教皇
[[Image:Emblem of the Papacy.svg|thumb|200px|right|教皇紋章]] '''教皇'''('''きょうこう''' [[ラテン語]]:Papa、[[ギリシャ語]]:πάππας)は[[キリスト教]]の高位聖職者の称号で、一般的には[[カトリック教会]]の[[ローマ]][[大司教]]にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は「教皇位」(Papacy)、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また教皇の権威のことを「[[聖座]]」(Sancta Sedes)、あるいは「使徒座」ということがある。 ==概説== 初期のローマ司教たちは[[ペトロ]]の後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「[[イエス・キリスト]]の代理者」と任ずるようになっていった。「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのは[[495年]]で、ローマの司教会議において教皇[[ゲラシウス1世]]を指して用いられたものがもっとも初期の例である。これは五大首都大司教座(ローマ、[[アンティオキア]]、[[エルサレム]]、[[コンスタンティノープル]]、[[アレクサンドリア]])の中におけるローマ司教位の優位を示すものとして用いられた。 教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な立場だけでなく、ローマ市内にある世界最小の独立国家[[バチカン市国]]の首長という政治的な立場もある。[[1870年]]のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、[[教皇領]]と呼ばれていた。教皇領の成立の根拠とされた「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」が偽書であることは[[15世紀]]以降広く知られていたが、教皇領そのものはイタリア統一まで存続した。1870年以降、教皇庁とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやであったが[[1929年]]に結ばれた[[ラテラノ条約]]によってようやくイタリア政府との和解を見た。 現在、教皇位にあるのは[[2005年]][[4月19日]]に78歳で選出された[[ベネディクト16世]](ヨーゼフ・ラッツィンガー)である。彼は[[1978年]]に58歳で教皇に選ばれた[[ヨハネ・パウロ2世]]の後を受けて教皇に選ばれた。ベネディクト16世は[[1522年]]に選出された[[ハドリアヌス6世]]以来、ヨハネ・パウロ2世と二代続けて選出された非イタリア人教皇となった。ドイツ人ともオランダ人ともいえるハドリアヌス6世を除外すればドイツ人教皇の誕生は[[11世紀]]以来となる。 ==古代教会における「教皇」== 初代教会の時代から一貫してローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、[[ペトロ]]のローマ到着以降、数世紀をかけて徐々に発達していったということはカトリック教徒も含めて広く受け入れられている。古代のローマは[[ローマ帝国]]の首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所であった。しかしそのころのローマ司教の権威と影響力はローマの外へおよぶものではなかった。 [[ローマのクレメンス]]が[[96年]]ごろ、[[コリント]]の信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、[[アンティオキアのイグナティオス]]も[[105年]]ごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれている。この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考えるものと、単に名誉的なもので実際的な権威はなかったというものがいる。 2世紀([[189年]]ごろ)になって、[[リヨンのイグナティオス]]が『[[異端反駁]]』3:3:2でローマ教会の首位権について述べている。そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである。」この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものであるが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられる。特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとでその傾向は顕著となった。[[381年]]の[[第1コンスタンティノープル公会議]]において教皇が出席を見合わせたのもその地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからである。 半世紀後の[[440年]]に着座した[[レオ1世]]大教皇の時代になるとローマ教皇こそが、イエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継かれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになる。[[451年]]の[[カルケドン公会議]]ではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べた。当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていたが、この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出したが、ローマ側から事の判断をうやむやにしているという意見が出て受け入れられなかった。 カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのは[[マタイによる福音書]]の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。 <blockquote>「シモン・バル・ヨナ。お前は祝福されたものだ。このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。」</blockquote> この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。 ==選挙・死去・退位== ===選挙=== {{main|コンクラーヴェ}} 古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。[[1059年]]に選挙権が[[枢機卿]]に限定され、[[1179年]]に入ってすべての票の権利が同等とされた。教皇は一般的に枢機卿団から選出されるが、法的には教皇に選ばれるための条件としては(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかない。[[1378年]]に選ばれた教皇[[ウルバヌス6世]]は、教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇である。通常、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっている。現行の教会法では80歳以下の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こりえない。 [[1274年]]の[[第2リヨン公会議]]では、教皇選挙のシステムが規定された。それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。これは[[1268年]]の教皇[[クレメンス4世]]の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在([[使徒座空位]])が続いたことを受けて定められたものであった。16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。 伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがある。満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが[[1621年]]以降用いられたことはなく、[[ヨハネ・パウロ2世]]によって「代表たちによる方法」と共に正式に廃止とされた。結果的に枢機卿団による投票が教皇選挙の唯一の方法となっている。 [[1978年]]以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心として[[システィーナ礼拝堂]]から[[サン・ピエトロ大聖堂]]へ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。そして大聖堂につくと教皇は[[三重冠]]を受け、教皇としての最初の祝福(ウルビ・エト・オルビ)を与える。続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「近代主義に対抗する誓い」)とよばれた教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであったが、[[ヨハネ・パウロ1世]]、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世と三代の教皇の就任時には、この種の古めかしい儀式は行われなかった。 ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。特に[[トリエント・ミサ]]と呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。 ===死去=== 現在、教皇の不在時([[使徒座空位]])における対応を定めているのは[[1996年]]の[[ヨハネ・パウロ2世]]による教皇文書『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。それによれば教皇不在時には[[首席枢機卿]]を中心に枢機卿団が集団指導制によってバチカン市国とカトリック教会全体を指導する。しかし[[教会法]]では教皇不在時になんらかの重大な決定や変更を枢機卿団だけで行うことは禁止されている。教皇の承認を必要とする決定は新教皇の着座まで保留される。 教皇の死の確認に関しては、首席枢機卿が教皇の本名を三度呼び、銀のハンマーで額を三度たたくという方法によるとされていたが、あまりに時代錯誤であると批判の対象になっていた。しかし、この半世紀の間、実際にこの方法が用いられたことはない。仮にこの儀式が行われることがあっても、それは医師によって死が確認されたあとでのことである。この時点で首席枢機卿が教皇の右手から「漁師の指輪」をはずす。[[パウロ6世]]の場合は、晩年になって自ら指輪をはずしていたが、通常は教皇の死去時に指輪がはずされる。指輪には教皇の印章が彫られているため、悪用を防ぐために破壊されることになっている。 教皇の遺体はすぐ埋葬されず、数日間聖堂などに安置される。20世紀の教皇たちはみなサン・ピエトロ大聖堂に安置されてきた。教皇庁は埋葬後、九日間の喪に服すことになる。これをラテン語で「ノヴェム・ディアリス」という。 ===退位=== [[教会法]]332条第二項によれば、教皇が退位するために必要な条件はあくまで自発的な退位であることと、定められた手続きを守ることである。2002年6月と7月の二度にわたって教皇ヨハネ・パウロ2世が教会法にもとづいての退位を検討していたことがイタリアのメディアによって報道されたことがある。教皇の遺言でも2000年に80歳の誕生日を迎えたことを節目に真剣に退位を検討していたと報じられているが、定かではない。教皇は晩年、さまざまな病で苦しみ、職務を果たせないと考え、退位を検討していたものの、最終的に2005年4月2日の死までその職にとどまることとなった。 ==教皇称号の変遷== 「教皇年鑑」によれば現在、教皇に用いられる公式な称号には以下のようなものがある。 *ローマ司教 *キリストの代理人 *使徒のかしらの継承者 *全世界のカトリック教会の統治者 *イタリア半島の首座司教 *ローマ首都管区の大司教 *バチカン市国の首長 *神のしもべのしもべ [[ラテン語]]が公式言語である[[教会法]]の正文の中では、教皇は「ポンティフェクス・ロマヌス」(ローマ司教)という名であらわされる。「パパ」という呼び方は教皇に対する非公式な呼び方であり、公式な呼び方をすべてあげるなら「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、バチカン市国の首長、神のしもべのしもべ」となる。このような長大な正式名称でよばれる機会はほとんどない。 教皇の署名は通常「教皇名○○、PP、○代」という形で行われる。たとえば[[パウロ6世]]なら「Paulus PP. VI 」である。PPはパパ(Papa)の略であるとされ、ローマ時代の最高神官から引き継がれた名称である「ポンティフェクス・マクシムス」(最高司祭の意)の略称である「P.M.」あるいは「Pont.Max.」という称号が書き加えられる。[[回勅]]などの公式文書には正式に「教皇名、カトリック教会の司教(Episcopus Ecclesia Catholicae)」と署名される。 文頭にはよく「教皇名、司教にして神のしもべのしもべ(Episcopus Servus Servorum Dei)」という署名が書き込まれる。この形式は大教皇とよばれた[[グレゴリウス1世]]にまでさかのぼる古い呼び名である。そのほかの称号として「スンムス・ポンティフェクス」、「サンクティッシムス・パーテル」(至聖なる父)および「ベアティッシムス・パーテル」(もっとも祝福された父)、あるいは「サンクティッシムス・ドミヌス・ノステル」(われらがもっとも聖なる君主)などがあり、中世においては「ドミヌス・アポストリクス」(使徒的君主)もつかわれたが、現在でも少し形をかえてラテン語の荘厳な連祷の中で「ドミヌム・アポストリクム」と呼ばれている。 ==シンボルと徽章== 三重冠(Triregnum)はここ数代の教皇たちは用いていないが、古代以来ローマ教皇のシンボルとなっている。教皇は典礼儀式の中では司教のしるしである[[ミトラ]](司教帽)をかぶっている。十字架のついた杖も13世紀以前から用いられている。また[[パリウム]](幅二インチほどの布製の輪)がカズラの上に着用される。 金と銀の二つの鍵が交差する形で描かれる天国の鍵も教皇のシンボルとして用いられている。そのうちの銀の鍵は現世的な権威を、金の鍵は宗教的な権威を示している。漁師だったペトロにちなんで「漁師の指輪」と呼ばれる金の指輪も教皇によって用いられている。また、ウンブラクルム(unbracullum)として知られる教皇用の赤と金の線が入った傘の図柄も用いられることがある。 古代以来、長きにわたって教皇のシンボルとして用いられたものに教皇用輿(セディア・ゲスタトリア)がある。みこしのような土台に教皇の椅子が備え付けられ、12人の従者によって運ばれる。さらに二人の扇もちが付き添ってあおぐのが慣例であった。教皇用輿はあまりに前時代的であるということでヨハネ・パウロ1世も使用を嫌がったが、ヨハネ・パウロ2世によって正式に廃止された。ヨハネ・パウロ2世は移動用に教皇用オープンカー(パパ・モビル)を初めて用いた。 教皇はまた独自の紋章を持っている。それぞれ違うといっても基本的な構成はほぼ同じであり、交差して組まれた金と銀の鍵、三重冠、赤い組紐は必ず描かれている。バチカン市国の旗とされているのは黄色と白の旗であり、教皇の三重冠がそこにも描かれている。この旗がはじめて現れたのは[[1808年]]のことであり、それ以前、教皇庁は聖座の色である赤と金の旗を使っていた。 ==地位と権威== 教皇の司教座聖堂は[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]であり、公邸は[[バチカン宮殿]]である。また避暑用の別荘として(古代の都市[[アルバ・ロンガ]]の近く)[[カステル・ガンドルフォ]]に別荘を持っている。歴史上では、教皇は長きにわたって[[ラテラン宮殿]]を在所としており、避暑用の施設は[[クイリナーレ宮殿]]であった。クイリナーレ宮殿はその後、イタリア王の宮殿を経て、大統領公邸になっている。 教皇はカトリック教会の長としての権威(聖座として)と国際法上の権威(バチカン市国として)の両方を組み合わせた外交関係を保持している。数百年の長きにわたり、教皇の宮廷(ローマの聖座)はカトリック教会の枢要機関として機能してきた。「聖座」あるいは「使徒座」という言い方は教会用語でローマ司教(と教皇座全体)の特別な権威を示すものである。ローマ司教として国際社会とカトリック教会の中で認められてきた教皇の特別な権威・栄誉・特権はすべて使徒の頭ペトロの権威から引き継がれたものとみなされてきた。 ペトロの権威によってローマはカトリック教会の中で中心的な位置を占めることになった。ローマ教皇はあくまでローマ司教としてその権威を行使するが、ローマに住むことが必須というわけではない。ラテン語の定式「ウビ・パパ、ウビ・クリア」という言い方は教皇がカトリック教会の中心都市に住む限り、ローマ司教であり続けることができることを示している。たとえば[[1309年]]から[[1378年]]にかけて教皇座は[[アヴィニョン]]におかれていたが、これは[[古代イスラエル]]の故事になぞらえて「教会の[[バビロン捕囚]]」とよばれた。 現在の教皇の地位を規定しているのは[[第1バチカン公会議]]([[1870年]])で採択された教義憲章「キリストの教会」である。同憲章の第一章は「ペトロに由来する使徒的首位性」というタイトルで、「福音書からも、主キリストが使徒ペトロに他の人々に優越する権威を与えたことは明らかである」(第1節)と述べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒のかしらとされ、教会の目にみえるしるしとして立てられたということを認めず、そのイエスからの直接の権威が単に名誉的なものだけで実質的な意味を持たないというものは教会から排斥される。」としている。(「~は教会から排斥される」という表現はアナテマと呼ばれるもので古代以来、第1バチカン公会議にいたるまで用いられ、カトリック教会が教義について述べた文章に必ず添えられる定型文であった。) 第二章「聖座におけるペトロの権威の存続について」では、「主キリストがペトロに与えた権威は永続的なもので、『岩の上にたてられた』教会として存続し、『おわりの時』まで続くものである」と述べ、 「ペトロの座を引き継いだものは誰でもキリストに由来する権威を保持し、全教会に対する首位性を有する」とする。よって「この権威がキリストの意図によるものでなく、ペトロの権威は永遠のものであることを認めないもの、ローマの聖座がペトロの権威を継承していないというものは教会から排斥される」という。 第三章「ローマの聖座の有する首位権の力と性質」では、「[[フィレンツェ公会議]]においてローマの聖座、使徒座は世界の教会におよぶ首位性を持ち、ローマの聖座が使徒の長、キリストの代理であるペトロの権威を引き継ぎ、全教会の父・教師たる地位を持つ旨が宣言されている」とし、「この聖座の布告にもとづいて、ローマ教会は他の教会に対しても卓越した地位を保持する」としている。 教皇の力は同憲章の3章などに定められている。それは「信仰の最高の判定者であり、信仰の問題についての決定権を持つ。すなわち聖座としての決定的な布告は、誰も覆すことができない」というものである。これは同じ公会議で布告された教皇不可謬性の問題と密接な関連を持っている。 第2バチカン公会議以前のカトリック教会では「救いのためにはローマの聖座とのかかわりが必要である(教皇[[ボニファティウス8世]]の言葉)」と伝統的に教えており、この考え方はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会の外に救いなし)という言葉で表されてきた。パウロ6世も「教会の外にいるものは聖霊の恵みを受けられない。カトリック教会は現代に生きるキリストの体である。だからこそ、もしそこから離れてしまえば聖霊の恵みを得ることができないのである。」といっている。 しかし、この考え方はカトリック教会以外の人だけでなく、肝心のカトリック教会の中でも誤解されてきた。歴代の教皇たちは「カトリック教会の中にいる人々は救いにつながっている」といっている一方で「カトリック教会と縁のない人々が救われないというわけではない」ということをしばしば強調している。ピウス9世は回勅『クアント・コンフィカムル・モエロール』([[1868年]])でこう述べた、「わたしたちは、われわれの聖なる宗教とかかわりのない人であっても、神によって全ての人の心に書き込まれた自然法に従い、徳に満ちた人生を送るなら、神の力と照らしによって永遠の命に入ることができるということを知っている。」 ヨハネ・パウロ2世は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中で「現代のみならず、過去においても、福音や教会について知る機会がなかった多くの人々がいて、たとえ彼らがまったくキリスト教と関わることがなくても、神秘的な絆によって、キリストの救いを受けてきたことは明らかです。」といっている。 教皇のものとされ、実際に行使されてきた権能は以下のとおりである。司教の任命、教区の設立と廃止、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、典礼祭儀の変更、[[教会法]]の改定、[[列福]]と[[列聖]]、教会裁判の最高決定権、回勅の公布、(信仰と道徳に関する事柄についての)不可謬な宣言、[[修道会]]の承認と禁止。ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。 ==政治的役割== [[4世紀]]に[[ローマ帝国]]ではキリスト教徒の数が飛躍的に増加したが、[[司教]]が世俗において何らかの権力を獲得することはなかった。ローマ司教がその信徒に対する影響力によって帝国の行政システムの中で力を与えられるようになっていったのは[[5世紀]]以降のことである。教皇が政治的な存在感を初めて見せつけたのは[[452年]]にローマに侵入してきたアッティラをレオ1世が駆け引きのすえに撤退させることに成功したことによってであった。さらに[[754年]]には[[フランク王国]]の[[ピピン3世]](小ピピン)が領土の一部を教皇[[ステファヌス3世]]に寄進したこと(ピピンの寄進)は、教皇の政治的な影響力が無視できないものになっていたことを示している。この土地が後の[[教皇領]]の基礎となった。800年には教皇レオ3世がフランク王国の[[カール大帝]]にローマ皇帝としての王冠を授けている。ここからのちに神聖ローマ皇帝として知られることになる王位の系譜が始まる。これ以降、[[ナポレオン]]が自分自身で王冠をかぶるまで、教皇が王冠を授ける権威を持ち、世俗の王位はカトリック教会によって承認されるものであるという伝統がつくられていく。先にのべた教皇領が[[イタリア王国]]の成立する[[1870年]]まで存続した。 教皇領を保持することで、教皇は領土を持つ世俗の君主の一人というだけでなく、全キリスト教徒の長という聖俗にわたる強力な権威を持つことになった。淫蕩の限りをつくしたことで悪名高い[[アレクサンデル6世]]や、軍事的才能を備えて数度の戦役を闘った[[ユリウス2世]]などが政治的な権威を行使した教皇の代表格といえよう。また[[グレゴリウス改革]]で知られる[[グレゴリウス7世]]や[[アレクサンデル3世]]などは[[神聖ローマ帝国]]の影響下において教会改革を志した宗教的な権威者として後代に知られている。中世の教皇たちは回勅によって政治的な影響力を行使したが、世界史上で特に有名な回勅として[[ヘンリー2世]]の[[アイルランド]]侵攻の根拠となった『ラウダビリテル』([[1155年]])、世界を[[スペイン]]と[[ポルトガル]]で分割する[[トルデシリャス条約]]のもととなった『インテル・チェテラス』([[1493年]])、[[エリザベス1世]]を破門し、家臣の臣従の義務を解いた『レグナンス・エクセルシス』([[1570年]])、[[グレゴリオ暦]]を定めた『グラビッシマス』([[1582年]])などがある。 ==教皇位をめぐる議論== [[カトリック]]教会の中において「教皇の権威」は教義として宣言されたものである以上、その職務の権威を否定することは認められない。[[第1バチカン公会議]]では「カトリック教会において[[教皇首位権|教皇の首位権]]、裁治権を認めないものは分離される」というアナテマがはっきりと示された(ただ、教皇の地位の厳密な位置づけについて議論することは認められている。)。カトリック教会の外でははっきりとローマ教皇の権威については疑義が示されることがある。その種の疑義をおおまかにまとめると次のようになる。 # ローマ教皇を認めつつも、全世界の司教たちの中における首位権への疑問 # 教皇制度そのものへの疑問 [[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]は[[回勅]]『パーチェム・イン・テリス』において、[[アッシリア正教会]]、[[東方典礼カトリック教会]]、[[東方正教会]]、[[聖公会]]などの諸教会は「[[使徒継承|使徒からの継承]]」という概念を共通に持っているため、ローマ司教たる教皇の持つ栄誉ある地位を多かれ少なかれ認めていると述べている(ここでいう「栄誉ある地位」というのは決して首位権とイコールではない)。ただ、この箇所で言及されている諸教派は、[[東方典礼カトリック教会]]を除き、ローマ教皇が他の司教を超える[[ペトロ]]の権威を継承しているということを認めていないし、ペトロがローマに行ったということすら認めないものもある。教皇の首位権は、司教座としてのローマが[[ローマ帝国]]の首都であったことにも由来することは[[カルケドン公会議]]の教令第28条でも明示されているため、教皇が全教会に対し教導権を発揮することを認めないのである。また、彼らは第1バチカン公会議を[[公会議]]として認めておらず、結果的にそこで採択された教皇不可謬に関する宣言も無効である。 その他の教派のものにとっては「使徒座の継承」という考え方すら受け入れがたいものだ。このような人々から見れば、名誉的なものであれ、教会裁治権上のものであれ、聖書に書かれていない以上、ペトロの首位権というものはありえない。また教皇権が[[西ローマ帝国]]や[[東ローマ帝国]]などの世俗の権力と複雑にかかわってきたことや、統一[[イタリア王国]]成立時の[[教皇領]]接収のあと長く続いた政府との確執などが教皇権というものへの歴史的な疑問点となっている。 西欧においては教皇権のありかたに対する不満が[[宗教改革]]へいたるひとつの底流となった。カトリック教会から離れた教派においては教皇の地位についての見解はさまざまで、単に全教会に対する統治権を認めないものから、黙示録に現れる反キリストであると言う極端なものまである。ただ西欧の歴史において、教皇のような唯一の首位権や中心となるものの存在を認めない教派は内部分裂を起こして、細分化していくことになった{{要出典}}。 ほかにボルジア家出身の[[アレクサンデル6世]]や[[カリストゥス3世]]のような堕落した教皇の例をあげて、堕落した人間がこのような権威を持っていたことに疑問符をつけるものもある。そのような批判者によれば全智全能の神が、このような堕落した人間に聖なる権威を与えるはずがなく、「堕落した教皇」というものの存在することこそ教皇位が神の意思に由来するものでないことの証左であるという。これに対する反論としては、神が堕落した人間にすら大きな地位を与えることがあることの証明として、[[古代イスラエル]]の王たちや、使徒の一人でありながらイエスを裏切った[[イスカリオテのユダ]]をあげる意見もある。またどれほど堕落した教皇であっても教皇制度そのものが消滅しなかったことを教皇権が神に守られたものであることの証明であるというものもある。 ==称号の変遷とその他の「教皇」== 古代教会では「教皇(パパ)」というのは一般的な司教に対する敬称であったが、徐々にローマ司教に限定される称号になっていく。今日、公式に「教皇(パパ)」という称号で呼ばれるのはローマ教皇以外には[[コプト教会]]の首長であるアレクサンドリア総主教([[コプト教皇]])と東方正教会のアレクサンドリア総主教([[アレクサンドリア教皇]])だけである。 エウセビウス『教会史』によれば[[アレクサンドリア]]主教に3世紀ごろから「教皇」(パパ)の称号が用いられ、のち他の都市にも主教の称号として波及したが、ローマ司教とアレクサンドリア主教の双方にのみ用いられるようになった。これは当時の東方教会と西方教会のそれぞれ中心地であった。現在でも、[[東方正教会]]や[[コプト正教会]]ではこの習慣を守り、ローマ司教と自派の[[アレクサンドリア総主教]]の双方を教皇称号の保持者とみなしている。 <!--古儀式派、ロシア等スラブ系の東方正教会では、パパの語は、神品(聖職者)一般を意味する語としても用いられる。ただし、呼称としては用いず、呼びかけには「バチューシュカ」(お父さん、神父さんの意)と呼ぶ。この語は、カトリック教会の教皇を連想させるため、文脈によっては極めて侮蔑的な意味を含む。このため使用には注意が必要である。--> 一方、中世以降の[[カトリック教会]]において、教皇は「ローマ司教」にしか使用せず、「教皇」とたんに呼べばそれはローマ教皇を意味する。なおカトリックでは聖下はかつてローマ教皇のみの敬称であったが、[[第2バチカン公会議]]以降、上記のアレクサンドリア教皇を含む東方教会の高位聖職者にも用いている。 対立教皇とはカトリック教会の公式な認定と関係なく教皇位を宣言するものである。通常対立教皇が生まれる背景にはカトリック教会内の論争や特定の教皇の正統性をめぐって紛糾する事態が存在する。(教会大分裂) かつて正統な教皇以外に教皇を名乗る人物が現れるのは宗教だけでなく政治をもまきこむ大問題であったが、現代においては中世ほどたいした問題にはならない。 カトリック教会内で大きな影響力を持つイエズス会の総長はかつて「黒い教皇」と呼ばれることがあった。これは[[イエズス会]]員が質素な黒いスータンを着ていたことと教皇はつねに白い服を着ることに由来している。 聖座の一機関である福音宣教省の長官(枢機卿)は「赤い教皇」と呼ばれることがある。この職にあるものはアジアとアフリカ全域の教会の責任者であるため、教皇に匹敵するほどの地位だという意味であり、「赤」は枢機卿の色である。 ==日本語の「教皇」と「法王」== 日本においてローマ教皇の呼び方として「法王」と「教皇」が混用されている。日本のカトリック教会の中央団体である[[カトリック中央協議会]]では[[1981年]]のヨハネ・パウロ2世来日時にそれまで混用されてきた「法王」と「教皇」の呼び方を統一しようと、世俗的な君主を思わせる「王」の字が入る「法王」でなく、「教皇」という呼び方への統一を定め、一般に呼びかけた。このとき、東京の[[ローマ法王庁大使館]]においても「法王庁」から「教皇庁」への名称の変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外認められない」とされ、「ローマ法王庁大使館」の名称が残った。このため日本のカトリック教会が「法王」という呼び方を用いていない現在においても、マスメディアでは日本の外交界における名称である「ローマ法王庁」の呼称から「法王」という名称が用いられている。 ==そのほか== *教皇の公用車の一つメルセデス・ベンツGクラスを改造したものは「教皇車」(パパモビル)と呼ばれる。 *教皇名は自由に選ぶことはできるが、ペトロを選んだものはいない。ペトロを教皇名とすることを禁止する申し送りがあるといううわさもある。 *史上もっとも若く教皇になったもの:[[ヨハネス12世]](18歳) *史上もっとも短い教皇在位:[[ウルバヌス7世]]([[1590年]][[9月15日]]~[[9月27日]]、12日) *伝統的に教皇の[[検死]]は行われない。 ==関連項目== *[[ローマ教皇の一覧]] *[[ベネディクト16世_(ローマ教皇)|ベネディクト16世]] *[[コンクラーヴェ]] *[[公会議]] *[[教皇庁立大学]] *[[皇帝教皇主義]] *[[叙任権闘争]] *[[女教皇ヨハンナ]] == 外部リンク == *ベネディクト16世の就任ミサ(訳)http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message5.htm