 3007723