よど号ハイジャック事件
'''よど号ハイジャック事件'''は、[[1970年]][[3月31日]]に[[共産主義者同盟赤軍派]]が起こした[[日本航空]]便[[ハイジャック]][[事件]]。[[日本]]における最初のハイジャック事件である。 [[Image:よど号ハイジャック事件1.jpg|850px]] <br clear="all" /> == 概要 == [[Image:1970年よど号ハイジャック事件2.jpg|350px|thumb|よど号ハイジャック事件発生当時の写真。]] 1970年3月31日、[[東京国際空港|羽田空港]]発板付空港(現[[福岡空港]])行きの日本航空351便([[ボーイング727]]-89型機、愛称「'''よど号'''」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。犯人グループは[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)へ[[亡命]]する意思を示し、同国に向かうよう要求した。よど号は福岡空港と[[大韓民国|韓国]]の[[金浦国際空港]]での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。 運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡と[[ソウル特別市|ソウル]]で順次解放されたものの、[[運輸省|運輸]][[政務次官]][[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。 なお「よど号(淀号)」とは、ハイジャックされた機の[[愛称]]で、当時の日本航空は保有する飛行機1機ごとに愛称を付けていた。ボーイング727型機には日本の[[河川]]の名前があてられており、よど号の愛称は[[淀川]]に由来する(その他のボーイング727型機の愛称には「ひだ号」「たま号」「ふじ号」「とね号」があった)。 == 事件の背景 == かねてより赤軍派は、国内での非合法闘争の継続には後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であると考え(国際根拠地論)、海外にメンバーを送り込む計画を立てていた。ところが、[[1970年]][[3月15日]]に赤軍派議長の[[塩見孝也]]が[[逮捕]]される。逮捕された際、塩見は「H・J」('''H'''igh '''J'''ackの意)と書かれたハイジャック計画に関するメモを所持していたが、当時の[[公安警察]]はメモの「H・J」がハイジャックを意味するものだとは気付かなかった。 身辺に[[捜査]]が及ぶことを恐れた[[田宮高麿]]をリーダーとする実行予定グループは、急遽[[3月27日]]に計画を実行に移すことを決定。しかし飛行機に乗り慣れていなかった犯人グループの一部が遅刻したために計画を変更。実行は4日後の3月31日に延期された。 == 事件の経過 == === 事件当日のJAL351便 === * 使用機材:[[ボーイング727]]-89 ** [[機体記号]]:JA8315 *** このJA8315は日本国内航空が[[1965年]]に導入した機体(「羽衣号」の愛称があった)で、翌年に日本航空に路線ごと[[リース]]されていた。日本国内航空が東亜航空と合併して[[日本エアシステム|東亜国内航空]]となった後の[[1972年]]に返却され、「たかちほ号」として[[1975年]]初めまで使われその後日本国外の[[航空会社]]に売却された。 * コールサイン:Japan Air 351 * フライトプラン:[[東京国際空港|羽田空港]]発[[福岡空港|板付空港]](現在の福岡空港)行 * 乗員:7人 ** コックピットクルー:3人 *** [[機長]]:石田 真二(いしだ しんじ) *** [[副操縦士]]:江崎 悌一(えざき ていいち) *** [[航空機関士]]:相原 利夫(あいはら としお) ** 客室乗務員:4人 *** 神木 広美(かみぎ ひろみ) *** 沖宗 陽子(おきむね ようこ) *** 久保田 順子(くぼた じゅんこ) *** 植村 初子(うえむら はつこ) * 乗客:122人(テロリスト9人を除く) === ハイジャック実行 === 1970年3月31日、午前7時33分、[[東京国際空港|羽田空港]]発[[福岡空港|板付空港]](現在の福岡空港)行きの[[日本航空]]351便が、[[富士山]]上空を飛行中に[[日本刀]]や[[拳銃]]、[[爆発物|爆弾]]など[[武器]]と見られる物を持った犯人グループによりハイジャックされた。犯人グループは男性客を窓側に移動させた上で、持ち込んだ[[ロープ]]により拘束し、一部は操縦室に侵入して相原[[航空機関士]]を拘束、石田[[機長]]と江崎[[副操縦士]]に[[平壌]]に向かうよう指示した。 === 板付空港へ === この要求に対し機長は「運航しているのは国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で午前8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であった。 警察は国外逃亡を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、[[自衛隊]]機が故障を装い滑走路を塞ぐなどのいくつかの工作を行うが、かえって犯人グループを刺激する結果になった。焦った犯人グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって人質の一部を解放することに同意。午後1時35分に[[女性]]・[[子供]]・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。 === 「北朝鮮」へ === 同日午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。機長が福岡で受け取った[[地図]]は中学生用の[[地図帳]]の[[複写|コピー]]のみで、航路の線も引かれていない大変に粗末なものだった。ただ、この地図の隅には「121.5MCを傍受せよ」(MCとはメガサイクルの略。現在の[[メガヘルツ]]と同じ。民間航空緊急用周波数)と書かれており、機長はこれに従って飛行した。 よど号は[[朝鮮半島]]の東側を北上しながら飛行を続け、午後2時40分、進路を西に変更した。この前後、突如よど号の右隣に国籍を隠した[[戦闘機]]が現れる。戦闘機の操縦士は機長に向かって親指を下げ、降下(または着陸体勢)に入るようにとの指示を行うと飛び去った(国籍を隠しておらず、[[韓国軍|韓国空軍]]章を表示したままの戦闘機が現れたと言う説もある)。 よど号は[[38度線|北緯38度線]]付近を飛んでいた。実際にはよど号は北緯38度線を越えていたのだが、休戦ラインは完全に北緯38度線に沿っていないため、まだ韓国領の中にいた。のちに誤情報と判明するが、この際に北朝鮮側から機体に対し対空砲火が行われたとの情報が飛び交った。北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は、指示された周波数に対して[[英語]]で「こちらJAL351便」と何度も呼びかけたが、なかなか応答が返ってこなかった。 その後、同機に対し「こちら平壌進入管制」という[[無線]]が入る。無線管制は、周波数を121.5MCから134.1MCに切り替えるよう指示し、機体は誘導に従う形で左旋回し、再び北緯38度線を跨いで南下した。これは韓国当局によるもので、機体を北朝鮮に向かわせないためのとっさの行動であった。なお犯人グループは、亡命希望先の北朝鮮の[[公用語]]である[[朝鮮語]]はおろか[[英語]]もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。 === ソウルへ着陸 === 午後3時16分、同機は[[平壌国際空港]]とされる場所に着陸する。実際には韓国のソウル近郊にある[[金浦国際空港]]で、韓国兵は[[朝鮮人民軍]]兵士の服装をして、「平壌到着歓迎」の[[プラカード]]を掲げるなどの偽装工作を行っていた。 しかしメンバーの一人が金浦国際空港内に[[ノースウエスト航空]]機などが駐機しているのを発見し異常に気付く(この点については、「航空燃料タンクの商標」、「[[シェル石油]]のロゴのついた給油トラック」、「犯人グループが持っていた[[ラジオ]]をつけたら[[ジャズ]]や[[ロック (音楽)|ロック]]が流れた」、「[[ジープ]]に乗った[[ネグロイド]]の兵士がいる」、「[[フォード]]の車が動いている」、「北朝鮮の職員に偽装した韓国の警官が、『日本の[[大使]]が待っています』と発言した」など、諸説ある)。 犯人グループは機体に近づいてきた男性に「ここはピョンヤン(平壌)か?」と尋ねた。男性は「ピョンヤンだ」と答えたが、犯人がさらに北朝鮮における[[五カ年計画]]について質問したため、答えに窮してしまう(「九カ年計画の三期目と答えた」との説もある。また、他の軍人に「ここはソウルか?」と尋ねたところ、事情を知らないその軍人は「ソウルだ」と答えた。こうした食い違いは、当事者の少なさやその当事者の後日談による部分が多いためだと考えられる)。これを見た犯人は、畳み掛けるように「キン・ニチセイ」([[金日成]])の“大きな”[[写真]]を持ってくるように要求したが、北朝鮮が敵国である韓国においてこの写真は当然用意することもできず、犯人グループは偽装工作を確信する(写真の件については諸説あり、用意できたという説もある)。 === 交渉 === 金浦国際空港に着陸後、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止した[[エンジン]]を再始動するために必要となるスターター(補助始動機)の供与を拒否。この結果、よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着する。犯人グループは強硬な態度を保ったものの、[[食料]]等の差し入れには応じた。 また、31日の午後には日本航空の特別機が[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]運輸政務次官ら[[日本政府]]関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち[[4月1日]]未明にソウルに到着。[[大韓民国の政治#行政|韓国政府]]の丁来赫(チョン・ネヒョク)[[大韓民国国防部|国防部]]長官や[[白善ヨプ|白善燁]](ペク・ソニョプ)交通部長官、朴璟遠(パク・キョンウォン)内務部長官とともに犯人グループへの交渉に当たることになった。 === 膠着状態 === この後、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた[[紙コップ]]をコクピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報を基に[[戦闘警察|特殊部隊]]による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。 日本政府は、[[ソビエト連邦]]や[[国際赤十字]]社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を[[朝鮮民主主義人民共和国#政府|北朝鮮政府]]に要請した。これに対して北朝鮮当局は「[[人道主義]]に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員及び乗客は直ちに送り返す」と発表し、[[朝鮮赤十字会]]も同様の見解を示した。だが、韓国にとって、前年に発生した[[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]]の乗員乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせることは、絶対に避けなければならないことであった。 日本政府はさらに、犯人グループが乗員を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が[[日本人]]に比べて過酷な扱いを受ける懸念があったため、[[アメリカ政府]]が善処を求めている。 === 乗客解放 === 1日午後には[[運輸大臣]][[橋本登美三郎]]もソウルへ向かい、金山政英駐韓[[特命全権大使]]らとともに韓国当局との調整に当たった。数日間の交渉を経た[[4月3日]]に、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。犯人グループの1人である[[田中義三]]と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次解放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップ上で入れ替わる形で解放が行われた。また、乗員のうち[[客室乗務員]]も機を降りることが許された。解放された人質は日本航空の特別機の[[ダグラス・エアクラフト|ダグラス]][[DC-8]]-62(JA8040、飛騨号)で福岡空港に帰国した。 なお犯人側から山村政務次官の身元について[[日本社会党]]の阿部助哉[[衆議院議員]]に証明を行ってほしい旨の依頼があり、[[4月2日]]に阿部議員がソウルに渡り、山村政務次官の人物証明を行った。 === 北朝鮮へ === 4月3日の午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸、北緯38度線を越えて北朝鮮領空に入った。機長はこの時点でもなお、まともな地図を持たされておらず、北朝鮮領空に入った後も無線への応答や北朝鮮空軍機による[[スクランブル|スクランブル発進]]もなかった。[[平壌国際空港]]を目指して飛行を続けたものの、夕闇が迫ってきたため、機長は戦争中に夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で確認できた小さな滑走路に向かい、午後7時21分に着陸した。この滑走路は平壌郊外にある[[朝鮮戦争]]当時に使用されていた美林(ミニム/ミリム)飛行場跡地だったと言う。 対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、犯人グループは武器を置いて機外へ出た。なお、武装解除により機内に残された日本刀・拳銃・爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明した。よど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。 [[日本放送協会|NHK]]が午後7時30分から放送した[[報道特別番組]]「よど号の乗客帰る」は[[ビデオリサーチ]]・[[関東地方|関東地区]]調べで43.0%の[[視聴率]]を記録した。 === 亡命受け入れ === よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明。日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けたとして非難した。また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものであり、[[韓国料理|朝鮮料理]]の食事と個室が与えられた上で(「休みたい」という本人たちの意思は無視されたものの)、[[映画]]鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。 [[4月4日]]、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。 === 人質帰国 === 翌日[[4月5日]]早朝、乗員たちは出発準備のために美林飛行場へ移動する。ところが、北朝鮮にはボーイング727に対応するスターター(補助始動機)がなかったため、一時は出発が危ぶまれた。日本航空はモスクワ経由でエンジンスターターを届けるべく手配を開始したが最終的には圧縮空気ボンベを現地で調達し車両用のバッテリーで機内のバッテリーに充電を行いエンジンが始動できた。空港を離陸したよど号は、北朝鮮側から飛行経路を指示されそのエリアを通過後、日本国内上空からよど号を呼ぶ日航機を経由して無線で脱出を報告。直接羽田へ向かう事を連絡した機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、[[美保飛行場|美保]]上空を経由し羽田空港に到着。彼らが無事に帰国したことにより事件は一応の収束を見た。 この日の朝にNHKが放送した報道特別番組はビデオリサーチ・関東地区調べで40.2%の視聴率を記録した。 == 赤軍派とハイジャックの目的 == [[1969年]]8月に結成された[[共産主義者同盟赤軍派]]は、前段階蜂起—世界革命戦争という[[前段階武装蜂起論]]を掲げる「戦争宣言」を発し、「[[大阪戦争 (赤軍派)|大阪戦争]]」や「[[東京戦争]]」と称して[[交番]]や[[警察署]]を襲撃するという犯罪を繰り返した。 同年の[[11月5日]]には、[[首相官邸]]襲撃のための[[軍事訓練]]を目的に[[山梨県]][[塩山市]](現:[[甲州市]])の[[大菩薩峠]]に結集していたところを摘発され、政治局員数人を含む53人が逮捕([[大菩薩峠事件]])。翌年の[[1970年]][[3月15日]]には赤軍派議長の[[塩見孝也]]も逮捕される。幹部が逮捕されて組織が弱体化した赤軍派は、1969年12月から1970年1月にかけ、「[[労働者国家]]に武装根拠地を建設して世界革命根拠地国家に転換させ、[[開発途上国|後進国]]における[[革命]][[戦争]]と日米の革命戦争を結合して単一の世界革命戦争に推し進める」とする「[[国際根拠地論]]」を打ち出す。 これに基づいて[[アジア]]においては、[[日本]]の前段階蜂起 → 北朝鮮の左旋回化革命と革命根拠地化(金体制の変革) → [[朝鮮半島]]の武力統一 → 日本全面武装蜂起と結合 → [[毛沢東]]・[[林彪]]派の革命的変革—解体(毛体制の変革) → [[中華人民共和国]]の世界革命根拠地化 → [[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]と結合 → [[南ベトナム解放民族戦線]]の[[ホーチミン市|サイゴン]]攻略 → [[東南アジア]]への革命戦争拡大、という構想を提起した。 北朝鮮が選ばれたのは、北朝鮮の体制を支持していたからではなく、最も身近に在る「日本帝国主義と敵対関係にある国」だったからに過ぎず、赤軍派の意図によると、北朝鮮を赤軍派の軍事基地として変革(北朝鮮革命)するつもりだった。北朝鮮の左旋回と革命根拠地化、つまりは「北朝鮮の"赤軍化=[[オルグ (社会運動)|オルグ]]"」を目的に、北朝鮮派遣部隊(田宮グループ)が北朝鮮に渡ることになった。しかし、既に逮捕状が出されており合法的な出国は不可能であったため、渡航手段として民間[[旅客機]]の乗っ取りが決まった。 なお犯人グループは出発時に「われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。……最後に確認しよう。'''われわれは明日のジョーである'''」(原文ママ。正しいタイトルは『[[あしたのジョー]]』)という声明文を残している。自分たちを同名の[[漫画]]の主人公・[[あしたのジョーの登場人物|矢吹丈]]になぞらえ、「燃え尽きるまで闘う」と言うことを主張したといわれる。ちなみに[[テレビアニメ]]版『あしたのジョー』第1話の放送は1970年[[4月1日]]。まさに事件のただ中であった。なお、田宮は乗客との別れの際に別れを主題にした[[詩吟]]を謡い、乗客の一人が返歌として『[[北帰行]]』を歌ったといわれている。 == その後 == この事件は日本初のハイジャックであり、教訓として同年[[6月]]に[[航空機の強取等の処罰に関する法律]](ハイジャック防止法)が制定された。ただし[[日本国憲法第39条|憲法39条]]の[[法の不遡及|遡及処罰禁止規定]]により犯人グループが帰国した場合、この法律は適用されない。「機体という財物」や「航空運賃という財産上の利益」に対する[[強盗罪]]や、乗員乗客に対する[[略取・誘拐罪]]に問われる。なお国外逃亡により[[刑事訴訟法]]第255条に該当するため、[[公訴時効]]は停止している。その後、犯人グループは合意による無罪帰国を求めているが、[[日本国政府]]はこれを認めていない。 === 乗客・乗員 === ==== 乗客 ==== 韓国で解放された乗客は日本航空の特別機で日本へ帰国したが、乗客の1人であったアメリカ人[[神父]]はこの特別機に搭乗せず、そのまま所在不明となった。韓国へ入国したものと推測されたが、日本政府にも日本航空にもその行方が知らされなかったために疑念を呼んだ。事件後、このアメリカ人を除く全ての乗客に対し日本航空から「お見舞金」が支払われた。 事件当日は福岡で[[日本内科学会]]総会が行われる予定であったため、乗客には[[医師]]が多く含まれていた。この医師らは、福岡で「病人」との理由で開放されることになる人質の選定に協力した。なお、その中に[[虎の門病院]]院長の[[沖中重雄]]や[[聖路加国際病院]]内科医長の[[日野原重明]]がいた。日野原の著書によれば、[[対馬海峡]]を過ぎた頃、客席側にいた犯人グループの一人が乗客に対し、「自分たちが持ち込んだ本をもし読みたければ貸し出す」と言ってきた。その本は、赤軍派の機関紙「赤軍」、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]全集、[[金日成]]の伝記、[[毛沢東]]の伝記、『[[共産党宣言]]』、[[親鸞]]の伝記、[[伊東静雄]]の詩集、『[[カラマーゾフの兄弟]]』などであった。ただ、実際に乗客の中で犯人から本を借りたのは、『カラマーゾフの兄弟』を借りた日野原のみであったという。 当時[[東京大学]]の学生であった[[舛添要一]]は、郷里の福岡に帰るため当該便の搭乗券を購入していたが、前日の夜に仲間と酒を飲んだ影響で搭乗することができず、難を逃れている。また、この旨を記した手紙を当時舛添は自分の親に宛てて送付しているが、この手紙はよど号で福岡に届けられる予定であった。後日、舛添本人のもとに返送されてきている。 なお乗客の中の1人は1977年の[[日本赤軍]]による[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]機に乗り合わせ、2度もハイジャックに遭遇することになった。 犯人グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」と叫んだ時、ハイジャックの意味を知らなかった乗客が多く、日野原が「ハイジャックとは飛行機を乗っ取ることです」と乗客に説明したことも有名である。又、機長が「ピョンヤン(平壌)ですね」と言ったことに対して、田宮が「ピョンヤンと違う。ヘイジョウ(平壌)や」、と言ったとも伝えられている。 ==== 機長 ==== よど号の機長であった石田真二は、帰国後に勇敢な操縦士として持ち上げられ、時の人となるが、マスコミによりプライベートなトラブルを週刊誌に書き立てられた結果、日本航空を退職することになった。2006年8月13日に死去した。 ==== 副操縦士と機関士 ==== 操縦士江崎悌一と機関士相原も帰国後は機長と同じくマスコミに賞賛された。その後も日本航空の副操縦士と機関士として乗務を続け、後に定年退職した。 ==== 運輸政務次官・山村 ==== 運輸政務次官[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]]は、乗客救助の功により[[内閣総理大臣顕彰]]を受賞した。この件により一躍郷土の[[英雄]]となり、「男・山村新治郎」のキャッチフレーズで当選を重ね、後に[[農林水産大臣]]や[[運輸大臣]]も経験する。[[1992年]][[4月12日]]、自民党訪朝団長として北朝鮮への訪問を翌日に控える中、精神疾患を患っていた次女により刺殺された。 ==== 実行犯グループ ==== {{Main|よど号グループ}} 北朝鮮に渡った実行犯グループらは、メディアから「[[よど号グループ]]」と呼ばれている。到着当初は「世界革命を進める同志」として北朝鮮政府から手厚い歓迎を受けたが、当時の世界情勢から照らし合わせても荒唐無稽と思われる「北朝鮮の赤軍化」という目的は即座に否定され、[[主体思想]]による徹底的な[[洗脳]]教育を受けたといわれている。さまざまな証言から[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致事件]]への関与が確実視される者もいるが、現時点では詳細は不明な点が多い。現在、グループのメンバーは[[警察庁]]により[[国際指名手配]]されている。 その後、[[吉田金太郎]]・[[岡本武]]・[[田宮高麿]]の3人は北朝鮮国内で死亡したとされるが、不審な点も指摘されている。また[[柴田泰弘]]と[[田中義三]]の2人は日本に帰国した後に裁判で有罪判決を受け、服役。柴田は刑期満了による出所後の[[2011年]][[6月23日]]大阪市内のアパートで、田中は[[2007年]][[1月1日]]に服役中にそれぞれ死亡した。現在、北朝鮮にいるのは[[小西隆裕]]・[[魚本公博]]・[[若林盛亮]]・[[赤木志郎]]の4人。多くのメンバーは日本人妻と[[結婚]]しているが、日本人妻の北朝鮮入国や結婚の経緯は必ずしも明らかでない。柴田の妻は、自分を含めて日本人妻の多くは強制的に結婚させられたと主張している。 ==== 国内の赤軍派 ==== 実行犯グループには加わらなかったものの、ハイジャック計画を共謀したとして赤軍派幹部の京大[[塩見孝也]]と中大[[前田祐一]]と京大[[高原浩之]]と東大[[川島宏]]と明大[[上原敦男]]が事件後に起訴され、実刑判決を受けている。 ==== 機体 ==== ハイジャックされたよど号(製造番号19139/255)の所有者は[[日本国内航空]]で、日本航空に僚機1機とともにリースされていた。そのため同機につけられたボーイング社によるカスタマーコードは「89」であった。なお日本国内航空時代の愛称は「羽衣号」であったが、日本国内航空と東亜航空が合併したあとに発足した[[日本エアシステム|東亜国内航空]]への返却後は「たかちほ」の名で運航された。 この機体はドイツやアメリカなど世界各国へ転売が繰り返された後、2004年8月に[[コンゴ民主共和国]]にあるコーザ航空に売却され、[[キンシャサ]]の[[ヌジリ国際空港]]をベースにVIPフライト機として使用されていた(機体記号 [http://www.airliners.net/photo/Untitled-(Co-Za-Airways)/Boeing-727-89/0942168&tbl=photo_info&photo_nr=1&sok=WHERE__(reg_%3D_%279Q-CBF%27)_&sort=_order_by_photo_id_DESC_&prev_id=&next_id=0906292 9Q-CBF])。しかし2006年頃にコーザ航空が倒産して以降コンゴ国内の空港に放置されている。 なおアメリカでチャーター機として使用されていた頃(機体記号N511DB)、映画『[[エニイ・ギブン・サンデー]]』の中でチームが移動する際にチャーターした機体としてよど号が使用されている。 == 参考文献 == * 島田滋敏『「よど号事件」30年目の真実—対策本部事務局長の回想』草思社 ISBN 4794210981 2002年 * 田中義三『よど号、朝鮮・タイそして日本へ』 [[現代書館]] ISBN 4768468063 2001年 * 高沢皓司『宿命「よど号」亡命者たちの秘密工作』 [[新潮社]] ISBN 4104254010 1998年 * 高沢皓司『さらば「よど号」!』 批評社 ISBN 4826502109 1996年 * 八尾恵『謝罪します』文藝春秋 ISBN 416358790X 2002年 == 関連項目 == * [[よど号グループ]] * [[赤軍派|共産主義者同盟赤軍派]] * [[テロリズム]] * [[ハイジャック]] * [[日野原重明]] - よど号の乗客。 * [[濱尾文郎]] - よど号の乗客。 == 外部リンク == *[http://jikenshi.web.fc2.com/newpage72.htm よど号ハイジャック事件(事件史探求)] *[http://www.police.pref.fukuoka.jp/kitakyusyu/tobata-ps/jyoho/yodogo.html 福岡県警察 国際手配中のよど号グループ] {{DEFAULTSORT:よとこうはいしやつくしけん}} [[Category:日本航空のハイジャック事件|よとこうはいしやつくしけん]] [[Category:朝鮮民主主義人民共和国の事件]] [[Category:昭和時代戦後の事件]] [[Category:日本の新左翼の事件]] [[Category:1970年の日本の事件]] [[Category:共産同赤軍派]]