立花宗茂

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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 立花 宗茂 | 肖像フラグ = | 画像 =立花宗茂畫像.jpg | 画像サイズ =250px | 画像説明 = | 時代 =[[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 =[[永禄]]10年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1567年]][[12月18日]])<ref>一説に[[永禄]]12年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[1569年]][[9月23日]])とも</ref> | 死没 =[[寛永]]19年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]([[1643年]][[1月15日]]) | 改名 = 高橋千熊丸、彌七郎(幼名)、統虎、戸次統虎、立花鎮虎、宗虎、正成、親成、尚政、政高、俊正、経正、信正、宗茂 | 別名 =左近侍従 | 諡号 =立斎 | 神号 =松陰霊神 | 戒名 =大円院殿松陰宗茂大居士 | 霊名ラベル = | 墓所 = [[広徳寺|圓満山廣徳寺]]([[東京都]][[練馬区]]桜台)<br />→ [[福厳寺 (柳川市)|福厳寺]]([[福岡県]][[柳川市]]) | 官位 =[[従四位|従四位下]]・[[近衛府|左近将監]]、[[侍従]]、[[飛騨国|飛騨守]]、<br />贈[[従三位]] | 幕府 =[[江戸幕府]]・[[書院番頭]]([[慶長]]8年([[1603年]]) - 慶長12年([[1607年]])) | 主君 =[[大友義鎮|大友宗麟]]→[[大友義統|義統]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]<br />→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]→[[徳川家光|家光]] | 藩 =[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主→[[筑後国|筑後]][[柳河藩]]主 | 氏族 =[[高橋氏]]→[[立花氏]]([[藤原氏]][[藤原秀郷|秀郷流]][[大友氏]]支族) | 父母 =父:[[高橋紹運]]、母:[[斎藤鎮実]]の妹・[[宋雲院]]<br />養父:''[[立花道雪]]'' | 兄弟 ='''宗茂'''、[[立花直次|直次]] | 妻 =正室:立花道雪の娘・[[立花ぎん千代|誾千代]](良清院)<br />継室:[[矢島秀行]]の娘・[[矢島八千子|八千子]](瑞松院)、<br />継々室:[[葉室賴宣]]の娘・[[葉室菊子|菊子]](長泉院) | 子 =養子:'''''[[立花忠茂|忠茂]]'''''<br/>養女:''[[小田部統房]]の娘''([[本多俊次]]室)<br/>''[[小野茂高]]室''<br />''高橋鎮種の娘''([[立花親家]]室、[[細川興元]]継室)<br />''[[立花種次]]の娘''([[伊達宗勝]]継室)<br />''[[矢島重成]]の娘''([[今川直房]]室) | 特記事項ラベル = }} '''立花 宗茂'''(たちばな むねしげ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の[[武将]]、[[大名]]。[[大友氏]]の一族。[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主、[[筑後国|筑後]][[柳河藩]]の初代藩主。[[関ヶ原の戦い]]で改易後、大名として旧領に復帰した唯一の武将である。 * 宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。本項では便宜的に宗茂で統一する。 == 生涯 == === 生い立ち〜立花家相続 === 永禄10年(1567年)11月18日、[[大友氏]]の重臣・[[高橋紹運|高橋鎮種]](吉弘鎮理・紹運)の長男として生まれたとされる。幼名は'''千熊丸'''で、後に'''彌七郎'''と改める。 [[天正]]9年([[1581年]])、男児の無かった大友氏の家臣・戸次鑑連([[立花道雪]])は[[立花氏]]の跡継ぎとして高橋紹運の子の'''高橋統虎'''(むねとら、宗茂の初名)を養嗣子として迎えようとした(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたる)。紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・[[立花ぎん千代|誾千代]]と結婚して娘婿となり、名も'''戸次統虎'''と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られたが、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。 天正9年(1581年)7月27日(一説は11月6日、後述の戦闘と混同の可能性がある)、養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、[[秋月氏]]との[[嘉麻・穂波の戦い]](石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。この合戦で宗茂は50人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・[[堀江備前]]の左腕に[[鏑矢]]を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を圧倒し、家臣の[[萩尾大学]]が堀江を討ち取って手柄を立てた。 同年11月6日にも同じ戦地で戦闘があった。立花勢は[[朽網鑑康]]の救援に向かう途中で、鑑康が[[秋月種実]]や[[問註所鑑景]]との[[原鶴の戦い]]で戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。それからの過程は7月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。 天正10年([[1582年]])4月16日、宗茂は秋月氏・[[原田氏]]・[[宗像氏]]の連合軍2,000との[[岩戸の戦い]]に500の伏兵を率いた。立花道雪の本隊1,000が敵軍に包囲された時、先に宗茂隊の300が鉄砲で側面から奇襲して、残る兵200は[[薦野増時]]が指揮して偽の旗を立てて大友氏の援軍が来ると見せかけ、遂に敵軍の包囲を解かせた。さらに宗茂は薦野増時・[[由布惟信]]・[[小野鎮幸]]ら1,000騎を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将・[[笠興長]]隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の[[早良郡]]まで追撃し[[原田親秀]]の早良城を焼き落城させた。宗茂は同年12月28日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣。翌天正11年([[1583年]])年3月17日の吉原口防戦にて[[吉原貞安]]を討ち取って、[[宗像氏貞]]の居城許斐山(このみやま)城や龍德城を落城させた。 天正12年([[1584年]])8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の[[筑後国|筑後]]奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに[[立花山城]]の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せたが、まず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清し、兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせてこれを撃破。更に西の早良郡の[[曲淵房助]]や[[副島放牛]]が拠る[[飯盛城]]など[[龍造寺氏]]の城砦を襲撃し、敵に立花道雪は不在だが立花山城の兵力はまだ十分と印象づけた。 立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年([[1585年]])に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。 ===豊臣時代=== 天正14年([[1586年]])、[[島津忠長]]・[[伊集院忠棟]]が5万を号する島津軍を率いて[[筑前国]]に侵攻し、実父の高橋紹運は[[岩屋城]]にて徹底抗戦の末に玉砕した([[岩屋城の戦い]])。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に[[詐降の計]]を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。この内に[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]も岩戸にて兵糧を準備する[[原田種実]]隊2,000を撃退し700余の首を取った。[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]にも[[秋月種長]]隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]に撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、[[火計]]で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている<ref>『日本戦史・九州役』(補伝 第十二宗茂の忠勇)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771075/117]</ref>。 その時、[[大友義鎮|大友宗麟]]から[[豊臣秀吉]]へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された<ref>つまり、立花宗茂を豊臣秀吉の直臣として取り立てて欲しいと、大友宗麟が要請したという意味である。ただしこれについては、秀吉のほうから宗麟に対して、立花宗茂を譲るように命じたのを、宗麟が自ら推挙したようにして取り繕ったのではないかという説もある([[海音寺潮五郎]]『武将列伝」)。</ref>。 その後も秀吉の[[九州征伐]]で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から[[肥後国]]の[[竹迫城]]、[[宇土城]]などを攻め落とした。更に南下して[[島津忠辰]]の出水城を攻め落として[[川内市|川内]]に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって[[伊集院氏]]、[[祁答院氏]]、[[入来院氏]]から人質をとり、大口城に[[新納忠元]]を包囲した<ref>『日本戦史・九州役補伝』[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771075/121]</ref>。 戦後、秀吉はその功を認めて筑後[[柳川市|柳川]]13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」「九州の逸物」と高く評価したという。 天正15年([[1587年]])9月、[[佐々成政]]移封後の[[肥後国人一揆|肥後国で大規模な国人一揆]]が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の[[立花直次|高橋統増]]と共に兵1,200(2,800や3,000諸説ある)と輜重隊を率いて出陣、兵を三隊に分けて[[小野鎮幸]]の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・[[大津山出羽守]]を討ち取った。そして平山城を包囲する一揆方の[[有働兼元]]軍を騎馬鉄砲<ref>騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせて「[[火車懸]]」の戦術を繰り出した</ref>の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し[[有働志摩守]]を討ち取った<ref>『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』による</ref>。 立花軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて[[由布惟信]]と[[十時惟由]]を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は[[三加和町|三加和]]平野立尾の地で一揆方に挟撃された。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有動下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。 その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城上や軍の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、[[十時連貞]]と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、[[池辺永晟]]と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中に[[小早川隆景]]を義父とし、[[毛利秀包|小早川秀包]]とも義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。 天正16年([[1588年]])に上洛し、7月に従五位下・侍従に叙任される。秀吉から、羽柴の名字と、豊臣姓(本姓)を与えられる。<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』、P29・P38。</ref> 天正18年([[1590年]])、[[小田原征伐]]に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で「東に[[本多忠勝]]という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。 ===文禄の役=== 朝鮮出兵頃より宗茂は、旧主家であった[[大友義統]](吉統)の偏諱を受けた統虎という名乗りから'''宗虎'''へ名乗りを改めている。 [[文禄]]元年([[1592年]])からの[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。4月、諸将と共に[[東莱城の戦い|東莱城]]を攻め落とした。[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]、[[宇喜多秀家]]の要請で火計と[[釣り野伏せ]]戦法を使って[[漢城府|漢城]]北方の朝鮮軍を駆逐した。漢城会議で[[全羅道]]の攻略が割り当てたられた6番隊は[[忠清道]]から南下したが、錦山・梁丹山で数次にわたる朝鮮軍や義兵の趙憲・霊圭の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。また、7月に[[遼東]]から来た[[明]]の援軍である[[祖承訓]]が[[平壌]]を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまり、[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]の第一次平壤の戦いは[[小西行長]]、[[大友義統]]、[[黒田長政]]と共に明の祖承訓を撃退したが、一門の重臣・[[立花鑑貞]]を失った、後に宗茂も漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。 文禄2年([[1593年]])、[[李如松]]の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し更に南下を始めると、[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]に小西行長救援のため弟の高橋統増と釣り野伏せを連携して龍泉の戦いに明の追撃軍を撃退した。 日本軍は迎撃を企画し[[碧蹄館の戦い]]では宗茂と高橋統増が先陣となり<ref>『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十七宗茂の決心)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/193]</ref>、朝の戦いは碧蹄館南面の礪石嶺に布陣し、先鋒500を率いた[[十時連久]]を正面に少ない軍旗を立てることで、明・朝鮮軍を騙してこれを側面奇襲し撃退したが、十時連久は突撃の際に毒矢を受けて戦死し<ref>『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/194]</ref>、旗奉行の池辺永晟も連久死後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わる殿後の最中に戦死した。午後の戦いでは全軍を碧蹄館西面の小丸山に埋伏させた。朝とは逆に兵一人に三本の軍旗を背負わせ、敵軍に「日本軍は大軍である」と騙し、先に鉄砲を三連射して、長刀や長槍を高く揚げて白い刃と300名ほどの将兵が被る金兜で日光を反射し敵の将兵の目を晦ませて右翼から突襲、本陣に至って白兵乱戦になる。この時、金備えの立花軍先鋒隊長[[安東常久]]は李如松と一騎討ちして落馬させたが、[[李如梅]]の矢を受けて戦死し、後の追撃戦でもう一人の金備え先鋒隊長[[小野成幸]]や与力衆の[[小串成重]]、[[小野久八郎]]と一門の[[戸次鎮林]]も戦死した。大きな被害を出しながらも立花軍が明軍を食い止めたために戦機が生まれ小早川隆景などの本軍が明軍を撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、四つの甲首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。『[[甫庵太閤記]]』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との[[感状]]を拝領した<ref>『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/195] 『柳川藩叢書 第一集』補遺目次によると各戦法の解説と由来や家臣の始末、異名のことはある。</ref>。 6月の第二次[[晋州城攻防戦]]では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。 上記とは別に次の武勇伝が伝わっている。 * 攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将[[劉テイ (明)|劉綎]]は数万の明、朝鮮援軍を集結、その対応のため、第六軍の立花宗茂と小早川秀包とともに兵4千で星州へ行ったが、[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]、劉綎配下の琳虎というの武将が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城へ進軍、立花と小早川軍は転進し釣り野伏せ戦法を連携して明軍を撃退している<ref>河村哲夫『立花宗茂』P147~P148</ref>。この戦闘については『懲毖録』では明軍は朝鮮の救援要請に対して、動かなかったとあるので疑問がある。 *『問註所家譜』により文禄2年([[1593年]])[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]、[[問註所統景]]、[[問註所正白]]兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る<ref>『問註所家譜』[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228351/102]</ref>。 ===慶長の役=== [[慶長]]2年([[1597年]])からの[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。侵攻軍のうち井邑会議に参集した諸将は今後の作戦展望として連署注進状を秀吉に送っており、その中で「南部再布陣の当初計画では釜山の守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画の若い立花宗茂から[[毛利勝信|毛利吉成]]に変更したい」との要請を行い、最終的に吉成は[[釜山]]、宗茂は[[固城]]の守備が割り当てられた。続く、第一次[[蔚山城の戦い]]では固城倭城の守備に就いており戦闘には参加しなかったとされる(島津義弘が[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]付で石田三成に送った書状には「[[鍋島直茂]]・[[鍋島勝茂|勝茂]]親子が蔚山へ救援へ出たために馬山倭城が空になった。竹島城にも場合によって後詰めを行うと宗茂から連絡があった」との記述がある。[[固城倭城]]は[[馬山倭城]]と[[泗川倭城]]の間に位置する)。 慶長3年([[1598年]])9月、明・朝鮮軍による蔚山・[[泗川の戦い|泗川]]・[[順天城の戦い|順天]]への三方面同時攻勢の際には、固城の守備に就いていた宗茂は[[島津忠恒]]より泗川攻撃の通報を受けて[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]付書状で返信を行っており、戦闘には参加しなかった。だが、『柳河藩享保八年藩士系図』によって、家臣の[[小串成信]]など蔚山にて戦死の記載があるので、蔚山の戦闘は実際に参加していた可能性はある。 秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、[[順天倭城]]で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、弟の高橋統増・[[島津義弘]]・[[宗義智]]・[[寺沢広高]]らと共に[[水軍]]を編成して救援に向かい、[[陳リン|陳璘]]率いる明水軍や[[李舜臣]]率いる朝鮮水軍と戦い([[露梁海戦]])、行長らの救出を成功させた。そのとき、島津家臣の[[川上久國]]は自身の日記で海戦にも善戦した立花軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いている<ref>『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第百八十七宗茂露梁の戦功)[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=43007042&VOL_NUM=00002&KOMA=272&ITYPE=0 ]</ref>。 上記の他に次のような武勇伝も伝わっている。 * 慶長3年(1598年)第一次[[蔚山の戦い]]の時、日本軍諸将は救援の為釜山から出て蔚山へ進軍した、[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]1月2日、明将[[高策]]率いる明軍2万2千、朝鮮軍3万は日本軍本陣を偸襲するために[[釜山広域市|釜山]]へ進軍、般丹に現れた。本陣の[[宇喜多秀家]]は、宗茂に呼びかけて釜山へ出撃を求めた。宗茂は8百の兵を率いて高策2万2千の兵を夜襲と火計を使い撃破、7百の首を取った戦功を挙げ、これは[[般丹の戦い]]と称えられたという<ref>『名将言行録』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40016722&VOL_NUM=00003&KOMA=114&ITYPE=0]、『日本外史補』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40012624&VOL_NUM=00000&KOMA=120&ITYPE=0]『日本支那交戦史』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014318&VOL_NUM=00000&KOMA=28&ITYPE=0]</ref>。 * 明将・[[麻貴]]率いる明・朝鮮軍2万9500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次[[蔚山城の戦い]])、守備に当たった[[加藤清正]]が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、辛抱強く議論を聞いていた宗茂もさすがにしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。それを聞いた総大将・[[小早川秀秋]]は「それはよいことを申された、わずか3,000にも満たない兵であれば、万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか1千の兵を率いて救援に駆けつけ5百の兵を率いて夜襲を敢行、別の5百兵が鉄砲で攻撃し明軍の先陣5,000人を撃退し、その後は[[偽情報]]を拡散するために先の夜襲した際の捕虜40人余を解放し、その夜、偽の陣地や營火と伏兵を使って明軍を引き出して分断包囲撃破し、翌日蔚山城に到着、加藤清正を援助した<ref>麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗『明史 朝鮮伝』[http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7320]</ref> 。その後、清正も5,000の軍勢で明軍を追撃し、戦後ともに蔚山城に入り、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛された<ref>『立斎旧聞記』(原文では[[1598年]]5月4、5日の戦い、明将の名前は『清正記』[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771449/204]も「梅柏」となっている)、『名将言行録』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40016722&VOL_NUM=00003&KOMA=114&ITYPE=0 ]、『日本外史補』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40012624&VOL_NUM=00000&KOMA=120&ITYPE=0]、『日本支那交戦史』[http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40014318&VOL_NUM=00000&KOMA=29&ITYPE=0]</ref>。 なお、これらの武勇伝は同時代史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。 ===関ヶ原=== [[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]では、その直前に[[徳川家康]]から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣・薦野増時(立花賢賀)は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。そして[[石田三成]]率いる西軍に属し、[[伊勢国|伊勢]]方面に進出する。 その後、[[末次元康|毛利元康]]・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・[[筑紫広門]]と共に東軍の[[京極高次]]が守る[[大津城]]を攻めた([[大津城の戦い]])。宗茂は城方の夜襲を予見し、更に家臣の[[十時連貞]]が敵将・三田村某を捕縛した(大津籠城合戦記による)。この戦で宗茂は高さ一間の[[土塁]]と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余(約1.8m)の[[塹壕]]を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父・道雪の発案した「早込」(「[[早合]]」ともいう。1発分の[[火薬]]を詰めた[[竹筒]]の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず[[鉄砲]][[狭間]]を閉じた<ref>『評註名将言行録』[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043000/131]</ref><ref>『慶長武士』[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983085/75]</ref>。その機を見た家臣の[[立花成家]]や[[内田統続]]らが一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破したという。しかし[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って[[大坂城]]に引き返した<ref>『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第九章 大津)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771074/173]</ref>。 大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の[[毛利輝元]]に進言したが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に実父・[[高橋紹運]]の仇である[[島津義弘]]と同行した。関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた<ref>『日本戦史・関原役』(補伝 第百六立花宗茂再戰説及歸國)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/106]</ref>。 国許でも戦が起こっており、[[黒田孝高]](如水)、[[加藤清正]]、[[鍋島直茂]]が柳川を攻める形勢となった。このとき、息子・[[鍋島勝茂]]が西軍に加担したことを挽回しようと懸命だった直茂率いる鍋島勢32,000(『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている)は[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、二手に分かれて佐賀を進発した。これに対し立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の[[小野鎮幸]]を総大将とする約3,000(一說2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが[[城島城]]を攻略、翌[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]には[[江上八院]][http://snkcda.cool.ne.jp/ookityousi/chapter2-4/chapter2-4.html][http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/ooki/hatiingassen/hatiinsen.htm]で立花勢本隊と激突した。 立花勢先鋒の[[安東時貞]]、[[石松政之]]らは軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊[[立花統次]]はその九段までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・[[鍋島茂忠]]は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東時貞、石松政之はたちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣[[立花鎮実]]と鎮実の若い次男[[立花親雄]](善次郎・17歳)や[[新田鎮実]](平右衛門、掃部助)は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩し、後を断たれて共に戦死した。馬廻衆の[[安東幸貞]]、第三陣の若武者[[十時惟久]](新五郎‧16才)、先鋒の安東時貞、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲の中、勇戦奮戦したが鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い討死寸前となったが、[[下妻郡]]水田(現福岡県[[筑後市]])方面の黒田如水軍を偵察していた[[立花成家]]が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]立花勢は[[十時惟由]]らが率いて北の蒲池にて鍋島軍を挑発し、対戦して数人を討ち取った<ref>『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771074/195]</ref>。 剛勇を以ってなる立花勢は[[柳川城]]へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、宗茂と慶長の役で共に苦労した黒田如水、並びその第二次蔚山城の戦いで宗茂に救ってもらった加藤清正が、宗茂を懸命に説得<ref>『日本戦史・関原役』(文書 第百卅一号 清正ト立花宗茂トノ往復書(二通) )[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771070/57]</ref>に動き、宗茂は降伏開城した。 島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという。 ===江戸時代=== 開城後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで加藤清正や[[前田利長]]から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。その後、清正の元を離れ、[[由布惟信]]、[[十時連貞]]ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。 正室・誾千代は立花家改易後、[[肥後国]][[玉名郡]]腹赤村の市蔵宅(現・[[熊本県]]玉名郡[[長洲町]])に移り住んでいたが、慶長7年([[1602年]])7月頃から病を患い、[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]に死去した。享年34。 誾千代が没してからは宗茂は自身の改易処分が解けるように尽力し、慶長8年([[1603年]])江戸に下った宗茂は[[本多忠勝]]の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年([[1604年]])忠勝の推挙で江戸城に召し出される。宗茂の実力をよく知っていた[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家康]]から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男・[[徳川秀忠]]の御伽衆に列せられて[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩|棚倉]]に1万石を与えられて大名として復帰した。同地で加増され2万5,500石の知行となり、慶長15年([[1610年]])には更に9,500石の加増を受けて最終的に3万5,000石の領地高となり、この頃から'''宗茂'''と名乗っている。 [[大坂の役|大坂の陣]]のとき、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという、そして大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し<ref>『日本戦史‧大坂役』(補伝 第二百三十宗茂の卓識)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771061/363]、(補伝 第二百三十一宗茂の獻策)[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771061/365]</ref>、[[毛利勝永]]と交戦している。 [[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])、幕府から旧領の[[筑後国|筑後]][[柳川藩|柳川]]10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。また戦国武将としては世代が若く、[[伊達政宗]]や[[加藤嘉明]]・[[丹羽長重]]らとともに、[[徳川家光]]に戦国の物語を語る[[相伴衆]]としての役目も果たした。なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の茶会や諸大名の屋敷が完成した際の披露会などに頻繁に将軍と共に随伴している。そのため、国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後はその傾向が一層強くなり、江戸に屋敷を構えて定住して本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たしている。 寛永14年([[1637年]])には[[島原の乱]]にも参陣し、総大将の[[松平信綱]]を輔佐し、軍事進言や戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。翌年、家督を養子・[[立花忠茂]]に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。享年76。戒名は大円院殿松陰宗茂大居士。俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。 墓所は[[福岡県]][[柳川市]]の[[福厳寺 (柳川市)|福巖寺]]。また柳川城内にある三柱神社に養父・立花道雪と妻・立花誾千代と共に祭神として祀られている。 [[大正]]4年([[1915年]])11月10日に贈[[従三位]]。 == 浪人中の宗茂と家臣 == 関ヶ原の合戦後、立花宗茂は大名から浪人に転落した。かねてより宗茂と親交があった東軍の大名のなかには彼の武名を惜しんで、召し抱えたいというものも多かったが、宗茂はそのいずれも丁重に断った。彼は、 「我が身惜しさに、太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない」といった。そして、 「わしは天に誓って、わが生き方を恥じておらぬ。天運あれば、きっとふたたび立花の名を興す時がこよう」と家来たちには言った。 しかし、その機会はなかなか訪れなかった。宗茂は肥後を追われ、京都、江戸と転々と住まいをかえて、流浪した。 江戸の高田、宝祥寺の一隅を借り住まいとしていたころのことである。 宗茂が国もとを出たときの路銀はとうに消え失せ、主従は日々の米にこと欠いていた。[[由布雪下]]、[[十時摂津]]ら、宗茂の家来たちは槍、甲冑も売り払って金銀を得たが、それでもなお食えない。彼等は、宗茂に隠れ、傭われ人足や托鉢僧、ひどいものは乞食に身をやつして銭をかせぎ、なんとか日々を暮らしていた。 ある時、寺の檀家が、宗茂らの困窮を知って、炊いた飯をわけてくれた。由布雪下らはありがたくそれを頂き、その飯で干飯をつくることにした。干飯とは元来は陣中食であるが、平和な時代は、食べるものに無いときの備蓄食である。 つくりかたは単純。日に飯をさらして乾燥させるだけである。秋晴れが続き、江戸ではしばらく雨がふっていなかった。これならば大丈夫、と、由布らは、飯を干したまま、いつものように宗茂ひとりを寺に残し、みなで人足の仕事をしにいった。ところが。 どういうわけが、この日にかぎって、天に雲わき、午後、にわかに雨がふりだした。人足仕事は雨のために早く終わった。由布や十時ら急いで、寺にもどった。道すがら、 「しまったぞ」と十時摂津がいった。「飯はダメになってしまうだろうな」 十時は朝鮮・碧蹄館の戦さで武名をあげた男だが、このときは干し飯のこと頭がいっぱいであった。雨にぬれれば、干し飯は食べられなくなる。それは一大事であった。そして、この心配は十時ひとりのものではない。ほかの家来たちもそうだった。 「大丈夫だ」と家来のひとりが十時だけでなく、自分をも励ますようにいった。 「殿は聡いかただ。この雨をみて、きっと干し飯を屋敷のなかにしまってくれている」そのとき、最年長の由布雪下が、 「馬鹿なことをいうな」と叱った。「馬鹿なこと?」十時や家来たちは驚き、由布に問い返した。 「そうじゃ」由布は言う。 「大将は雨をみて、兵を考え、民を思うものじゃ。殿は大明まで知られた日の本一の大将ぞ」もし、と由布はしわがれ声をくぐもらせていった。 「目前の干し飯などという些事に心を奪われるようでは、殿の人品、地に落ちたのじゃ」 十時らは黙った。 「もし、そうであれば、立花の家が再び天下に立つ日などない」「そのとおりじゃ」 十時は顔をあらためた。他の家来たちも、みな静かに深くうなずき、みな一様に暗く、神妙な顔になった。祈るような気持ちで、家来たちは、寺の門をくぐった。雨は激しさをましていた。 萩の花のさく庭をみた。板の上のならべられた握り飯は雨にうたれている。みるも無惨に崩れ、あるいは流れ、地面におちて、泥にまじっていた。家来たちは呆然としてそれをみたあと、屋敷のほうへ顔をむけた。 そこでは宗茂は端然として書見をしていた。 「殿!」 十時が吠えた。大きな身体をふるわし、手を雨の中にあげ、万歳、とさけんでいた。ほかの家来たちも声をあげて叫び、笑った。濡れた飯をすくいあげて、雨になげるもの、抱き合って泣きあうもの。宗茂はわずかに顔を庭にむけると、書見をやめた。立ち上がった。 「爺」といった。 ひとり、天を仰いでいた由布雪下がその声に、その皺と戦さ傷だらけの顔をむけた。 「なんだ、みなは、雨がそれほどうれしいのか?」 「そうですな」由布の頬に涙が雨とまじっている。 「うれしいですわい」 == 人物・逸話 == * 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。彼は戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な面など「'''武士の中の武士。彼こそがサムライ'''」とも呼ばれる。 * 宗茂は軍法についてこう語っている。 ** 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」 **「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」 :なお、義父である立花道雪は、実際に兵を大切にし、一方で兵は道雪のために尽くした逸話があり、この宗茂の軍法は義父から継承したものと思われる。 * 関ヶ原の戦い後の浪人時代は、京都で家臣ともども乞食同然に身を落とし、その日の食べ物にも難儀したという話がよく知られる。 ** 米が足りないので家臣が[[雑炊]]を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったと言われる。今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。 ** 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を[[干飯]]にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃんと残飯を雨に濡れないように屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった。案の定帰宅すると、宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。 ** ただし、実際は有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、それなりの客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話であろうという説もある。 * 文武両道の名将で、[[連歌]]・[[茶道]]・[[香道]]・[[蹴鞠]]・[[狂言]]などにも長けていたとされる。 ** [[剣術]]は[[丸目長恵]]から文禄5年(1596年)10月に[[タイ捨流]]の免許皆伝を受けている、自身も抜刀術隋変流を開祖し、後年の[[中村天風]]もその剣術を修得した<ref>六歳の時より家伝の抜刀術隋変流を修業し達人となる。隋変流は立花宗茂を流祖とし、戦国時代そのままの形を伝えるといわれ、先生の号である天風は最も得意な形、天風(あまつかぜ)からとられたものである [http://www.asahi-net.or.jp/~yp7h-td/tenpuu.html]</ref>。 ** [[弓術]]は天正18年(1590年)に[[尾村連続]]、慶長6年(1601年)10月には[[中江新八]]、慶長7年(1602年)には[[吉田茂武]]から[[日置流]]の免許をそれぞれ受けている。 ** 茶道は[[細川忠興]]からも一目置かれていたようで、忠興は子の[[細川忠利]]に対して、[[数寄]]の事は宗茂を見習う事と書き記している。また、忠興から宗茂が借金をして茶器を購入したり、逆に宗茂の茶器を忠興に貸したりという文書も残っているので、茶道を通じてかなり両者の関係は親密であったと思われる。 ** 香道は[[後陽成天皇]]の弟・[[良恕法親王]]より「薰物」を贈られている。 ** 蹴鞠は[[飛鳥井雅春]]から「鞠道」の門弟として「紫組之冠懸」を免許されている。 * 正室の誾千代を弔うために、[[山門郡]][[瀬高]]上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の[[蒲池鑑盛]](蒲池宗雪)の孫である[[応誉]]上人を招き、[[良清寺]]を創建した。 * 宗茂が8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。 * 立花家へ婿養子に行く際に実父・高橋紹運より「高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとする」と問われて、高橋に味方すると答えたところ、紹運に「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。道雪殿は常日頃から未練な振る舞いを嫌っておられるので、おぬしに不覚の行跡あろうものなら義絶されよう。その時は高橋に帰ろうと思うのではなく、この刀で直ちにその場で自害せよ。」と一剣を渡され諭された。宗茂はその刀を紹運の形見として、終生身辺から離さなかったという。 * 立花家の婿になってまだそれほど経ってない頃、養父・立花道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、棘の付いた栗を足で踏み抜いた。当然の如く近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと[[由布惟信]]が駆けつけ、抜く所か逆に栗を足に押し付けた。叫び声を上げようにも近くの駕籠の中からは養父の道雪が眉を吊上げて見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困ったと後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏に来てからは大変厳しく教育された。 * 文禄の役での[[碧蹄館の戦い]]では敵の大軍の前にも悠然と昼食の握り飯を食べていたと伝わる。 * 関ヶ原の後の柳川城攻防戦で開城当日、筑後四郡の領民達は「殿様のためなら命も惜しまない」と涙ながらに降伏開城を押しとどめようとした。しかし宗茂は「気持ちは嬉しいが、皆を戦乱に巻き込みたくないのだ。分かってほしい」と答え、領民達は別れを涙ながらに宗茂を見送った。それ程までに、彼は領民からの信望が篤かったと言える。 == 家臣団 == ; 立花双璧 * [[由布惟信]] * [[小野鎮幸]] ; 立花四天王 * 由布惟信 * [[十時連貞]] * [[安東家忠]] * [[高野大膳]] * 小野鎮幸(家忠隠居の後は替補) ; 立花五城主 * 小野鎮幸(蒲池城) * [[薦野増時]](城島城) * 由布惟信(酒見城) * [[米多比鎮久]](鷹尾城) * [[立花鑑貞]](安武城。文祿の役で第一次平壤の戦いに戦死した後、子の立花鎮貞を継領して松延城に改領した。) ; その他 <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[由布惟次]] *[[由布家續]] *[[由布惟明]] *[[小野成幸]] *[[丹親次]] *[[立花成家]] *[[立花統春]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[立花統次]] *[[立花鎮実]] *[[立花親家]] *[[十時連秀]] *[[十時惟昌]] *[[十時連久]] *[[安東連忠]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[安東連直]] *[[安東家栄]] *[[安東幸貞]] *[[安東時貞]] *[[安東常久]] *[[佐伯惟幸]] *[[内田鎮家]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[内田統続]] *[[太田成方]] *[[原尻鎮清]] *[[森下釣雲]] *[[堀祥]] *[[堀秀]] *[[池辺永晟]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[吉田兼正]] *[[小串成重]] *[[清田正成]] *[[千手喜雲]] *[[石松政之]] *[[中江二義]] *[[矢島重成]] </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> *[[小田部統房]] *[[世戸口政真]] *[[竹迫統種]] *[[竹迫連種]] *[[京都鎮安]] *[[後藤隼人佐]] *[[綿貫左三兵衛]] </div><br style="clear: left;" /> == 脚注 == {{reflist}} == 相関部分史料 == * 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』(青潮社、1922年) * 浅川安和 『柳川藩叢書 第二集』(青潮社、1991年) * 浅川漏泉 『柳川藩叢書 第三集』(青潮社、1985年) * 木付帯刀 『万日記 (柳川史話)』(柳川郷土史刊行會、1956年、再版 清潮社、1984年) *『高橋記』(続群書類従 第二三輯上)』(続群書類従完成会、1927年) *『立斎旧聞記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年) *『大津籠城合戦記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年) *『立花朝鮮記(改訂 史籍集覽 一三)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年) *『立花立斎自筆島原之戦覚書(改訂 史籍集覧 一六)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年) *『立花家文書』(株式會社「御花」) *『立斎樣御自筆御書之写』 *『筑前博多史料豊前覚書』 (城戸清種著、川添 昭二校訂、文献出版、昭55) *『立花宗茂(人物叢書)』(日本歴史学会、2000年) *『戦国なるほど人物辞典』(PHP研究所発行、泉秀樹著、2010年) == 伝記 == * 河村哲夫『立花宗茂』(西日本新聞社、1999年) ISBN 4816704884 * 中野等『立花宗茂』(吉川弘文館人物叢書、2001年) ISBN 4642052208 == 立花宗茂を描いた作品 == === 活字 === * 白河鯉洋『立花宗茂』(岡村書店、1902年) * 渡辺村男『碧蹄館大戦記』(青潮社、1922年) * 古賀敏夫『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』(九州出版社、1974年) * [[海音寺潮五郎]]『立花宗茂』(講談社ロマンブックス、1975年) * 海音寺潮五郎『武将列伝(六) <small>立花一族</small>』(文藝春秋、1975年) ISBN 416713506X * [[滝口康彦]]『乱離の風 若き日の立花宗茂』(文藝春秋、1981年) ISBN 416306320X(のち人物文庫・[[学陽書房]]、2008年『立花宗茂と立花道雪』改題)ISBN 978-4-313-75232-0 * 中村正夫『立花宗茂 <small>他一篇</small>』(メイン・スタンプ、1994年) * 八尋舜右『立花宗茂 <small>秀吉が天下無双と讃えた戦国武将</small>』(PHP文庫、2000年) ISBN 4569574211 * [[童門冬二]]『小説 立花宗茂』上、下(学陽書房人物文庫、2001年) *: 上 ISBN 4313751394 下 ISBN 4313751408 * 原田種真『立花宗茂 <small>乱世をゆく鎮西の勇将</small>』(広済堂文庫、2001年) ISBN 4331609073 * 西津弘美『立花宗茂 士魂の系譜』(葦書房、2002年) ISBN 4751208322 * 海音寺潮五郎『剣と笛と <small>歴史小説傑作集</small>』(文藝春秋、2002年) ISBN 416713540X * 志木沢郁『立花宗茂』(学研M文庫、2004年) ISBN 4059011630 * 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈1〉太閤、釜山に死す』(学習研究社、2006年) ISBN 4054031366 * 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈2〉如水、筑紫に散る』(学習研究社、2007年) ISBN 4054033717 * 百目鬼涼一郎『戦国武勇伝〈3〉王者、破れる』(学習研究社、2007年) ISBN 4054036104 * 上田秀人『孤闘 立花宗茂』(中央公論新社、2009年) ISBN 4120040186 * 竹中亮『戦国の七人』(学研パブリッシング、2011年) ISBN 9784054051768 * 葉室麟『無双の花』(文藝春秋、2012年) ISBN 9784163810805 * 黒田如泉『名に恥ずるなく己に恥ずるなく 立花宗茂異聞』(文芸社、2012年) ISBN 9784286110653 === テレビドラマ === *『[[葵徳川三代]]』([[日本放送協会|NHK]]、2000年)演:[[大和田伸也]] === テレビアニメ === *『[[戦国☆パラダイス-極-]]』([[テレビ東京]]、2011年)声:[[斉藤壮馬]] === ゲーム === *『[[戦国無双シリーズ|戦国無双3]]』([[コーエー]]、2009年)声:[[東地宏樹]] *『[[戦国BASARA|戦国BASARA3]]』([[カプコン]]、2010年)声:[[稲田徹]] *『[[戦国大戦]]』([[セガ]]、2012年)声:[[中村悠一]](EX立花宗茂) == 外部リンク == *[http://www.muneshige.com/ 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川] *[http://www1.bbiq.jp/shima6/jidai.html 立花宗茂の時代を寸描] *[http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.tatibana.html 大坂の陣人物 立花宗茂の列伝] *[http://blogs.yahoo.co.jp/aun1949fuu/folder/1506209.html?m=lc&p=1 立花左近将監宗茂 参考文献「立花記(正・続)」、「武神 立花宗茂」、「清和源氏隈部家代々物語」] {{先代次代|[[立花氏]]当主|1581年 - 1638年|[[立花ぎん千代|立花誾千代]]|[[立花忠茂]]}} {{棚倉藩主|立花氏||1603年 - 1620年}} {{柳河藩主|立花氏|初代|1620年 - 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