茨木機関

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茨木機関(いばらぎきかん)は、1944年シンガポール(当時の昭南特別市)で、第7方面軍参謀部2課の石島少佐(通称:茨木少佐)が立ち上げた特務機関で、シンガポール周辺の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には連合軍進攻後のゲリラ戦に備えて元特別操縦見習士官を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後に戦犯追及をおそれて「インドネシア独立を支援する」として集団でスマトラ島へ脱出しアチェ州へ向かったが、北スマトラに展開していた第25軍近衛第2師団によって拘束され計画を中止、機関員の多くは英軍によってマレー半島に抑留された後1946年に日本に帰国した。茨木少佐は英軍に逮捕・監禁されたが、後に脱走し日本に帰国したとされる。[1]

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設置の経緯

1943年9月に昭南港爆破事件が起きると、シンガポールの日本軍は、マレー半島に潜伏する連合軍のスパイや抗日分子がシンガポールに残った連合国人と連絡して事件を起こしたとみて[2]、内陸の防諜謀略の強化をはかった[3][4]

この頃、連合軍の反攻の本格化を受けて南方軍麾下の各軍団の参謀部2課(情報部)には陸軍中野学校出の諜報要員が多数配属され、連合軍の諜報活動の防止や動静の探索などの諜報工作に携わった[5]。戦争が破局に近付くと、現地の抗日勢力の攻撃や連合軍上陸への対処が課題となり[6]、各兵団が連合軍の進攻に備えて遊撃戦の準備に入る中で、中野学校の出身者はゲリラ要員の教育訓練にあたった[7]

1944年初には、当時シンガポールにあった南方軍総司令部直属の特殊機関としてシンガポール周辺の海上防諜を行う浪機関が設置されていたが、同年暮れ頃、シンガポールの反日分子や、ジョホール州に潜伏する共産軍の動向に関する情報収集などの防諜謀略と、連合軍進攻の際のゲリラ活動展開を目的として、茨木機関が設置されることとなった[8]

機関の概要

機関長・茨木少佐

茨木機関の機関長・石島唯一[9]少佐は、茨城県出身で[10]茨城弁を話し[11]、「茨木少佐」と呼ばれていた[12]。茨木少佐は幹部候補生から陸軍中野学校に入り[13]南支那派遣軍に属して広東各地でのスパイ・特務経験の後[14]、南方軍総司令部参謀部2課(のち第7方面軍参謀部2課)に移り、第25軍参謀部2課付を兼務して1943年6月にパレンバン軍政部警務部特高科長に着任、同年9月のスマトラ治安工作での親オランダ分子の残置諜者の一斉検挙で功績を挙げた[15]

茨木少佐は、シンガポール入りすると、1944年の春に広東から日本人や台湾人の特務機関員・軍属・通訳を連れてきて浪機関の組織を強化し[16]、1944年の暮れ頃[17]、自ら茨木機関[18]を立ち上げた[19]

機関本部

茨木機関の本部はシンガポール市内のリバー・バレー路English版[20]沿いにあり、「国際運輸昭南事務所」の看板を掲げいて、外見は小さな会社の事務所兼住宅のようだった[21]。本部は通信網の中心・謀略資材の集積場所になっており、准尉以下の下士官兵や民間人が通信、庶務、給養、兵器などの業務を分担していた[22]

本部から歩いて15分程の場所に、無線機を製造する通信班と、爆薬を製造する爆薬班[23]の、住宅を利用した工場があり[24]、その他に昭南市内に2カ所、ジョホール州内に3カ所のゲリラ要員養成拠点があって、軍属たちがインドネシア青年にゲリラ戦の訓練をしていた[25]

ジョホール州への展開

機関の幹部である安達孝大尉と近藤次男大尉[26]は、機関の工作隊の展開を担当し、機関員約50名がジョホール州に商社の駐在員や警察分署長を装って展開、共産軍や地元の抗日分子と接触して動向把握・宥和工作を行っており[27]、これに続いてスマトラの北端アチェ州にも展開を予定していた[28]

ジョホール・バル[29]には機関のジョホール州で最大の拠点となる要員訓練所兼通信基地があった[30]。連合軍が攻めてきた場合、シンガポール島は土地が狭く住民の大半が中国系であるためゲリラ戦は困難とみた茨木少佐は、ジョホールの山中で長期間抵抗する計画を立て、終戦直前の1945年8月初旬に機関本部をジョホール州に移転し、謀略機材や食糧を送り込もうとしたが、その途中で終戦となった[31]

特操転用と総軍班

1945年6月には、情報要員に転用されることになった陸軍の特別操縦見習士官(以下「特操」)[32]のうち、第7方面軍の参謀部に配属された約40名全員を機関員として受け入れ[33]、また南方軍総司令部参謀部付となった特操のうち80名をゲリラ要員として訓練することになり、リバー・バレー路の本部近くのインスティテシューション・ヒル[34]にあった訓練所で現地語[35]や無線通信などの講義を受けさせた(通称「ヤマ」、「総軍班」)[36]

中国人協力者

このほかに、元中華民国の軍人で、日本軍の占領地域でスパイ活動をしていて捕えられ、助命されて逆スパイとして日本軍に協力していた陳奇山[37]・王桐傑[38]や、陳嘉庚系の華僑の有力者蔡和安[39]をはじめとして、素性のはっきりしない中国人の機関員・協力者が多数いた[40]

終戦・スマトラ潜行

シンガポール脱出

1945年8月15日の玉音放送の数日前に日本のポツダム宣言受諾を察知した[41]茨木少佐らは、スマトラ治安工作を実行していたことからオランダからの戦犯訴追は免れないと考え、連合軍がシンガポールに進駐するとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした[42]

茨木少佐は機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し[43]、同月16日にジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の無条件降伏を伝え、「このままシンガポールにいると、特務機関員は全員連合軍に捕まって処刑される。聖戦の目的を完遂するため、スマトラ島・アチェ州に渡り、アチェのインドネシア人青年とともにインドネシアの独立を目指して連合軍に徹底抗戦する。」とスマトラへの同行を呼びかけた[44]

特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになり[45]、同月16-18日にかけてシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、海峡ドル、金塊、阿片等の物資を調達して船に積み込み[46][47][48]、同月19,20日、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って[49]、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した[50]

スマトラ潜行

一行は1945年8月21,22日にスマトラ島パカンバル[51]に到着した[52]。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、バンキナンEnglish版[53]にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった[54]。このため物資を現地住民に投げ売りするなどして減らし[55]、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くのロカン河English版の周辺に展開することを指示した(リオー班)[56]

機関幹部は第25軍司令部が置かれていたブキチンギ[57]へ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った[58]

第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後に、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・メダン[59])に機関員を逮捕するよう連絡[60]、トラック隊は、シボルガ[61]、タルトン[62]、シボロンボロン[63]、バリゲ[64]、プラパット[65]、ペマタン・シアンタル[66]と縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された[67]。メダンを通過したグループも、クアラシンパン[68]、パンカラン・ブランダン[69]、ビルン[70]、ムラボー[71]など各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した[72]。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いどうするか話合っていた[73]

リオー班

総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト[74]一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン[75]、ラントベルギアン[76]周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった[77]

早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷で[78]、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得[79]、その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ[80]、1946年の夏までに、27人はメダンに合流し[81]、2人は日本に帰国した[82]。残る6名の隊員は行方不明となった[83]

抑留生活

メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニック[84]の製茶工場の施設で過ごした後[85]、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために[86]、師団司令部を離れてトバ湖の東北岸近くのチガルング[87]村に移った(諸菱隊)[88]

この間、機関の古参の機関員は大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが[89]、第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った[90]。茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた[91]

また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた[92]。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていたラジャ[93]の護衛を交代で行っていた[94]

引揚げ、潜行、逮捕

諸菱隊の引揚げ

1946年2月2日、諸菱隊はメダンの外港ベラワンEnglish版[95]に集結し、武装解除されてマレー半島へ送られた[96]バトパハEnglish版[97]に約1ヶ月滞在した後、レンガム[98]東方の山村アイルマニス[99]で1ヵ月ほど開墾に従事した後レンガムに移動[100]、1946年6月12日に一部の残留者を除いて[101]帰国の途につき、6月15日にシンガポールのセレタ軍港からリバティ船で日本に向かった[102]

戦犯容疑者のアチェ潜行

1946年2月頃、シアンタルに留まっていた岸山勇次曹長ら古参の機関員で、前歴から戦犯に問われる可能性のあった者数名は、茨木少佐の承認を得て脱走し、クアラ・シンパンに潜伏した[103]。のちにアチェ州に入り、岸山は「島小太郎」を名乗り、他の日本人脱走兵とともにアチェのインドネシア軍に協力し、破壊工作員の育成や破壊工作に携わった[104]

機関長逮捕

1946年3月頃、シアンタルに留まっていた茨木少佐、安達大尉と特操14人は引揚げのため近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵とともにベラワン港へ移動したが、乗船の際に茨木少佐と安達大尉は戦犯容疑でオランダ軍憲兵に拘引され、特操14人だけがマレー半島へ渡り、諸菱隊よりも早く、同年5月に帰国した[105]

機関長の脱走

英軍に拘束された後、ジョホールバルにあった英軍情報部に監禁されていた[106]茨木少佐は、蔡和安の手引きを受けて脱走を計画していた[107]

その後、茨木少佐は、仮病を使って便所の窓から逃走し、2カ月ほどジョホール州のジャングルに潜伏した後、東海岸のメルシン[108]に出て1948年3月にかつて浪機関に所属していた林樹森[109]という華僑の所有するジャンクでメルシンを出帆、ベトナムの海岸線を北上して2カ月後に香港[110]に到着[111]、香港では広東人に成りすまして「林景山」を名乗り、中国招商局の汽船で門司[112]に上陸した[113]

脚注

  1. この記事の主な出典は、中西(1994)、本田(1988)および篠崎(1981)。
  2. ブラッドリー(2001) 203-205頁
  3. 本田(1988) 38-39頁、篠崎(1976) 195頁
  4. 1943年10月以降、シンガポールの特別警察隊の憲兵がテクロアンソンタパーEnglish版で商社員に扮して偵諜を行い、同年12月にイポー李亜青、1944年4月にはイポーの南方 カンパルEnglish版136部隊English版林謀盛中文版らが検挙された(大西(1977) 163-167頁)
  5. 中野校友会(1978) 348頁
  6. 中野校友会(1978) 552頁
  7. 中野校友会(1978) 557頁
  8. 本田(1988) 38-39頁
  9. 本田(1988)25頁に「茨木誠一少佐」とあるが、中西(1994)104,138頁および篠崎(1981)52頁によると「いばらぎ」、「茨城」ないし「茨木」は仮名で本名は「石島」であり、中野校友会(1978)556頁のスマトラ治安工作に関する記述から本名は「石島唯一」とした。また南洋商報(1986)135頁では「飯島機関」の「飯島少佐」としているが、拠点や活動内容の記述から茨木機関に関する説明と解した。
  10. 篠崎(1981) 52頁
  11. 本田(1994) 26,64頁
  12. 中西(1994)138頁、本田(1988)25頁、篠崎(1981) 52頁。
  13. 中西(1994)138頁、本田(1988)37,39頁、篠崎(1981) 52頁、中野校友会(1978) 556頁
  14. 中西(1994)138頁、南洋商報(1986) 135頁、本田(1988)37頁
  15. 中西(1994)138頁、本田(1988)37-38頁、中野校友会(1978) 554-557頁
  16. 南洋商報(1986) 135頁。浪機関の組織強化については中野校友会(1978) 553頁でも触れられている。
  17. 本田(1988)38頁。南洋商報(1986) 135頁では、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は1944年の「春頃」になりそうだが、機関の設置時期を特定している本田(1988)38頁により「暮頃」とした。
  18. 本田(1988)25頁に「正式名称は『岡機関』」とあるが、他の文献にはなく、中野学校(1978)557-558頁では「茨木機関」の名で言及がある
  19. 本田(1994) 38,44頁、南洋商報(1986) 135頁
  20. 1.295965 N 103.839505 E
  21. 中西(1994)105頁、本田(1988)37頁
  22. 本田(1988) 39,45-46頁。中西(1994)138-139頁では「無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた」としている。本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた(中西(1994)139頁、本田(1988) 39,45頁)
  23. 徴用された女性5人が缶詰や椰子の実に火薬を詰める作業をしていた(本田(1988) 48頁)
  24. 中西(1994)139頁、本田(1988) 40,48-49頁
  25. 本田(1988)40,49,50-53頁
  26. ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後(本田(1994) 38頁、中野校友会(1978) 555-557頁)、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた(本田(1994) 38頁)
  27. 本田(1988)40頁、中西(1994) 140頁。占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で(大西(1977) 167-170頁)、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた(本田(1988) 40,53-56頁)。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、136部隊English版の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている(同)。
  28. 本田(1988)40頁。中西(1994) 138頁では安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、本田(1988)40頁では安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。
  29. 1.483333 N 103.733333 E
  30. 本田(1988)40頁
  31. 本田(1988)40,55-58頁
  32. 同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された(本田(1988)8-9,22-23頁、中西(1994) 99,102頁)
  33. 本田(1988)29頁、中西(1994) 99,102頁
  34. 1.295177 N 103.839702 E
  35. 40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた(中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35頁)
  36. 中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35,90頁
  37. 元中華民国の軍人(大佐)で、シンガポール陥落後、残置諜者として12名ほどで島内のジュロン地区に潜伏し、無電で重慶へ情報を送っていたところを検挙・逮捕され、参謀部2課で助命するかわりに、重慶へ偽情報を流させたり、抗日分子の所在など治安対策について助言を受けていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41頁)。
  38. 元中華民国の軍人・工作員で、スマトラ島のメダンで残置諜者をしていたところを一味6人とともに第25軍の憲兵隊に捕まり、死刑になるところを近藤大尉により助命されて機関に協力、近藤大尉とともに主にスマトラで活動していた(中西(1994) 139頁、本田(1988)41頁)。
  39. 多数のジャンクを所有し、黒十字会を主宰し、浪機関で米の密貿易を担っていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41-43頁、篠崎(1981))。
  40. 中西(1994) 139-140頁、本田(1988) 41,46頁
  41. 本田(1988)59,66頁
  42. 本田(1988)71-72,92頁、中西(1994)140-141頁
  43. 中西(1994)144頁、本田(1988)71-72,74頁。篠崎(1981) 52頁に「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、中西(1994)144頁、本田(1988)74,90頁によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。
  44. 本田(1988)60-66頁、中西(1994)140-141頁
  45. 本田(1988)61,90頁。「わいわいがやがやで結論が出ない。だが勇ましいことをいう方が、大勢を制する。組合大会の議論と同じである。反対派は次第に沈黙し、賛成派の張り切った声だけが聞こえるようになった。翌日になると、スマトラ行きの命令が出た、という話になった。だれが聞いてきたのか分からない。(…)気が動顚しているので、冷静な判断ができず、盲目的に信じてしまうのだ。迷った家畜の群が、一頭のふとした動きにつられて、ぞろぞろと、ついていくようなものである。いつの間にか、全員がスマトラ行きという空気になってしまった」(本田(1988)61頁)。
  46. 本田(1988)68-71頁、中西(1994)142-143頁。茨城少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが(本田(1988)65-66頁)、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し(本田(1988)60-61頁、中西(1994)140-141頁))、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」とされる(中西(1994)145頁)。
  47. 本田(1988)91-92頁によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言は分かれている。
  48. 同月17日深夜には、機関本部を爆破して機関員が自決爆死したことを装い、爆発に驚いた第7方面軍・板垣征四郎司令官の面前に茨木少佐が連行されたとされる(篠崎(1981) 52頁)。本田(1988)・中西(1994)には爆発の記述はないが、中西(1994)144頁に「爆薬班のあったオーチャード・ロードの建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。また篠崎(1981) 52頁では、その際に板垣は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしているが、本田(1988)・中西(1994)にはこの話はない。
  49. 本田(1988)78-79頁、中西(1994)144頁。共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた(中西(1994)145頁、本田(1988)81-89頁)。
  50. 中西(1994)144頁、本田(1988)90-94頁。1945年8月19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した(本田(1988)93頁)。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった(本田(1988)90頁)。篠崎(1981)52頁では「サフラン丸以下3,000トン級汽船3隻に分乗」としている。
  51. 0.507590 N 101.447117 E
  52. 本田(1988)96-98頁。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。
  53. 0.341241 N 101.027534 E
  54. 本田(1988) 94-97頁
  55. 本田(1988)97-98頁
  56. 本田(1988)98頁
  57. 0.303507 N 100.382460 E
  58. 本田(1988)99-102頁
  59. 3.595688 N 98.671963 E
  60. 本田(1988)102-107頁
  61. 1.737047 N 98.785015 E
  62. 2.012438 N 98.979357 E
  63. 2.202218 N 98.981907 E
  64. 2.333862 N 99.083252 E
  65. 2.656985 N 98.939006 E
  66. 2.965286 N 99.062296 E
  67. 本田(1988)102-107,119-120頁
  68. 4.279147 N 98.064120 E
  69. 4.019339 N 98.282027 E
  70. 5.221974 N 96.717159 E
  71. 4.143823 N 96.127657 E
  72. 本田(1988)108-119頁
  73. 本田(1988)118-119,120-123頁
  74. 0.714198 N 100.527161 E
  75. 0.801864 N 100.587539 E
  76. 所在地不明
  77. 本田(1988) 155-160頁
  78. 本田(1988) 160-166頁
  79. このとき多くの隊員は生活に疲れて潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた(本田(1988)167-170頁)
  80. 1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした(本田(1988)171-177頁)
  81. 1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した(本田(1988)177-184頁)
  82. 2人はロカン河の下流バガン・シアピアピ(2.158999 N 100.816114 E )に出てブギス人の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に復員した(本田(1988)189-201頁)。
  83. うち1人は早い時期に手榴弾により自殺(本田(1988)177-184頁)、2人はプムーダ(青年隊)English版に殺害され(本田(1988)188頁)、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている(本田(1988)187-188頁、中西(1994) 187頁)
  84. 2.849163 N 98.922141 E
  85. 本田(1988)202-205頁、中西(1994)157-161頁。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。
  86. 特操が野砲兵連隊の慰安所に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたとされる(本田(1988)206-207頁、中西(1994)174-175頁)
  87. 2.896429 N 98.722660 E
  88. 本田(1988)206-211頁、中西(1994)161-165頁。このとき、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した(本田(1990) 53-60頁)
  89. 本田(1988)205頁
  90. 本田(1988)205-206頁。近藤大尉はその後、日本に帰国したが、オランダから戦犯容疑者の指名を受けて逮捕・連行され、1946年末から1947年初頃、メダンの刑務所に収監されていた(本田(1990)134頁)。アチェ州に潜行していた元機関員たちが近藤大尉の奪還を計画したが、諦めたとされる(同)。篠崎(1981)52-53頁では、茨木少佐は第7方面軍司令部の桑参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られたとしている。
  91. 本田(1988)211頁。シアンタルの機関員は中国人の家に下宿して中国語の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている(本田(1988)232頁)。
  92. 本田(1988)211-221頁
  93. 戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた(本田(1988)252頁)。
  94. 本田(1988)241-242,252-253頁。独立運動の支援とは相容れない活動だったが、引揚げが決まったため1週間程度で終わりになった(本田(1988)252-253頁)。終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた(中西(1994)180頁)
  95. 3.784587 N 98.694060 E
  96. 本田(1988)254頁、中西(1994)183-187頁
  97. 1.848805 N 102.928919 E
  98. 終戦後、南方軍総司令部や第7方面軍司令部が置かれていた(本田(1988)254頁)。1.884655 N 103.399917 E
  99. 所在地不明
  100. 中西(1994)190-195頁。当地では麻雀が流行した(中西(1994)194頁)。本田(1988)254頁では帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在したとしている。本田ら2人の機関員はアイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した(本田(1988)254-255頁)。
  101. 中西(1994)の著者である中西淳は、4月頃デング熱でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された(中西(1994)201-202頁)。ほかに3名が残留した(本田(1988)254-255頁)。
  102. 本田(1988)254-255頁
  103. 本田(1990)85-90頁
  104. 本田(1990)85頁-。詳細は同書を参照。
  105. 本田(1988)254頁。本田(1988)254頁では機関幹部と特操14名(中西を含む)が3月まで残留していた、としているが、中西(1994)183-187頁では中西は1月末頃に仲間とともにスマトラを離れたとしており、また同書190頁では、その船上で茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報があって仲間は騒然となった、としている。
  106. 篠崎(1981) 53頁では、茨木少佐は英軍によってシンガポールのチャンギー刑務所に収容された後、篠崎が翻訳・通訳として働いていた東南アジア軍の保安隊(篠崎(1978)17頁によると、英東南アジア軍情報部直属の野戦保安隊(フィールド・セキュリティー・フォース)は1946年末頃にはシンガポールのバルモーラル路(Balmoral road)にあった)に引き取られてきたとされている
  107. 中西(1994)202-206頁。シンガポールの捕虜収容所に入った中西は、蔡の手引によってイギリス情報部にジョンゴス(召使い)として住み込んで茨木少佐と蔡の連絡役をつとめ、脱走の実行前に巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った(同)。英軍情報部の取調べはマレー共産軍の動向に関する情報の提供が主で、戦犯事件の取り調べではなかったため、茨木少佐は戦犯に問われるのか、情報提供後釈放されるのか分からず、判断に迷っている様子だった(中西(1994)205-206頁)。篠崎(1981) 53頁では保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。
  108. 2.433333 N 103.833333 E
  109. 南洋聖教総会の主席で、孔子の教えを奉ずる一派だった(篠崎(1981)54頁)
  110. 22.267 N 114.188 E
  111. 篠崎(1981) 54頁
  112. 33.945979 N 130.961235 E
  113. 篠崎(1981) 54頁。篠崎は、1951年に日本を訪問した蔡の依頼で浪機関の吉永大尉を通じて茨木少佐と連絡をとり、東京・八重洲で4人で顔を合わせたとしている(篠崎(1981)54頁)。中野校友会(1978)840,843頁には、生存者として石島唯一、安達孝の名があり、死亡者(戦死者とは別)として近藤次男の名がある。

参考文献

  • ブラッドリー(2001): ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド-泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店、2001年8月。
  • 中西(1994): 中西淳『諜報部員脱出せよ-実りなき青春の彷徨い』浪速社、1994年8月。 :ISBN 4888541523
  • 本田(1990): 本田忠尚『パランと爆薬-スマトラ残留兵記』西田書店、1990年10月。
  • 本田(1988): 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、1988年2月。
  • 南洋商報(1986): 『南洋商報』1947年7月12日付記事「5 浪機関の秘密」 許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月、134-143頁。 :ISBN 4250860280
  • 中野校友会(1978): 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会(非売品)、1978年3月。
  • 篠崎(1981): 篠崎護「大東亜戦争と華僑-ある特務機関長の脱走-」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、50-54頁。
  • 篠崎(1978): 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、17-24頁。
  • 大西(1977): 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年4月。
  • 篠崎(1976): 篠崎護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。