ウォルト・ディズニー

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[[Image:Walt disney portrait.jpg|300px|thumb|ウォルト・ディズニー (1954年1月1日)]] '''ウォルター・イライアス・ディズニー'''('''Walter Elias Disney''', [[1901年]][[12月5日]] - [[1966年]][[12月15日]])、通称・ペンネーム'''ウォルト・ディズニー'''('''Walt Disney''')は、[[アメリカ合衆国]]・[[イリノイ州]][[シカゴ]]に生まれた[[アニメーター]]、[[プロデューサー]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[声優]]、[[実業家]]、[[エンターテイナー]]。世界的に有名な[[アニメーション]][[キャラクター]]「[[ミッキー・マウス]]」の生みの親であり、兄の[[ロイ・O・ディズニー]]と共同で設立した[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]は350億ドルの収入を持つ国際的な大企業に発展した。 一族は[[アイルランド]]からの移民であり、姓の「ディズニー」の由来は[[フランス]]の[[カルヴァドス県]]の'''イズニー'''で、後に英語風に直された。イライアスは父名。 == 人物 == === 生い立ち === [[ユニオン・パシフィック鉄道]]の鉄道員イライアス・ディズニーの子としてシカゴで生まれた。父イライアスは元々[[カルフォルニア州]]で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラの為に定職を求めてカンザスや[[フロリダ州]]に移り、後に仕事の関係で[[イリノイ州]]シカゴへと移住していた。しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マルスリーヌへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞や[[ポップコーン]]を売る仕事をしていたこともある。後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。 少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。また、小学校時代は、父親のイライアスが[[新聞配達]]業を始めていた為、兄の[[ロイ・O・ディズニー|ロイ]]と新聞配達を手伝った。毎朝3時半に起きて新聞配達を6年間に渡って朝夕無給で行った。この時代の経験により、「配達を忘れる」という夢を晩年に至るまで折に触れ見ることになった。1911年にカンザスシティーへ引っ越すと、市営の絵画教室で本格的に絵を学ぶ機会を得た。 === 青年期 === [[ファイル:Walt01.jpg|280px|thumb|[[赤十字社]]の衛生兵として活動するウォルト([[フランス]])]] 父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、[[シカゴ美術館附属美術大学|アカデミー・オブ・ファインアーツ]]夜間部で絵を学ぶ生活を送っていた。学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は[[愛国主義]]に沿った内容だった。当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。そして[[サラエボ事件]]を切っ掛けに[[第一次世界大戦]]が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。しかし兄と違い若年であった為に軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに[[赤十字社]]の[[衛生兵]]として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。同じ衛生隊には[[レイ・クロック]]も居た。大戦終結時、廃墟となった[[フランス]]に居たウォルトは一年振りに故郷のアメリカに帰国した。 帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。ウォルトはここで生涯の友人となる[[アブ・アイワークス]]と知り合った。アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。 === 漫画からアニメーターへの転進 === 1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。だが設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社に[[アニメーター]]として雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。社員としての仕事の傍らで映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法から[[セルアニメ]]に高い可能性がある事を確信した。 [[1920年]]、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初めとする数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh O'Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。 === ディズニー社設立 === [[ファイル:Walt Disney Molina Campos.jpg|300px|left|thumb|[[モリナ・カンポス]]とウォルト([[1941年]])]] ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集め、ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。 少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。[[1925年]]、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(Lillian Bounds)と結婚、2人の娘(DianeとSharon)を設ける。1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介で[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]と繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「[[しあわせウサギのオズワルド]]」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。 だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。しかしウォルトは諦めず、若い時と同じくアイワークスとの二人三脚でディズニー再建に取り掛かる事になる。 === ミッキーマウス === [[Image:ディズニーの家族.jpg|350px|thumb|スタジオをオープンした時に撮影されたディズニー兄弟とその妻、母親の写真(1923年)]] 再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中でライバルとして度々登場させていた敵役のねずみを主役に抜擢することを決定する。アブ・アイワークスのスケッチではオズワルドそっくりのキャラクターとなった。カンザスフィルム時代に飼っていた[[マウス]]に思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていた[[フィリックス・ザ・キャット]]に似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。かくして世に知られる「[[ミッキーマウス]]」は完成した。後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。因みに当初名前は「モーティマー」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーのアイディアで「ミッキー・マウス」と変更された。モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。 ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。ミッキーマウスの登場第一作『[[プレーン・クレイジー]]』(日本語名では飛行機狂)はサイレント映画として作られたが、第二作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んで世界初の[[トーキー|トーキー映画]]の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウスの声を演じた。この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 == ディズニーランド == [[ファイル:Walt_Disney_and_Dr._Wernher_von_Braun_-_GPN-2000-000060.jpg|200px|thumb|ディズニーと[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]](右)]] [[1955年]]にはカリフォルニア州アナハイムにて、150エーカーの土地を購入。自らの名を冠したテーマパークである[[ディズニーランド]]を開設し、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。その際、ディズニーが参考にしたのは、カリフォルニア州オークランドに[[1950年]]に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」と、[[デンマーク]]に[[1843年]]に作られた遊園地[[チボリ公園]]である。同時期に放送されたTV番組「[[ディズニーランド (テレビ番組)|ディズニーランド]]」には自ら出演し、アトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。 [[1965年]]、ウォルトはアメリカ都市の生活の質を問題として注目し始め、アメリカ産業の創造性を見せるために、自身で[[エプコット]]という名のパークをデザインした。後に[[フロリダ州]]の中心にマンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れた[[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]]を作り始める。 == 死亡 == [[1966年]]12月、[[肺癌]]のためウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの完成を見ないまま死亡。翌年、最後に手がけた遺作『[[ジャングル・ブック]]』が公開された。晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食べるのが一番のお気に入りだった。 ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。 また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「'''私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。'''」と言った。その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 一方で、ウォルト・ディズニーの「哲学」としての[[人種差別]]、[[性差別]]思想を内包した<ref>『America』(1986年、[[ジャン・ボードリヤール]]著)</ref>人工的で画一的な「テーマパーク的[[グローバリゼーション]]」は、侮蔑と批判をこめた「'''ディズニー化'''([[w:Disneyfication|Disneyfication]])」の[[社会学]]用語を生み、ディズニー社の企業規模の拡大とともに各方面から国際的な批判の対象となっている<ref>『ディズニー化する社会』(明石書店)</ref>。 == 政治との関係 == === プロパガンダ映画の制作 === 1941年12月8日の[[太平洋戦争]]の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求めた。映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。検閲や行政指導ができない上に高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させている。 しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反[[ナチス]]」の形で戦意高揚の[[プロパガンダ]]映画を制作した。大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。 政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし'''大衆自身が願う形へミッキーを作り変える'''作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。戦後もディズニーは政府の核実験、原子力開発キャンペーンの[[プロパガンダ]]に参加している。 大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画には、ミッキーマウスが戦闘機で[[日本軍]]の[[零戦]]を撃墜するシーン、アニメ映画「総統の顔」には[[昭和天皇]]を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。 *空軍力による勝利 Victory Through Airpower(1943年) *新しい精神 The New spirit(1943年) === 反共姿勢 === 第二次世界大戦後、生前の[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]と親友だったことなどから、当時吹き荒れていた[[ジョセフ・マッカーシー]]の「[[赤狩り]]」の嵐に巻き込まれる。彼は公聴会に出頭し、「([[冷戦]]前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。非常に好評だった」と証言している。最終的には無実とされた。この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の[[労働組合]]と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な[[愛国主義]]者、[[反共主義]]者と考えられている。 この様な指摘に対して、ジャーナリストのニール・ゲイブラーは「ウォルト自身は[[ノンポリ]]で、政治に関しては特別関心を持たなかった」と指摘しているが、『闇の王子ディズニー』を著したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想について[[連邦捜査局|FBI]]への熱心な密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出の[[リチャード・ニクソン]]元[[副大統領]](後に[[大統領]])を招待している。 なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「Walt Disney」(邦題:創造の狂気」)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派の[[バリー・ゴールドウォーター]]を熱心に支持していた。 == 人種・性差別姿勢 == ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画『[[南部の唄]]』での[[黒人]]の描かれ方から、ウォルトが[[人種差別|人種差別主義者]]のレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張している。ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。 この『[[南部の唄]]』は、公開直後から「[[全米黒人地位向上協会]]」([[NAACP]])の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。 しかし、ウォルトに対する「[[白人至上主義]]者」、「人種差別主義者」との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではない。ウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったし、『南部の唄』の以前にもその二年後にも、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで、野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱漫画を出版していて、現在も批判の対象となっている。また、彼は死ぬまでディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る[[人種差別]]、および男尊女卑的な[[性差別]]が指摘されている。 == 受賞歴 == === アカデミー賞 === [[ファイル:Disney1968.jpg|thumb|right|120px|1968年の米国の切手]] [[ファイル:Walt Disney 1942 signature.png|thumb|right|230px|ディズニーのサイン]] *1931年 - 1932年 [[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ賞]] 『[[花と木]]』 *1932年 名誉賞 ミッキー・マウスの創造に対して *1932年 - 1933年 短編アニメ賞 『[[三匹の子ぶた (1933年の映画)|三匹の子ぶた]]』 *1934年 短編アニメ賞 『[[うさぎとかめ]]』 *1935年 短編アニメ賞 『三匹の親なし子ねこ』 *1936年 短編アニメ賞 『田舎のねずみ』 *1937年 短編アニメ賞 『[[風車小屋のシンフォニー]]』 *1939年 名誉賞 『[[白雪姫 (アニメ映画)|白雪姫]]』 *1938年 短編アニメ賞 『牡牛のフェルナンド』 *1939年 短編アニメ賞 『みにくいアヒルの子』 *1942年 名誉賞 『[[ファンタジア (映画)|ファンタジア]]』 *1941年 短編アニメ賞 『プルートのなやみ』 *1941年 [[アービング・G・タルバーグ賞]] *1942年 短編アニメ賞 『[[総統の顔]]』 *1948年 短編二巻賞 『あざらしの島』 *1950年 短編二巻賞 『ビーバーの谷』 *1951年 短編二巻賞 『大自然の片隅』 *1952年 短編二巻賞 『水鳥の生態』 *1953年 [[アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞|長編ドキュメンタリー映画賞]] 『砂漠は生きている』 *1953年 [[アカデミー短編ドキュメンタリー映画賞|短編ドキュメンタリー映画賞]] 『民族と自然/アラスカのエスキモー』 *1953年 短編二巻賞 『熊の楽園』 *1953年 短編アニメ賞 『プカドン交響曲』 *1954年 長編ドキュメンタリー映画賞 『滅びゆく大草原』 *1954年 短編ドキュメンタリー映画賞 『民族と自然/北極圏の人々』 *1958年 短編実写賞 『グランドキャニオン』 *1968年 短編アニメ賞 『プーさんと大あらし』 == 参考文献 == *グリーン夫妻著/山口和代訳 『魔法の仕掛人ウォルト・ディズニー』(ほるぷ出版) 1994年 ISBN 4-593-53360-0 *マーク・エリオット著/古賀林幸訳 『闇の王子ディズニー(上、下)』(草思社) 1994年 ISBN 4-7942-0576-7 ISBN 4-7942-0577-5 *ラッセル・シュローダー著/スタジオジブリ編集/田畑正儀訳 『Walt Disney : 伝記・映像の魔術師』(徳間書店) 1998年 ISBN 4-19-860860-1 *ボブ・トーマス著/山岡洋一, 田中志ほり訳『ディズニー伝説 : 天才(ウォルト)と賢兄(ロイ)の企業創造物語』(日経BP社)1998年 ISBN 4-8222-4138-6 *ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社) *ボブ・トマス著『ウォルト・ディズニー』(講談社)1995年 (日本図書館協会選定図書・全国学校図書館議会選定図書) == 脚注 == <references /> == 関連事項 == * [[アメリカン・アニメーションの黄金時代]] * [[ディズニーアニメーターのストライキ]] == 外部リンク == *[http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/cartoon06.html ウォルト・ディズニー:世界でもっとも成功したアニメスタジオ] - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。 {{DEFAULTSORT:ていすにい うおると}} [[Category:ディズニーの人物|*]]<!--DEFAULTSORTの例外--> [[Category:アニメーション監督]] [[Category:アメリカ合衆国のアニメーター]] [[Category:アメリカ合衆国の実業家]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:大統領自由勲章受章者]] [[Category:議会名誉黄金勲章受章者]] [[Category:冷戦]] [[Category:アメリカ合衆国の反共主義者]] [[Category:イングランド系アメリカ人]] [[Category:アイルランド系アメリカ人]] [[Category:フランス系アメリカ人]] [[Category:1901年生]] [[Category:1966年没]]