城丸君事件
城丸君事件(じょうまるくんじけん)とは、1984年(昭和59年)1月10日、札幌市豊平区で発生した男児死亡事件。
借金を抱えていたホステス・工藤 加寿子(当時29歳)が、城丸 秀徳君(当時9歳)を身代金目的の誘拐殺人、自分の夫・和歌 寿美雄さん(当時36歳)を生命保険金目当てで放火殺人したが、完全黙秘を貫いて無罪を獲得。さらに刑事補償1160万円の補償金を得るという完全犯罪事件である。
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概要[編集]
1984年1月10日、札幌市豊平区で当時9歳の城丸秀徳君の行方が分からなくなる。城丸秀徳君の母親の証言によると秀徳君は「ワタナベさんと名乗る人物のところに行く」と言い残して姿を消した。
後に元ホステス・工藤 加寿子のアパート「二楽荘」の階段を秀徳君が上っていったと言う目撃証言が得られたため、警察は彼女を重要参考人として事情聴取したが、有力な情報は得られなかった。
1986年12月30日、工藤 加寿子の嫁ぎ先の自宅(新十津川町)から出火し、彼女の夫・和歌 寿美雄さん(当時36歳)が死亡する火事が起こる。和歌 寿美雄さんには1億円あまりの保険金がかけられており、工藤 加寿子はそれを請求した(後に取り下げ)。その後、和歌 寿美雄さんの弟が焼けた家の整理をしていると、焼けた人間の骨を発見し警察に届け出た。当時のDNA型鑑定では焼けた人骨から身元は確認できなかった。警察は工藤 加寿子を再度事情聴取したが、その際にポリグラフでは特異反応が示され、大罪を犯したことを匂わす発言をしていたが、骨の身元が判明していなかったこともあり、この時はこれ以上の追及は断念された。
1998年、短鎖式DNA型鑑定を用いた結果、その人骨が秀徳君のものであることが判明し、同年12月7日に工藤 加寿子を殺人罪で起訴。殺人罪の公訴時効成立の1ヶ月前だった。この時点で、傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪の公訴時効は成立していた。検察は工藤 加寿子が借金を抱えていたことから身代金目的で誘拐して殺害したとしたが、死因を特定できなかったために殺害方法は不詳として立件せざるをえなかった。
一審では被告人は罪状認否で「起訴状にあるような事実はありません」と主張したこと以外は、被告人質問における検察官のおよそ400の質問に対し、全て「お答えすることはありません」と言葉のみを返して黙秘をした。なお、弁護人は被告人は黙秘権を行使する意向であるとして被告人質問を実施すること自体に反対していた。
検察側は多くの状況証拠から工藤 加寿子が殺人罪を犯したとして無期懲役を求刑。一方で弁護側は無罪を主張した。
2001年5月30日、札幌地裁(佐藤学裁判長)は工藤 加寿子の家から見つかった骨が秀徳君であることを認定し、多くの状況証拠から工藤 加寿子の行為によって秀徳君が死亡した疑いが強いと認定したが、殺意があったかどうかは疑いが残ると認定し、工藤 加寿子に対し殺人罪について無罪判決が下る。傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪で有罪にすることはできなかった。
検察側が控訴した。2002年3月19日、札幌高裁(門野博裁判長)は、控訴を棄却した。
裁判では黙秘権の公使について、札幌地裁判決は「被告人としての権利の行使にすぎず、被告人が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と示した。札幌高裁判決は前記一審の判示を支持し、加えて「弁護人が被告人質問をすることに反対していたとしても被告人質問を行うことは不当ではないが、実際に被告人質問を行ってみて黙秘することを明確にした被告人に対してなおも質問を続けたのは、被告人の黙秘権を危うくするもので疑問」と一審の検察官の質問の在り方にも黙秘権保護の見地から批判的な判示をしている。
その後、検察側は上告を断念したため、工藤 加寿子の無罪が確定。
同年5月2日に、工藤 加寿子は、刑事補償1160万円の請求を札幌地裁に起こす。同年11月18日、札幌地裁が補償金を支払うことが決定した。
被害者遺族は「被告人は黙秘の権利を悪用せず、事実を話して欲しい。黙秘も権利なんでしょうが、(被害者の常識からは)納得がいかない」「殺意の認定が主な争点となったが、法曹家の言葉遊びのようだ。人が1人亡くなった重みの方が、はるかに重大ではないか」「弁護士は、真実を明かす基本的なことを忘れ、百の真実を一つの言いがかりで無罪に持って行こうとしているとしか思えない」と黙秘権を行使する被告人と弁護士及びそれを容認して無罪判決を出した司法に批判的なコメントをしている。
誘拐発生[編集]
1984年(昭和59年)1月10日朝、北海道・札幌市では、学校はまだ冬休みであった。会社社長の城丸隆(当時54歳)宅では母親が遅い朝食の仕度をしているところだった。
9時30分すぎ、城丸宅に電話が鳴った。たまたまリビングにいた秀徳君(当時9歳)は電話を取ると、何かに謝るような様子で「はい、はい」と答えていた。
様子を見ていた母親は「どこからの電話なの?」と言っても返事をしない秀徳君は、電話を切ると「ちょっと出かけてくる」と言い出した。
母親がどこへ行くのか聞いたところ
「ワタナベさんのお母さんが、僕のものを知らないうちに借りた。それを返したいと言っている。函館に行くと言っている。車で来るから、それを取りに行く」といった。
リビングにいた家族は、秀徳君が何を言っているのか理解できなかった。町内にワタナベ姓はあったものの城丸家とは親しい付き合いはなかった。
外へ出て行った秀徳君を心配に思った母親は、小学6年の兄に秀徳君の様子を見るように言いつけ兄は弟を追いかけた。雪が舞う中、公園を通り過ぎ、やがて「二楽荘」というアパートのあたりで左折した(実は兄は近眼で、明確には二楽荘に入っていったのか、はっきりしなかった)。二楽荘の隣はワタナベ家であった。
その後、帰らない秀徳君を心配した母親は、ワタナベ家を尋ねたが、高校3年生の娘が、一人で留守番をしており、秀徳君が尋ねてきたことは無いといった。勿論、電話などしていないという。午後、警察に届け出て捜索することになった。
捜査[編集]
早速、警察官が二楽荘へ調査を開始した。二階に住んでいる、2歳になる娘と二人暮しの母親のホステス工藤加寿子(当時29歳)は次のうに証言した。
「今日の午前中、アパートに小学生くらいの男の子が、ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って階段を昇る家だと聞いたのだけど」と聞くので「ワタナベさんの家はこの隣だけど、その家でないの」と教えたら「どうも」といってドアを閉めたということだった。
勿論、ワタナベ家にも調査をしたところ、留守番をしていた女子高生は秀徳君の母親に話したことと同様の答えをしている。念のためワタナベ家を家宅捜査しても何も物証は無く秀徳君は忽然と姿を消したのだった。
工藤加寿子の家から秀徳君の骨が発見[編集]
事件が意外な方向へ展開したのは、それから4年後であった。
札幌市から北へ70キロの新十津川町にある一軒の焼けた農家の納屋から、秀徳君と見られる人骨が発見された。農家の家族が焼失した納屋を整理した時に人骨が出てきたのだ。農家の主婦は、実は二楽荘に住んでいた工藤加寿子であった。
工藤加寿子は秀徳君の失踪後の2年後に、見合い結婚で、この農家に嫁いでいたのだった。
工藤加寿子の嫁ぎ先での評判は悪く、農業の手伝いどころか家事もほとんどしなかった。また、夫である和歌寿美雄(当時36歳)は「おれ、殺されるかもしれない」などと義兄に話していた。
当時、和歌寿美雄には2億円の保険が掛けられていた。結局、保険金の請求はしなかったものの寿美雄さんは焼死体で発見された。このとき、工藤加寿子は出火の時、ブーツを履き、娘と隣の家ではなく300メートルも離れた家に飛び込み119番通報の依頼をしていた。
夫放火殺害[編集]
1987年12月30日午前3時頃に北海道新十津川町の工藤加寿子の嫁ぎ先の農家で火事が発生。工藤加寿子の夫=和歌寿美雄(当時36歳)が焼死したが、工藤加寿子と娘は無事だった。
警察の捜査で、放火された可能性が高いとされた。
「工藤加寿子の夫には2億円近い保険金がかけられていた(工藤加寿子は保険金請求に関しては取り下げている)」
「火事から逃げた工藤加寿子は、預金通帳と生命保険関係の書類一式を入れたカバンを持っていた」
「深夜にも関わらず、工藤加寿子と娘は靴と靴下まで身に着け、しかも外出着姿であった」などの不審点が挙げられた。
警察は工藤加寿子による保険金殺人という動機として殺人と放火の線から捜査したが、出火原因を突き止められなかったこともあって捜査は行き詰まって立件することができず、2002年に公訴時効が成立した。
工藤 加寿子[編集]
工藤 加寿子は日高地方のある町で生まれ、中学卒業後は集団就職で上京。まもなく北海道に戻り、登別温泉のホテルで働いていた。 再び上京して、26歳の時に結婚。だが結婚生活は1年しか続かなかった。完全黙秘し続けたことで、後に工藤加寿子は「完黙の女」と呼ばれた。工藤加寿子はかなり気が強い女で、ホステス時代に借金に取り立てられた際に、取立て屋に対して自分の小指に包丁を当てて指詰めを示唆しながら「金の代わりにこれ持っていくか」と凄んで、取立て屋を追い返したこともあった。
工藤 加寿子は1984年1月当時、離婚して札幌市豊平区のアパートに長女(当時1歳)と住み、高級クラブのホステスをしていた。このアパートは城丸君方と100mほどしか離れていなかった。この時、工藤 加寿子は700万円以上の負債を抱えており、そのうち636万円の返済を迫られていた。
事件当日、近くの小学生が工藤 加寿子のアパートの階段を、城丸君が上っていくのを見たと証言した。その夜には近所の人が、工藤 加寿子が大きな段ボール箱を抱えて出ていくのを見ている。
工藤 加寿子は城丸君の訪問を認めたが「付き合いはない、近辺の家と間違えたらしく、すぐ帰った」と答えた。工藤 加寿子はそれから3週間後に引っ越していった。
1986年5月、工藤 加寿子は空知管内新十津川町の農業自営の和歌さん(当時36歳)と結婚。翌年末、突然の火災で母家が焼け、和歌さんは焼死している。和歌さんには1億9千万円の生命保険がかけられており、階下で寝ていた工藤 加寿子は預金通帳と生命保険関係の書類一式を入れたカバンを持って隣家に助けを求めていた。
1988年6月、和歌さんの弟が延焼をまぬがれた納屋の整理をしていると、ポリ袋に入れられた骨片を見つけ、警察に届け出た。
鑑定した結果、この骨片は火葬された子供の骨と判明。城丸君のものである可能性が高いとして、工藤 加寿子から事情をきいたが、「そんな骨は知らない」と言うだけだった。当時の鑑定技術では城丸君のものと断定することは不可能だったため、その他に決めてはなく、限りなく「灰色」のまま、捜査は打ち切られた。
工藤 加寿子はこの後、静内町に引越し、3度目の結婚をしたが、離婚している。
公判が始まって、工藤 加寿子は起訴事実を否認した後、黙秘を続けた。検察側がK子による犯行とする根拠として次のような点がある。
- 秀徳君に最後に接触していた。
- 秀徳君や家族以外に犯人しか知り得ない、誘い出すときの名前「ワタナベ」を知っていた。
- 男児用の学童机を購入したり(工藤加寿子には子供は娘しかいない)、毎日のように仏壇で手を合わせるなど、秀徳君の供養をしていた。
- 取り調べ中に工藤加寿子は警察官に自殺をほのめかしていた
- 事件直前に持ち出したダンボールが親族宅及び農家への嫁ぎ先でも持ち込まれ、嫁ぎ先である農家の庭では長時間にわたり黒っぽい煙が出る物を燃やしていたことが判明している。
こうした検察側の質問に対して、工藤 加寿子は「お答えすることはありません」とお決まりの返答をし続けた。その回数は400回にもなる。
2001年5月30日、札幌地裁・佐藤学裁判長は「被告人が重大な犯罪によって死亡させた疑いが強いが、死因が特定できず、明確な動機も認められないことなどから、殺意があったとするには疑いが残る」と工藤に無罪(求刑・無期懲役)を言い渡した。検察側は控訴。
2002年3月19日、札幌高裁・門野博裁判長は「重大な犯罪で城丸君を死亡させた疑いが強いが、殺意をもって死亡させたとするには合理的な疑いが残る」として控訴を破棄。28日には検察は上告を断念、工藤 加寿子の無罪は確定した。
3月31日、佐藤学札幌地裁総括判事が依願退官。冤罪が噂される「恵庭OL殺害事件」の地裁裁判長も担当しており、何かと噂される。
5月2日、工藤 加寿子は補償金1160万円の支払いを国に求める請求を札幌地裁に起こす。
裁判[編集]
工藤加寿子は黙秘を貫いたため、工藤加寿子に殺意があったとする証拠がなく、検察側は殺人罪の立証が極めて困難となった。
札幌地裁(佐藤学裁判長)は無罪判決を、札幌高裁(門野博裁判長)も控訴を棄却し、札幌高等検察庁も上告を断念したため、2002年(平成14年)3月に無罪判決が確定した。
一審・二審とも「(女が)重大な犯罪行為で城丸君を死なせた」と認定している。
検察vs工藤加寿子[編集]
札幌地検は論告で黙秘した工藤加寿子の態度は「黙秘権の濫用」であり、検察が訴えた全ての罪を工藤加寿子が認めたものと解釈すべきであると主張し、無期懲役を求刑した。
2001年(平成13年)5月30日、札幌地裁は「被告人がワタナベとして城丸君を電話で呼び出し、救急車の手配をするなどの証拠がないために重大な犯罪によって城丸君を死亡させた疑いが強い。しかし、城丸君の死因が特定できず、金銭目的や怨恨目的や犯罪隠ぺい目的を推測しても工藤加寿子の明確な殺害動機が認められないことなどから、工藤加寿子に殺意があったとするには疑いが残る」
「工藤加寿子はポリグラフ検査で特異反応に近い反応がみられたり、1988年の任意の取調べ中の自殺のほのめかしは心の動揺があったことが認められるが、これらの事実を持って工藤加寿子の殺意を推認することは困難である」として、殺意の認定が困難として殺人罪について工藤加寿子に無罪判決を言い渡した。
また黙秘し続けたことも「被告人としての権利の行使にすぎず、犯罪事実の認定に不利益に考慮されない」と延べた。
殺人罪以外の傷害致死罪(7年)や過失致死罪(5年)や未成年者誘拐罪(5年)や死体遺棄罪(3年)や死体損壊罪(3年)は公訴時効が成立していたため、これらの罪を適用させることができなかった。
検察側は控訴。検察は工藤加寿子の1984年時の借金の状況や知人の証言を新たな証拠として提出した。
2002年(平成14年)3月19日、札幌高裁は「工藤加寿子の経済的事由から、城丸君への殺意の推認することは困難である」として工藤加寿子の無罪判決を維持。
検察は上告を断念し、工藤加寿子の無罪が確定した。
殺人罪は「殺意」をもって死亡させたときに適用され、それ以外は傷害致死となる。工藤加寿子逮捕時の7年10ヶ月前に傷害致死罪は、時効が成立していた。
男児の遺族は工藤加寿子に損害賠償を求める民事訴訟を検討したが、工藤加寿子の完全黙秘する姿勢を見て、真実が明らかにならないとして断念する。
工藤加寿子は釈放後の2002年(平成14年)5月、刑事訴訟法の救済措置に基づいて1160万円を請求し、現金930万円の支払いを受けた。
- 2002年4月3日読売新聞「城丸君事件、女の無罪確定 札幌高検が上告断念」
- 1998年11月16日読売新聞「札幌の小4殺害事件 時効まで2か月、近所にいた女性逮捕」
- 2002年4月20日読売新聞「遺族が賠償提訴断念「もう十分戦った」真相は闇に」
その他[編集]
- 被害者の父親・城丸 隆さんは阿部文男衆議院議員の秘書をしていた。阿部文男が逮捕・起訴された共和汚職事件の東京地裁で1993年6月11日に開かれた法廷に被害者の父親は元札幌事務所所長として出席し、「事件発覚後に贈賄企業幹部から捜査状況を聞き出していた」旨の証言をしている。