ベニート・ムッソリーニ
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-2007-1022-506, Italien, deutsche Frontkämpfer in Rom crop.jpg|300px|thumb|ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ]] '''ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ'''(Benito Amilcare Andrea Mussolini、[[1883年]][[7月29日]] - [[1945年]][[4月28日]])は、[[イタリア王国]]の政治家、第40代[[イタリアの首相|イタリア王国首相]]。イタリア社会党で活躍したのち追放され、[[ファシズム]]理論を独自に構築し、[[一党独裁制]]に基づいた統治を確立し実践した。 ==概要== [[ファシスト党]]の[[ドゥーチェ|ドーチェ (統帥)]]として[[ファシズム]]運動を展開し、[[ローマ進軍]]によって首相に任命され、ファシスト政権を樹立した。[[1925年]][[1月3日]]の議会演説で実質的に独裁体制を宣言した。12月24日には従来の[[イタリアの首相|閣僚評議会議長(首相)]]職より権限の強い「国家頭領」を創設して自ら初代統帥に就任、専制的な統治を行った。 1936年にエチオピア帝国征服により[[サヴォイア家]]が帝位を兼ねる様になると、統帥職に加えて「帝国の創設者」「ファシストの指導者」という肩書きが加えられた。議会の指導下にあった軍の掌握にも努め、国王・皇帝[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]との共同就任という形で[[統帥権]](第一元帥)を奪取した。 第二次世界大戦開戦前後から政権の弱体化が進み、連合軍によるシチリア占領を経て、[[1943年]][[7月25日]]のファシスト党内でのクーデターによって失脚。その後も、北イタリアを掌握したナチス・ドイツの支援によって[[イタリア社会共和国]]を建国し、国家統帥兼外務大臣として復権を果たすが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚し、[[1945年]][[4月25日]]に連合軍に援助された共産[[パルチザン (イタリア)|パルチザン]]に捕らえられ銃殺され、遺体はミラノの広場に吊るされた。 ムッソリーニは政治思想の一潮流であるファシズムの創始者という点において、政治理論家としても重要である。ムッソリーニは既存の様々な思想([[ナショナリズム]]、[[コーポラティズム]]、[[国家サンディカリスム]]、[[帝国主義]]、[[反共主義]])を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した。 政治家としての主な業績はまず政権初期の[[1924年]]から1939年まで行われた経済政策が挙げられる。この政策はラツィオ州の湿地帯の開拓に代表される[[公共投資]]や[[労働者]]保護、[[公共交通機関]]の統制など多岐に亘った。宗教政策では普仏戦争以来の[[教皇領]]問題に解決案を提示して、[[ラテラノ条約]]の締結による[[ローマ・カトリック]]との和解に成功した。対外政策では[[植民地]]、及び経済植民地への影響力強化を推進して海外市場の拡張に努めた。 零落の切っ掛けは第二次世界大戦に対する判断であった。当初、[[第一次世界大戦]]の様な[[塹壕戦]]による泥沼化を予想して、中立的な態度を維持していた。だが一ヶ月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した。 == 経歴== ===少年時代=== [[Image:Casa Natale Benito Mussolini.jpg|thumb|ムッソリーニの生家。現在は美術館。]] ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニは1883年7月29日、イタリアの[[フォルリ]]近郊の[[プレダッピオ]]という小村に、鍛冶屋アレッサンドロ・ムッソリーニと教師ローザ・マルトーニの長男として生まれた。父アレッサンドロは熱心な[[社会主義]]者で[[第二インターナショナル]]のメンバーであり、息子に[[メキシコ|メキシコ合衆国]]の初代[[大統領]]で[[独立]]の[[英雄]]の[[ベニート・フアレス]]にちなんで'''ベニート'''、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であった[[アミルカレ・チプリアニ]]にちなんで'''アミルカレ'''、[[ミハイル・バクーニン]]の腹心でもあり、後に[[イタリア社会党]]に参加する[[アンドレア・コスタ]]にちなみ'''アンドレア'''と名付けた。三人兄弟の長兄として二人の弟がおり、アルナルド・ムッソリーニとエドヴィージェ・ムッソリーニという名であったという。 父は[[社会主義]]と[[無政府主義]]と[[共和主義]]が入り混じった独特な思想を持っていた。幼い時は父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、[[第一インターナショナル]]にも参加していた[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]や[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]ら[[愛国主義]]的な共和主義に傾倒した。後にムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディ達を賞賛する発言を残している。 父は鍛冶屋を継がせるつもりだったが、母の意向から[[プレダッピオ]]にあった二年制の義務教育学校のあと、[[ファエンツァ]]にあるサレジオ会の寄宿学校に進学。この学校では、学費の大小によって生徒の待遇が異なり、ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、貴族や教会を憎んだという。学業成績は優秀だったものの、教師に石を投げつけ、喧嘩相手をナイフで刺し、ミサを妨害するなど暴力事件を引き起こす問題児であった。五年生の時に退学処分を受ける。 その後[[エミーリア街道]]沿いの小都市[[フォルリンポポリ]]にあった宗教色のない寄宿学校[[ジョズエ・カルドゥッチ]]学校に入学、義務教育を終了している。カルドゥッチはノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人で、この学校は彼の弟の[[ヴァルフレード・カルドゥッチ]]が校長であった。成績は優秀で、同じヴァルフレード・カルドゥッチが校長をしていたフォルリンポポリの[[師範学校]]へ進んだ。 === 青年時代 === [[1901年]]に[[師範学校]]を優等な成績で卒業、政府より教員免状を付与される。イタリア最大の川である[[ポー川]]のほとりにある[[グァルティエリ]]という町の小学校教師の職に就くが、狭い地方に閉じこもるのに嫌気が差して退職し、[[スイス]]に出る。スイスでは石切職人や[[左官屋]]として働いたが、一時は浮浪者にもなった。スイス時代の不安定な生活のなか、[[ジョルジュ・ソレル]]や[[シャルル・ペギー]]、[[ヴィルフレド・パレート]]、[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[エルネスト・ルナン]]、[[ギュスターヴ・ル・ボン]]らの思想を学び、政治への関心を高めていった。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」とまで賞賛している。 またスイスに亡命していた[[ウラジーミル・レーニン]]やレーニンの秘書[[アンジェリカ・バラバーノフ]]らと出会い、親交を深めた。レーニンから[[ドイツ語]]や[[フランス語]]を学んだ(のちにレーニンはベニートを「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と賞賛し、後年のムッソリーニもレーニンを「優れたオーケストラの指揮者」と高く評価した)。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった。[[1903年]]に起きた大規模な[[ゼネスト]]に参加してスイス警察にマークされ、[[1904年]]、[[ローザンヌ]]市滞在中に書類偽造の容疑で拘束、国外追放処分を受ける。 帰国後、イタリア軍の選抜部隊である狙撃隊(ベルサリェーリ)に入隊した。軍では当初、反体制派の人物として監視されていたが、間もなく模範兵として評価されるようになる。入隊間もない1905年2月17日に、母ローザは危篤状態となり、彼は急遽プレダッピオに戻ったが二日後の19日に亡くなった。兵役の間、ドイツ[[ロマン主義]]、[[ドイツ観念論]]、[[ベルグソン]]、[[スピノザ]]を研究。 1906年9月、除隊し、オーストリアとの国境に近い東北部の小さな町[[トルメッツォ]]で小学校に復職。フランス語検定試験に合格し、その結果、高等学校教諭の資格を獲得。 この頃、[[イタリア社会党]]に正式に入党。[[1908年]][[2月]]、[[ドイツ語]]を話せた事からオーストリア領[[トレント]]の党支部に派遣され、機関紙『労働者の未来』の編集に参加する。ドイツ文化への傾倒は深く、政治議題だけではなく近代ドイツ文学についての論文などを執筆。[[1910年]]にミラノ市の党本部に戻って『La Lotta di Classe(階級の闘争)』の編集に関わった後、[[1911年]] - [[1912年]]の[[伊土戦争|イタリア・トルコ戦争]]に対する帝国主義批判・反政府運動で頭角を現し、危険人物として逮捕され半年間、投獄される。その後も[[社会改良主義|改良主義]]者の排除が認められて、党中央の日刊紙『[[アヴァンティ]]!(前進!)』編集長となり、発行部数を2万部から10万部にまで伸ばした。この時期から既に地域の新聞などで「'''[[ドゥーチェ]]'''」(指導者)の渾名で呼ばれるなど、若手政治家の筆頭と見なされていた。 同じ時期に、「ベロー・エレティコ」(真実の異端者)の筆名でフス派の預言者[[ヤン・フス]]を「殉教者」とし、その遺志を継いだフス軍の十字軍への勝利を賞賛する伝記小説を発行、痛烈にカトリック教会を攻撃した。 [[ファイル:Benito Mussolini 1917.jpg|thumb|right|200px|第一次世界大戦に従軍した当時のムッソリーニ]] ムッソリーニは「我々共通の永遠の教師」として[[カール・マルクス]]の思想に心酔しており、「危機の時代にあっては、中間的諸階級はその利益と思想にもとづいて、基本的階級のどちらか一方に引きつけられる」([[1914年]])と[[階級闘争]]を肯定する主張をしていた。だが戦争を機にムッソリーニの階級論は「階級の破壊」から「民族的な団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」と考えるようになり、民族主義的な社会主義へとその思想が変化し始める。 === 第一次世界大戦 === ムッソリーニは戦争がイタリア人の民族意識を高めると考え、[[第一次世界大戦]]が勃発すると当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて当時の[[社会帝国主義]]者、[[社会愛国主義]]者と軌を一にして戦争への参戦を強く主張するようになった。その流れでイタリアへの参戦工作を行っていた[[フランス]]・[[イギリス]]政府の資金援助を受け、独自に日刊紙『ポポロ=ディタリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した。社会党は除名処分を行う。ムッソリーニを除名した社会党に対しレーニンは「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と呟いたという。 ムッソリーニは除名後も、自身の基本的な政治的立場は[[左翼]]であるという立場を維持し、「革命的参戦運動ファッショ」「国際主義参戦ファッショ」という名を冠した組織で参戦運動を展開(ファッショという言葉は社会主義者時代にも団結の意味で使っていた)。これが戦後の「戦闘者ファッショ」の土台となる。イタリアが秘密協定によって参戦を宣言すると、ムッソリーニも他の参戦論者達の例に習い志願兵として従軍、みずから望んで最前線に配属され、勇敢な戦いぶりで軍曹にまで昇進したが、手榴弾の爆発に巻き込まれ重傷を負い、戦場を離れた。 === 国家ファシスタ党の形成とローマ進軍 === [[ファイル:March on rome 1.png|200px|right|thumb|進軍するファシスト党員]] 大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱き、[[イギリス]]から権力掌握のための財政支援を受け、復員軍人や旧参戦論者を結集し、[[1919年]][[3月23日]]、[[ミラノ]]で「戦闘者ファッショ」を組織し社会党や共産党と対立し武力をともなった衝突を繰り返した。[[1920年]]9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは「[[黒シャツ隊]]」と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし、1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模となり出馬。35議席を獲得した。 [[1921年]]11月の[[ローマ]]大会で[[国家ファシスタ党]]にファッショを改組して統領に就任。[[1922年]]10月27日夜にはファシスト武装隊によるクーデター(''[[ローマ進軍]]''')を実行。政府は翌28日朝、[[戒厳令]]の布告を決定、[[ルイージ・ファクタ]]首相は国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]の署名を求めたが、国王は署名を拒否し、翌29日、国王はムッソリーニに組閣を命じた。国民からの高い支持を配慮しての決断だった。以後イタリア王国は[[1943年]]までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。[[スペイン]]では失敗した「ファシストによる[[立憲君主制]]維持」は、イタリアでは成功したのである。翌年、アドルフ・ヒトラーがこれを参考にして[[ミュンヘン一揆]]を起こす。 == 独裁体制 == [[ファイル:1923mussolini.jpg|thumb|right|200px|1923年]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-09041, Rom, Italienisches Parlament.jpg|thumb|right|200px|国会におけるムッソリーニ(1930年)]] [[File:Benito Mussolini mugshot 1903.jpg|thumb|200px|ムッソリーニの[[マグショット]](1903年撮影)]] [[1923年]]の選挙法改正で、「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得」したファシスト党は大規模な議席を獲得した。しかし急速に膨張したファシスト党内部に軋轢が生まれ、大規模な党員追放と指導部改組を行った。[[1924年]]6月には反ファシストの急先鋒であった[[ジャコモ・マッテオッティ]]が暗殺され、党の地方組織や[[イタリア共産党]]などから党の指導体制やムッソリーニに対する批判が集まり、政権の危機が生まれた。しかしこの最中でもムッソリーニ個人の権威は党内で揺らぐことはなく、[[1925年]]にはこの危機を乗り越え、[[労働組合]]の解散・言論出版取締令を制定。[[1926年]]にムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため首相の暗殺には未遂でも死刑を適用するようになった。[[1927年]]には控訴が認められない国家保護特別裁判所を設置し政敵、特に共産党を弾圧した。こうして独裁政治の基礎が固められ、[[1928年]]9月、大評議会が国家の最高機関として認められ、権力がムッソリーニに集中。独裁体制が完成した。 === 個人崇拝 === 当時のジャーナリストは「女学生たちは、映画スターのように彼にあこがれてしまい、彼の言葉はすべての人が読めるように、村の壁に大きく書かれた。・・・1932年、軍事演習のとき、とおくの緑の丘や、樹木や、教会の尖塔などに取り囲まれた、黄色い株のある広い田野を彼は歩いていた。農夫たちは、上気し、息せき切って四方から集まってきた。ムソリーニを見、彼の身体に触り、声をかけるためにである。・・・彼の秘書の一人が革の財布をもって後ろに従っていた。カードを配る賭博師のような手つきで札束を配っていた。見る見るうちに彼の後ろには、狂喜した数千人の人たちの行列ができた。しかし、彼のいつものような無表情なかたい顔には、何の動きも見せなかった。・・・・町の広場に集まって、彼の演説を聞いている群衆を見た人は、その光景を決して忘れることはないだろう。モザイク細工の部品のように、ぎっしりと頭が並び、すべての目は一つの焦点、すなわち、彼が演説しているバルコニー、スタンドに向けられているのだ。それは、何か不気味なぞっとするような光景であった。」と書き残しており、国内の人気の程が窺われる。 イギリスやアメリカなどの[[民主主義]]国家でも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、1920年代前半のアメリカの新聞でも好意的に報道された。辛口な論評で知られた[[ウィンストン・チャーチル]]も「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。詩人の[[エズラ・パウンド]]もムッソリーニに心酔した一人である。一方で新聞記者でもあった[[アーネスト・ヘミングウェイ]]は政権奪取間もない頃からムッソリーニを批判していた。 === 経済政策 === 初期にはアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、民間企業を国有化することなく、一時過剰であった[[ストライキ]]が衰退し、景気は回復し失業者も減少し、生産力も増した(但し、[[インフレーション]]が同時にあった)。治安も改善して、特に[[マフィア]]をはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、その殆どが壊滅状態に追い込まれたために犯罪件数は減少した。 しかし、[[1929年]]の[[世界恐慌]]の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、[[第二次世界大戦]]が開戦する1939年までイタリアは[[ソビエト連邦]]の次に国有企業が最も多い国となった。ドイツに比べイタリアは軍事費より公共事業費が多かった。 === 軍事政策 === [[Image:ムッソリーニとファシスト党本部.jpg|350px|thumb|[[ムッソリーニ]]と[[ファシスト党]]の本部(1934年)]] ムッソリーニはパリ講和会議によって傷つけられたイタリアの威信回復には実力が不可欠であると考えており、バルカン諸国やトルコを牽制するための軍備充実と、就任後まもなくから[[ドデカネス諸島]]への遣艦計画や[[コルフ島事件]]に見られるような積極政策をとったが、この方針はイタリア軍幹部と大きく相違していなかった。軍備の拡張が大いに進められ、[[空中艦隊構想]]や新型[[戦艦]]や[[空母]]の建造など海軍力の強化、著しく旧式化していた[[陸軍]]装備を更新した。当時のイタリア王国軍は[[第一次世界大戦]]で勇敢に戦う兵士に対して、骨董品じみた装備や乏しい弾薬物資で戦闘に従事させねばならなかった苦い経験があり、ムッソリーニ自身も従軍経験からその事を深く理解していた。 イタリアの軍備は増強が図られたが、そもそもイタリアの装備や物資の不足は工業力の脆弱さを遠因としており(第二次世界大戦後までイタリアは[[農業国]]であった。工業の[[北部]]と農業の[[南部]]という概念は戦後復興後の事である)、経済政策に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。また経済面で頓挫したムッソリーニは民衆の歓心を買うために乱暴な対外政策を進めたが、これはイタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵対してしまうという致命的な結果を齎した。 経済・資源・工業力と全ての面で行き詰ったムッソリーニの軍備増強は名前だけのものと化し、軍需大臣ファブグロッサは「早くとも1949年まで大規模な戦争は不可能である」とムッソリーニに通告しており、軍部の上層部も殆どがこの意見に同意していた。しかし当時のムッソリーニに戦争以外の選択肢を取る政治的余裕は無く、結局開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を挙げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上が定員割れを起こした状態で戦地へ向かった。 [[イタリア軍]]は装備の旧式化や兵員・物資の不足に加え、人材面でも将軍・参謀の大部分が[[第一次世界大戦]]の戦訓を奉じる「古典主義者」と質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で示された。[[北アフリカ戦線|エジプト侵攻]]や[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャ侵攻]]では圧倒的多数の兵力にもかかわらずイギリス軍や[[ギリシャ軍]]に撃退され、ドイツが増援部隊を派遣している。その一方で、件のアフリカ戦線を始めとする各地で戦果を挙げた部隊も存在し、またRSI軍は士気旺盛に戦いドイツ軍から信頼を得ていた。 === ヒトラーとの関係 === 当初[[アドルフ・ヒトラー]]はムッソリーニを尊敬していたが、ムッソリーニは学識や政治経験の差、および外交路線の利害からヒトラーを嫌っていた。1934年6月にヒトラーとの初会談が行われたが、「血の巡りが悪い男だ」「あんな奴は嫌いだ」と述懐している。[[1934年]][[7月25日]]の[[エンゲルベルト・ドルフース|ドルフース]]首相暗殺事件を契機とするドイツの[[オーストリア]]併合危機の高まりに対して、ムッソリーニは友人であったドルフースの暗殺に激怒、[[ブレンナー峠]]に王国軍を展開して併合に反対意志を示している。 その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となった。しかしイタリアの敗勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になり、1943年の失脚後は完全に格下の扱いとなった。 === 宗教政策 === [[1870年]]のイタリア王国成立後、イタリア政府と[[ローマ教皇庁]]の関係は断絶していたが、長く続いた緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙ったムッソリーニは、[[1926年]]にバチカンに歩み寄る姿勢を示した。これを受けてバチカンはイタリア政府との交渉を開始、3年の交渉を経て[[1929年]]に「[[ラテラノ条約]]」と呼ばれる政教条約が結ばれた。 ラテラノ条約によって、教皇庁のあるバチカン一帯が「[[バチカン市国]]」としてイタリア政府から政治的に独立した区域となることが認められた。イタリア政府はローマ教皇庁に対し、対外的に永世中立であることとイタリア国内の政党間の争いにおいて特定の政党に与しないことを求めたほか、[[1870年]]の教皇領の没収への補償として教皇庁への資金調達を行い、教皇庁はこれを承諾し、長きに渡る両者の関係はここに修復に至った。 北アフリカなどでのイスラム教勢力に対しては常に友好的に接して、ファシスト党がイスラム教の庇護者であると宣伝した。 === 人種政策 === [[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1969-065-24, Münchener Abkommen, Ankunft Mussolini.jpg|right|thumb|200px|ヒトラーと共に]] [[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R99301, Münchener Abkommen, Chamberlain, Mussolini, Ciano.jpg|right|thumb|200px|[[ミュンヘン会談]]においてイギリスの[[ネヴィル・チェンバレン]]首相と談笑するムッソリーニ]] [[File:Bundesarchiv Bild 183-2007-0404-500, Münchener Abkommen, Ankunft Mussolini.jpg|right|thumb|200px|列車から降りるムッソリーニを迎えるヒトラー]] ドルフースの暗殺以降、ムッソリーニはファシズムとナチズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人種政策(特に[[ノルディック・イデオロギー]]と[[アーリアン学説]])の多くを拒絶し、[[反ユダヤ主義]]からも距離を取り始めた。ムッソリーニは人種主義を少なくともヒトラーよりは遥かに敬遠した。彼は[[人種主義]]よりも[[民族主義]]に重きを置き、[[民族浄化]]([[イタリア化]])による植民地や新規領土の同化を推進した。 こうした態度はナチスとの論争に発展、ナチスは文化的統合を重視するイタリア・ファシズムは生物学的な純化を棄却しており、「白人(アーリア人種)の雑種化」に貢献していると批判した。対してファシスト党は(ヒトラー自身も認めるように)ナチスが蔑視するところの「スラブ」との境目に位置し、またイタリアと同様に統一が遅れたドイツにどれだけの「純粋な血統」があるのかと批判した。ムッソリーニ自身も「アーリア人種について」という1934年の演説でヒトラーを辛辣に批判している。 {{quotation|''彼らの言う人種はどこにいる?[[アーリア人]]とやらがどこにいる?それは何時から存在した?そもそも存在するのか?空論、神話、あるいはただの詐欺か?…我々は既に答えを知っている。「そんな人種は存在しない」と。様々な運動、物珍しさ、麻痺した知性…。我々は繰り返すだろう。「そんな人種は存在しない」と。''<BR><BR>''ただ一人、ヒトラーを除いては。''|Benito Mussolini, 1934.}} アーリア人理論に対する批判で知られる[[エーミール・ルートヴィヒ]]が人種についての私論を尋ねた時、ムッソリーニはこう述べている。 {{quotation|''「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。…大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家の殆どは[[ドイツ人]]ではないのですよ。ゴビノーとラプージュは[[フランス人]]、チェンバレンは[[イギリス人]]、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。'|Benito Mussolini, 1933.}} 1934年に[[バーリ]]で行われた党大会でもムッソリーニは改めて[[北方人種]]理論に対するスタンスを公表している。 {{quotation|''30世紀にもわたるヨーロッパの歴史は、アウグストゥスに後援されたヴェルギリウスが素晴らしい文学を紡ぐ間、山奥で火を焚いていた人間の末裔が述べる戯言を冷笑する権利を諸君に与えている''|20px|20px|Benito Mussolini, 1934.}} ファシスト政権は人種主義政策をある程度は進めつつも、ユダヤ人コミュニティーに対する迫害を公式に禁じている。ムッソリーニは「彼らはローマの頃からそこに居る」として、イタリア系ユダヤ人がイタリア社会にとって不可分であると述べている。なおファシスト党の幹部にもユダヤ系イタリア人が多数いた。 だが1938年以降から国際的に孤立したイタリアとドイツが接近すると、ニュルンベルク法を参考にした「人種法」が制定。[[ゲットー]]の復活や市民権の制限などを含めた同法であったが、ファシスト党員の間でも大変に不評であった。ローマ教会からも批判が行われるが、新たに発見されたムッソリーニの愛人であるクラレッタ・ペタッチが綴った1932年から1938年までの日記には、ユダヤ人を保護するローマ教皇を『卑しい人種を守る連中』と批判し、ユダヤ人についても『不快なユダヤ人を皆潰すべきだ。孤立させ閉じ込める』と、ムッソリーニの反ユダヤ的な発言を記録している。この日記では、『私は1921年から人種主義者だ。(人々が)ヒトラーのまねをしたと思うのか分からない』と、ペタッチを前に人種政策も自分の発案であると述べている。しかし、ナチス党のようにユダヤ人に関する「[[陰謀論]]」を信じていなかったことや、イタリアにおける反ユダヤ的感情の弱さや、イタリアの国民性を反映したのか、当時のドイツに比べればその差別はずいぶん緩いものであった。ただし、イタリア社会共和国時代にはイタリア当局もユダヤ人の収容所への連行に協力している。 大戦後期の[[1943年]][[12月]]、ムッソリーニは[[イタリア社会共和国]]でのユダヤ政策について話した際、古参党員のブルーノ・サパムタナトに「私は[[ローゼンベルク]]と同じではない。あの法律は拙い判断だ」と人種法が不本意であった告解している。 [[黒色人種]]に関しては「アフリカから報告を受ける度に不快だ。今日も黒人と同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい植民者が7年もしないうちに帝国を潰す」「混血を生まず、美を損なわないようイタリア人にも人種意識が必要だ」と愛人に語り、差別意識をより露骨に見せている。 また、ムッソリーニは在伊日本人の[[下位春吉]]と親交があり、親日派としても知られるが(下記参照)、1937年10月には、[[中華民国]]の駐イタリア大使との会談内容に触れて「なぜイタリアは中華民国を支援しないのかと聞かれたが、単に仏英と同じ立場になれないからだ」「もし仏英が日本側につくなら、我々は中国につく」「[[中国人]]は頭がいい。だが日本人はとてつもない。猿みたいに何でもまねをする。彼らはすごい。すぐに学習する」と愛人に語り、人種差別的な感覚をもっていた。 ==日本との関係== ムッソリーニと特に交友があったことで知られる日本人に[[下位春吉]]がいる。下位はナポリ国立東洋学院大学日本語教授で、第一次世界大戦時にイタリア軍に志願入隊し、アルディーティ(決死隊)の一員として戦役をはたし、[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]と知己を得た。1919年9月の[[リエカ|フィウーメ]]占領にも参加し、ダンヌンツィオの密使としてムッソリーニとの連絡役を務め、ムッソリーニの信頼を得たといわれる1926年、下位は日本に帰国し、ムッソリーニに関する著作を多く出版した。その後も下位は幾度も訪伊してムッソリーニらと情報を交換しており、1927年には下位が監督した記録映画「[[ムッソリーニ (記録映画)|ムッソリーニ]]」が公開されている。 [[1928年]]には[[沢田謙]]が日本における最初のムッソリーニ伝記「ムッソリニ伝」を著し、日本でも次第にムッソリーニに対する興味が高まった。この年には[[小山内薫]]が脚本の「ムツソリニ」や[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇]]等、ムッソリーニを主題とした演劇が複数上演された。また同年[[白虎隊]]の話に感銘を受けたムッソリーニが、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱を[[会津若松]]の[[飯盛山_(福島県)|飯盛山]]に寄贈している。 1931年に[[国粋大衆党]]を結成した[[笹川良一]]はムッソリーニの崇拝者であり、ファシスト党に似せて党員に黒シャツを着せていたほどであった。[[1939年]]には笹川は、飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。なおこの訪欧については[[山本五十六]]の後援があったという。 1936年に締結されていた日独防共協定に、1937年11月にはイタリアも加入し、[[日独伊防共協定]]を締結する。1940年には[[日独伊三国軍事同盟]]が締結される。1940年(昭和15年)には「ムッソリーニペン」という万年筆が発売されるほどであった。この同盟を元に、[[1941年]]12月にイギリスやアメリカとの間に開戦した日本を追ってアメリカに宣戦布告し、その後日本が占領下に置いた[[ペナン]]にイタリア海軍の[[潜水艦]]「[[グリエルモ・マルコーニ級潜水艦|ルイージ・トレッリ]]」を送り、イギリスに対する[[通商破壊戦]]に[[大日本帝国海軍]]の潜水艦とともに従事させた。 == 第二次世界大戦参戦と失脚 == [[西方電撃戦|ドイツによる侵攻]]を受けた[[フランス]]の敗北が決定的になった[[1940年]][[6月10日]]、イタリアは[[イギリス]]、フランスと開戦、同年[[9月27日]]に[[日独伊三国同盟]]を調印してドイツ・日本との密接な関係を確認した。その後の[[1941年]]12月には日本と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が戦争状態に入ったことを受けてアメリカにも宣戦布告するなど、日本・ドイツと並ぶ[[枢軸国]]の一国として本格的に参戦した。 [[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1987-121-09A, Russland, Hitler, Mussolin, von Rundstedt.jpg|right|thumb|200px|ドイツ軍の[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]][[元帥]]とヒトラーと共に(1941年)]] 戦いは地理的な要因から概ねイギリスとその衛星国及び植民地を相手にしたものであったが、工業力に乏しい[[イタリア王国]]の軍勢は装備や物資面でイギリス軍に大きく差を付けられていた。 陸軍は三十七個師団だが、小銃は一八九一年製、弾薬一ヵ月分、軽装甲車三トン半。空軍はよく整備されていて七〇〇機。海軍はまずまず。 資源備蓄は鉄鋼二週間分、鉄鉱石六ヶ月分、ニッケル二十日分などで、爆弾も不発弾が混じり、軍靴も数キロ歩くと穴があくというお粗末さだった。当時[[イタリア海軍]]は世界第4位の戦艦数を誇っていたが、石油などの燃料を英米に依存していたため、[[1943年]]には燃料が枯渇して大型軍艦の行動がほぼ不可能となってしまい、満足な作戦が行えなくなった。 [[ソマリランド]]の占領や遣露部隊の活躍など部分的な成果はあったものの、イギリス領[[ケニア]]、英・エジプト共同領[[スーダン]]ヘの侵攻、[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャへの侵攻]]などは不調に終わった。またドイツの要請に応じて行ったエジプト遠征もイギリス軍に敗北した。日増しに拡大する戦局を前にイタリアは他の枢軸国同様、ドイツへの従属を深めていく。 振るわない戦局はムッソリーニの威信を失わせ、1943年7月に行われた連合国軍の[[ハスキー作戦|シチリア上陸]]を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、王室や軍部、そして党の一部がムッソリーニ解任へ動き始めた。ドイツとの同盟に反対したムッソリーニの娘婿のチャーノ外相、ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する古参ファシストで元駐英[[大使]]の[[ディーノ・グランディ]][[伯爵]]<ref>ムッソリーニと血縁関係にある。王党派でもある</ref>らはムッソリーニの責任を追及し、独裁権と統帥権を国王に返還する動議を提出した。[[7月24日]]に開催された[[ファシズム大評議会]]は、グランディの動議を可決した。[[7月25日]]には国王に解任を告げられ、王宮を出た直後に逮捕された。 ムッソリーニの後任として、[[ピエトロ・バドリオ]]元帥が首班を務めることとなった。新政府と連合国との休戦交渉の末、[[1943年]][[9月8日]]に連合国と単独休戦したが、まもなくイタリアの北半分はドイツ軍によって占領された。 ===グラン・サッソ襲撃とイタリア社会共和国=== [[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-567-1503C-14, Gran Sasso, Mussolini vor Hotel.jpg|right|thumb|200px|救出されたムッソリーニ]] その後、[[アペニン山脈]]の「[[グラン・サッソ]]ホテル」に幽閉されていたムッソリーニは、9月12日に[[親衛隊 (ナチス)|ナチス親衛隊]]の[[オットー・スコルツェニー]][[中佐]]に救出されローマへと連れ出され、その後[[ヴォルフスシャンツェ]]でヒトラーと落ち合う。 なお、失脚前にソ連との単独講和交渉を行ったものの失敗に終わったことや、[[胃潰瘍]]による体調不良に悩んでおり意気消沈していたムッソリーニは、このまま政界からの引退を望んだが、ドイツが支配下に置いた北イタリア地域においてムッソリーニの利用価値があると感じていたヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得した。 ドイツの支援を受けてムッソリーニは北イタリアに[[イタリア社会共和国]]('''RSI''')の樹立を宣言し、その首班に就任した。RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下でドイツ軍と共に[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍に対して勇敢に戦ったが、政府そのものは事実上ドイツの[[傀儡政権]]であり、大病を患い消沈していたムッソリーニもドイツ軍の徹底的な監視下に置かれるなど昔日の勢いはなかった。内政面ではかなり社会主義的な政策を推し進めた。 RSI軍とドイツ軍によるイタリアでの戦いが終焉すると、勝者となったパルチザンが次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始め、ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦めた。かつては同盟関係にあった日本からも内密に亡命の打診があったがこれを丁重に断っている。ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答したという<ref>中公叢書「ムッソリーニ 一イタリア人の物語」(ロマノ・ヴルピッタ著)</ref>。 ===最期の時=== [[File:Cross mezzegra.jpg|thumb|処刑地点]] [[File:Predappio_tomba.jpg|thumb|300px|ブレダッピオの記念碑]] ムッソリーニはスイスに向かい、そこから中立国でヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされている。既にスペインへは家族と子供達は亡命させていた事もこれを裏付けている。しかし車両は移動途中の[[コモ湖]]付近で第52ガリバルディ旅団のパルチザン部隊に捕捉され、旅団の政治委員[[:en:Urbano Lazzaro|ウルバーノ・ラザッロ]]が身分証明を求めて車列に近付いた。同乗していたローマ教皇庁高官の子女[[クラレッタ・ペタッチ]]とその兄マルチェッロ・ペタッチはスペイン外務省の在伊領事と身分を偽ったが、程なくムッソリーニが搭乗している事が発覚した。一行は旅団指導部による指示を仰ぐ為に[[メッツェグラ]]市へ護送され、途中でマルチェッロが脱出を図ったとして射殺されている。メッツェグラ市でムッソリーニはディ・マリアという人物の民家に幽閉され、裁きを待つ事になった。 ガリバルディ旅団の指導部は予想外の出来事に動揺しつつも、他に拘束していたファシスト政権の要人達と合わせて一挙に略式裁判で葬るという決断を下した。最初から法の裁きを受けさせる気がなかったという点で、これは不法な[[人民裁判]]であった。翌日、ムッソリーニを初めとした15名の政府要人が[[ギウリーノ・デ・メッツェグラ]]という市街地の郊外に移動させられ、そこで全員が射殺される事になっていた。熱烈な共産主義者として[[祖国自由解放議会]]から処刑の責任者に選ばれた[[ウォルター・オーディジォ]]は幽閉されているムッソリーニとクラレッタを輸送車両に乗せて処刑場に向かった。 ギウリーノの広場に用意された処刑場で彼らを並ばせると、ムッソリーニから離れようとしなかったクラレッタにまず銃撃が浴びせられた。ムッソリーニはクラレッタが倒れると自らの胸元を示して「心臓を撃て」と語り、オーディジォは胸を撃ち抜いた。しかしムッソリーニは荒い息になりながらもこれを堪え、オーディジォが更に銃弾を胸に撃つと遂に倒れた。他の要人達は二人の処刑が終わった後、日が暮れるまでに全員が処刑された。 ====処刑後==== 1945年4月29日、ガリバルディ旅団はムッソリーニの生存説を払拭する事も含め、その死を公布する為に遺体をトラックで辺境であるメッツェグラ市から主要都市の一つである[[ミラノ]]市へと移送した。午前3時、ミラノに到着した輸送部隊は衣服を着けたままの要人達の遺体をロレート広場に投げ出して晒し者とした。この歴史的事件の舞台となった広場は現在パルチザンの英雄行為を讃える名前に改称されている。広場に集まっていたパルチザンは十数体の遺体に罵声を投げかけ、銃撃を浴びせたという。 やがて遺体は広場の屋根にロープで吊り下げられたが、これはファシスト政権が政治犯に行っていた街頭での絞首刑に対する意趣返しの意味合いがあった。パルチザンに捉えられていたあるファシスト党員は、かつてムッソリーニを神の如き存在と賞賛した事を論われ、逆さ吊りになったムッソリーニの遺体を指し示されながら死刑を宣告された。しかし彼はむしろ射殺される直前に遺体へ敬礼し、激高したパルチザンはその遺体も広場に吊るした。 群集が散会した後、広場に下ろされたムッソリーニの遺体はミラノ郊外の墓地に埋葬されたが、墓には支持者による利用を防ぐ為に無名の石碑が設置された。だが戦後に遺体は[[ネオファシスト]]によって密かに掘り起こされ、別の土地へと持ち出された。実行犯と思われる数名が拘束されているが、彼らが真犯人かどうかは議論が続いている。最終的に右派系の政治団体によって正式な墓を作るべきだとする運動が起こされ、遺体は生家のブレダッピオに記念碑を作りそこへ改葬された。現在でも記念碑はファシズムやその系譜にある政治思想を支持する人々、及びムッソリーニを好意的に評価する人々による献花が絶えないことで知られている。 ==略年表== *1883年:イタリア王国の[[エミリア=ロマーニャ州|ロマーニャ地方]]の小村[[プレダッピオ]]で鍛冶職人アレッサンドロ・ムッソリーニの長男として生まれる。 *1901年:[[エミリア=ロマーニャ州|エミリア地方]]の[[フォルリンポポリ]]へ移住。同地の[[師範学校]]で学び、教員免状を取得。またイタリア社会党の党員となる。 *1902年:[[グァルティエリ]]の小学校教師として奉職するが、同年の間に教師を辞めて隣国[[スイス]]を旅する。亡命中の[[レーニン]]と知り合い、知遇を得る。 *1903年:スイスのイタリア語圏で大規模なゼネストを指導。スイス政府から監視対象とされる。 *1904年:ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束、国外追放処分を受ける。 *1905年:二年間の兵役義務(~1906年) *1906年:兵役を終える。トルメッツォに移住、同地で教師に復職する。 *1908年:イタリア社会党トレント党支部に配属、オーストリアのイタリア語圏で政治運動を行う。党支部の機関紙『労働者の未来』の編集に参加。 *1911年:[[伊土戦争]]での反戦運動により政府に拘束され、半年間の懲役刑を受ける。若手政治家の筆頭として注目を集める。 *1912年:政治運動に復帰。党内抗争で改良主義者の粛清に辣腕を揮った事が評価され、日刊紙『アヴァンティ(前進)』の編集長に抜擢。 *1914年 **国際主義路線を放棄。民族主義と社会主義を結合をした独自の政治理論を着想する([[ファシズム]])。 **第一次世界大戦への参戦を支持し、英国の資金援助を受けて日刊紙『ポポロ・ディタリア』を創刊。反党行為としてイタリア社会党から除名される。 *1915年:イタリア参戦に伴い、陸軍に志願入隊。 *1917年:手榴弾による負傷で後遺症を負い、名誉退役を勧告される。最終階級は軍曹。 *1919年:自らの政治理論を実行に移すべく、退役兵からなる政治団体『[[戦闘者ファッショ]]』を結成。反政府集会の妨害などを行う。 *1921年:議会選挙に出馬、35議席を獲得して政界入りを果たす。『戦闘者ファッショ』を正式に政党として再編して『[[ファシスト党]]』を結成。 *1922年:ファシスト党によるクーデターを決行([[ローマ進軍]])。国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]の支持を得て自由党政権を転覆させ、臨時政権を樹立する。 *1923年:選挙法改正案が可決、得票率25%以下の小規模政党を強制的に解散させる。改正後の選挙では解散政党の支持票を吸い上げ、議席過半数を確保。 *1927年:国家保護特別裁判所を設置。政府に治安権限を集中させる。 *1928年:王国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関「ファシズム大評議会」に立法権限を移動、独裁体制を確立する。 *1929年:[[ラテラノ条約]]可決。[[バチカン市国]]建国と引き換えに教会から独裁支持を取り付ける。 *1935年:[[第二次エチオピア戦争]]勃発。 *1936年:[[エチオピア帝国]]併合。[[エリトリア]]と合わせて[[イタリア領東アフリカ]]を形成する。同年には[[フランコ政権]]を支持して[[スペイン内戦]]にも介入。 *1939年:[[イタリアのアルバニア侵攻|アルバニア戦争]]勃発。アルバニア王国併合。ドイツのナチス政権と独伊軍事同盟を締結、同年に第二次世界大戦勃発。 *1940年: **フランス降伏に伴いマントン市を併合、更に[[イタリア南仏進駐領域]]を形成。 **ドイツの要請で[[イタリアのエジプト侵攻|エジプト侵攻]]を開始し、エジプト西部に進出。 **平行して[[ギリシャ・イタリア戦争|ギリシャ遠征]]、ソマリランド遠征なども計画される。 *1941年:物資と工業力に勝るイギリス軍に敗北、[[イタリアのエジプト侵攻|エジプト侵攻]]が頓挫する。他の戦域でも不調が続き、次第にドイツに従属する立場となる。 *1943年:米英軍がシチリア島を占領するとクーデターが発生、国王と側近達に軟禁される。ヒトラーにより救出され、イタリア北部にイタリア社会共和国を建国する。 *1945年:家族を亡命させていたスペインへ出国を試みる途中にガルバルディ自由旅団に拘束、銃殺される。 ==人物像== ===私生活=== 元々が師範学校出身の[[知識人]]であり、教師としての教育を受けている事もあって大変な勉強家であった。本領である政治学では様々な思想に関する博学な知識を持ち、ジョルジュ・ソレルの[[修正マルクス主義]]に深い理解を示して新たな思想である[[ファシズム]]を体系化した。他に[[哲学]]にも通じて[[ブランキ]]から[[シュティルナー]]まで多くの理論を学び、また芸術面では近代ドイツ文学に傾倒していた。加えてドイツ語・フランス語(後者は政府から正式な資格を取得している)に堪能という教養人であった。また演説家としても非常に有能で、感情が高ぶるほど激烈な弁が冴えたヒトラーとは対照的にさわやかな演説をする人物として知られた。 若い頃からスポーツを得意としており、毎朝起きたら[[体操]]をやり[[ジュース]]を飲み、最後に[[乗馬]]に興じてから[[シャワー]]を浴びて朝食をとるのが日課であった。朝食では[[パン]]の他に[[果物]]が用意してあり(本人も果物が健康の秘訣だと言っている)、[[魚]]はたまに食べるが[[肉]]は殆ど食べなかったという。[[モータースポーツ]]を愛好し、国威発揚のためにイタリアの自動車メーカーを国際レースの場に出ることを推奨した他「[[ミッレミリア]]」などの国内におけるレースへの支援も欠かさなかった。ちなみに自身の愛車は[[アルファ・ロメオ]]社のスパイダー・コルサであった。 ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で他人を信用せず、友人も作らず常に孤独であったと言われている。 ===家族=== 当初、[[トレント]]滞在時代に同地出身であった[[:en:Ida Dalser|イーダ ・ダルセル]]と結婚、長男アルビーノ・ムッソリーニを儲けているが後に離別した。1915年12月に[[ラケーレ・グイーディ]]と再婚して[[エッダ・ムッソリーニ|エッダ]]、[[ヴィットーリオ・ムッソリーニ|ヴィットーリオ]]、[[:en:Bruno Mussolini|ブルーノ]]、[[ロマーノ・ムッソリーニ|ロマーノ]]、アンナの三男二女を新たに儲けたが、最初の妻と子については政権獲得後に経歴として隠蔽された。しばしば愛人との関係も噂され、ユダヤ系イタリア人の新聞記者[[マルゲリータ・サルファッティ]]、最後を共にしたローマ教皇庁高官の子女[[クラーラ・ペタッチ|クラレッタ・ペタッチ]]などが一般に知られている。政権期を通じて私腹を肥やすことに興味を持たなかったムッソリーニは、死後に殆ど資産を残さなかったために、遺族は[[年金]]以外の収入はなかったと言われている。 前妻イーダは海軍軍人となっていた長男アルビーノの認知を求めたが、独裁政権下のスキャンダルを嫌ったムッソリーニは養育費は払いつつも最後までこれを認めなかった。後に両者は政府の監視下に置かれて行動の自由を奪われ、大戦中に病死した。次男ヴィットーリオは士官学校を経て空軍大尉へ昇進したが、弟よりも素質に欠けていた為に途中で映画製作に転じた。戦後にアルゼンチンの別荘へ逃れ、81歳で病死するまで隠居生活を送った。三男ブルーノは有望な空軍士官として名声を集めて、23歳の時に[[P.108 (航空機)|P.108]]大型爆撃機のテストパイロットに選抜されたが試験操縦中に事故死した。四男ロマーノはピアニストとして教育を受け、政治活動には一切関わらず音楽家として生涯を過ごした。ロマーノの次女でベニートの孫娘にあたる[[アレッサンドラ・ムッソリーニ]]は政治家として国会議員を務めている。 長女エッダは父の腹心であったガレアッツォ・チャーノ伯爵と結婚して体制固めに貢献したが、RSI時代に夫が投獄されると父と絶縁した。ドイツ[[国家保安本部]]長官[[エルンスト・カルテンブルンナー]]と連絡を取って夫を救おうとしたが叶わず、夫の処刑後はスイス亡命を経て戦後イタリアに戻り、85歳で病没した。次女アンナは戦後に一般男性と結婚し、1968年に39歳で亡くなっている。 ===信仰=== ====無神論者・反教会主義者==== ムッソリーニは敬虔なカトリック教徒の母ローザと、反対に根っからの[[無神論]]者である父アレッサンドロとの板挟みの中で幼少期を過ごした。ローザは他の子供達と同じくムッソリーニに洗礼を受けさせて毎週日曜日には教会のミサに連れて行った。対照的にアレッサンドロは決してミサには参加しなかった。ムッソリーニ自身は先述の通り、カトリック系の寄宿学校での強圧的で階級的な教育制度に激しい嫌悪を感じて、「朝起きると必ずミサへと連れて行かれる」と述懐している。 青年期を迎えたムッソリーニは父と同じ反教会主義者・無神論者・唯物論者として自覚した行動を行い、宗教に寛容な社会主義者を批判して洗礼拒否運動を展開した。当時のムッソリーニは「神など居るわけもなく、キリストはただの馬鹿で精神異常者であった事は明らかだ」とキリスト教を侮蔑していた。彼は宗教を信じる人間が頼るべきは教会ではなく精神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだと罵倒した。彼は無神論を最初期に説いたニーチェを尊敬し、彼の理論がキリスト教の欺瞞を明らかにしていると考えた。また信仰心に対する代替物として提案された[[超人]]思想についても肯定的であった。 政治家に転身した後も反教会主義はムッソリーニの重要な政治的目標の一つであり続け、痛烈な教会批判を繰り返した。彼は社会主義とキリスト教の合同は絶対に避けられるべきで、無神論者ではない社会主義者は政界から追放すべきとまで主張した。 ====ヴァチカンとの関係==== だがキリスト教の中心地として栄えてきたイタリアにおいて、カトリック教徒の支持を集める事は大衆運動で不可欠であった。その為、権力の階段を登るに連れて自説を押し通す事より政治上の作戦としてキリスト教勢力との協力路線へと切り替えていった。1924年、子供達への洗礼を行わせて教会との和解を国民に印象付け、翌年には10年前に無宗教の結婚式を行ったラケーレと教会での結婚式典を行うパフォーマンスを見せた。このような路線は最終的に1929年2月11日の[[コンコルダート]](宗教和平)の締結に至る。 教会との間で結ばれたラテラノ条約でカトリック教会は新たな教皇領としてヴァチカン市国を与えられ、正式にキリスト教カトリック派がイタリアの国教とされた。中絶制度・教会への課税なども合わせて廃止され、[[フリーメーソン]]の活動も禁止された。当時の教皇ピウス11世はムッソリーニを信心深いキリスト教徒と賞賛し、「イタリアは再び神の土地へと戻った」と宣言している。 だが教会に対する懐柔策を進めながらも本心としての侮蔑は持ち続けており、和解の直後に「教会は国の下位に置かれるべきだ」と発言している。またコンコルダートから7年間の間に無数のキリスト教系新聞が発禁処分とされた。教会もムッソリーニの表面的な懐柔に不満を抱き始め、破門処分を検討したとも伝えられている。1932年にピウス11世とムッソリーニの会談が行われて関係修復が図られたが、ムッソリーニは教会に対する賞賛などの社交辞令を決して報道させなかった。彼はファシストはキリスト教に敬意を持っていると世辞を述べ、教皇は「彼は[[プロビデンス]]の傍に居る」と賞賛した。 1938年、第二次世界大戦を前にしてムッソリーニは反教会主義を露にするようになった。彼は宗教の中でも特にキリスト教が最も堕落した宗教であり、「それに比べればイスラム教はまだ合理的で優れた部分がある」と閣僚に語っている。また「教会はイタリアの癌細胞であり、いずれは引き摺り出さねばならない」とも語っていたという。 だがこれらの発言は非公式な物に留まり、公ではこうした発言は控え続けていた。晩年となる1943年からキリスト教についての肯定的発言が増え始め、キリストの殉死を引き合いに出した演説も行っている。とはいえ基本的には無神論者のままであったと戦後に妻のラケーレが証言している。 皮肉にもムッソリーニを処刑した共産主義者たちは同じ無神論者であった為、彼の望み通り無宗教様式で遺体を埋葬した。1957年、ムッソリーニの改葬式が行われた際には教会で儀式が行われた。 == 評価 == [[ファイル:Mussolini wine.jpg|right|thumb|200px|イタリアで現在売られているムッソリーニの顔写真つきのワイン]] 国内での評価はドイツにおけるヒトラーほど低く蔑まれておらず、幾分に悪いイメージもあるものの[[マフィア]]を徹底して弾圧したり、積極的な雇用政策を進めた事から比較的に好印象を持たれている。現在でもブレダッピオの記念碑には花が絶えず、ナチスの様に極端なタブー視はされてはいない。ローマ進軍記念日前後の10月下旬には多くの支持者が[[プレダッピオ]]に集まり、この時期がプレダッピオにとって一番の稼ぎ時となるという。 近代政治思想に多大な影響を与えたファシズムの創始者であり、政治理論家としても重要な足跡を残した。ファシズムについては「ムッソリーニが現像し、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が複写し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]が拡大した」というジョークが残されている。 現代イタリアに関する影響としては、アメリカの歴史家[[A・L・サッチャー]]は政治情勢によって政治的思想を変遷させてきた事を「首尾一貫した不首尾一貫性」と評し、「[[カミッロ・カヴール|カヴール]]や[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]が苦心して作り上げた近代イタリアを台無しにした」と批判した。一方で依然としてイタリア国内ではムッソリーニとファシズム、そして[[ファシスト党]]は強固な支持を得続けている。[[共和ファシスト党]]の後進政党である[[イタリア社会運動]]及び[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]]は与党連合の一員として閣僚を送り込み、現在の与党「[[自由の人民]]」でも一翼を担っている。 植物学者・ロボット学者の[[西村真琴]](俳優・[[西村晃]]の父)は「保育は天業」「保育の営みがある限り、人間社会は有機的に発展する」という観点から、ムッソリーニが掲げた独身税・子無税構想を評価・支持している。 == 映像作品 == === 映画 === *『永遠の都 (1923年の映画)』 - 本人の映像が使用されている。 *[[ジャック・オーキー]]『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』([[チャールズ・チャップリン]]監督、1940年) - オーキー演じるベンツィーニ・ナパロニはムッソリーニがモデル。 *[[ロッド・スタイガー]]『[[ブラック・シャツ/独裁者ムッソリーニを狙え!]]』([[カルロ・リッツァーニ]]監督、1974年) *[[ボブ・ホスキンス]]『[[ムッソリーニと私]]』([[アルベルト・ネグリン]]監督、テレビ映画、1983年) *[[ジョージ・C・スコット]]『[[ムッソリーニ/愛と闘争の日々]]』([[ウィリアム・A・グレアム]]監督、テレビ映画、1985年) *[[クラウディオ・スパダロ]]『[[ムッソリーニとお茶を]]』([[フランコ・ゼフィレッリ]]監督、1998年) *[[フィリッポ・ティーミ]]『[[愛の勝利を ムッソリーニを愛した女]]』([[マルコ・ベロッキオ]]監督、2009年) == 脚注 == {{Reflist|3}} == 参考書籍 == *ロマノ・ヴルピッタ 『ムッソリーニ』(中公叢書:[[中央公論社]]) * [[大森実]] 『人物現代史2 ムッソリーニ』[[講談社]]のち[[講談社文庫]] 1994年、ISBN 4-06-185732-0 *[[マックス・ガロ]]、木村訳『ムッソリーニの時代』([[文藝春秋]]、1987年) *[[木村裕主]]『ムッソリーニ ファシズム序説』、新書版:[[清水書院]] **木村裕主 『ムッソリーニを逮捕せよ』、『ムッソリーニの処刑』、各講談社文庫で再刊。 * [[ジョルジュ・ソレル]]『[[暴力論|暴力論(上・下)]]』 [[今村仁司]]、塚原史訳、[[岩波文庫]]、新版2007年 (上巻)ISBN 978-4003413814、(下巻)ISBN 978-4003413821 == 関連項目 == *[[エウローパ|エウル]] * [[ファロ・イタリコ]]([[:it:Foro Italico (Roma)|Foro Italico]]) *[[チネチッタ]] *[[コンコルダート]] *[[ジョルジュ・ソレル]] *[[ガブリエーレ・ダヌンツィオ]] *[[外山恒一]](外山なりの改良を加えたムソリーニのファシズムを信奉している) *[[下位春吉]] == 外部リンク == *[http://ameblo.jp/toyamakoichi/theme12-10006077438.html#main ファシズム入門]/[http://www.warewaredan.com/f-nyumon1.html][http://www.warewaredan.com/f-nyumon2.html][http://www.warewaredan.com/f-nyumon3.html] {{start box}} {{s-off}} {{Succession box | title = [[ファイル:War_flag_of_RSI.svg|22x20px]] [[イタリア社会共和国]]国家元首 | years = 初代:1943 - 1945 | before = (創設) | after = (国家崩壊) }} {{Succession box | title = [[ファイル:War_flag_of_RSI.svg|22x20px]] [[イタリア社会共和国]]外務大臣 | years = 初代:1943 - 1945 | before = (創設) | after = (国家崩壊) }} {{Succession box | title = {{flagicon|ITA1861}} イタリア王国元帥 | years = 初代:1938 - 1943 | before = (創設) | after = [[ピエトロ・バドリオ]] }} {{Succession box | title = {{flagicon|ITA1861}} イタリア王国内務大臣 | years = 第50代:1926 - 1943<br />第48代:1922 - 1924 | before = Luigi Federzoni<br />Paolino Taddei | after = Bruno Fornaciari<br />Luigi Federzoni }} {{Succession box | title = {{flagicon|ITA1861}} イタリア王国外務大臣 | years = 第48代:1943<br />第46代:1932 - 1936<br />第44代:1922 - 1929 | before = Galeazzo Ciano<br />Dino Grandi<br />Carlo Schanzer | after = Raffaele Guariglia<br 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