長崎県立長崎中学校

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長崎県立長崎中学校(ながさきけんりつながさきちゅうがっこう)は、長崎英語伝習所などを前身として1878年長崎市新町に開校した旧制中学校男子校1948年に統合により廃止された。長崎県立長崎東高等学校および長崎県立長崎西高等学校の前身にあたる。

沿革

  • 1858年(安政5)、官邸の岩原屋敷(現在の長崎歴史文化博物館がある場所)に、長崎奉行支配組頭の永持亨次郎によって江戸幕府直轄の「英語伝習所」創立。
  • その後、「英語所」、「語学所」、「洋学所」と改称した。
  • 1865年(慶応元)、新町に校舎を新築し、「済美館」と改称。
  • 1868年(明治元)、明治政府直轄となり、「広運館」と改称。
  • 1872年(明治5)、学制が公布され、官立(国立)の「第六大学区第一番中学校」と改称。
  • その後、「第五大学区第一番中学校」、「広運学校」、「長崎外国語学校」、「長崎英語学校」と改称、移転。
  • 1878年(明治11)、願い出により長崎県へ移管され、長崎県立長崎中学校と改称。
  • 1882年(明治15)7月、欧化政策の影響により、邦学部を廃止し、再び長崎外国語学校と改称。
  • 1884年(明治17)4月、前年に長崎県が佐賀県と長崎県に分県された影響を受け、長崎外国語学校を分割し、長崎県中学校と改称。
  • その後、長崎県尋常中学校長崎県長崎中学校と改称。
  • 同年6月4日、長崎県立長崎中学校開校。
  • 1913年(大正2)7月、長崎市鳴滝に校舎を新築し、移転。設計は山田七五郎による。
  • 1917年(大正6)夏、第3回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場。
  • 1945年(昭和20)8月9日、長崎への原子爆弾投下により、34名が死亡。
  • 1947年(昭和22)4月、学制改革により、新制の併設中学校・鳴滝中学校を設置し、旧制中学の2・3年生を収容。旧制中学の募集を停止。
  • 1948年(昭和23)4月、長崎県立長崎高等学校新制高等学校、男子校)となる。通信教育部を設置。
  • 同年11月1日、GHQから派遣されたニブロ教育官の勧告を受けて、長崎高・長崎女子高瓊浦高市立女子高が統合され、長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校が設立された。