常陸丸 (1898)
常陸丸(ひたちまる、1898年 - 1904年)は、日本郵船が所有していた貨客船。1898年に日本国内で初めて建造された外航用大型船として三菱長崎造船所で竣工し、欧州定期航路に就航。日露戦争中の1904年に玄界灘でウラジオストク艦隊に襲撃され、沈没した。
建造
- 1896年の造船奨励法を受け、1898年に外航用の大型貨客船で日本で初めての国内発注として三菱長崎造船所で建造された[1][2][3][4]。
- 長崎から技師が英国へ研修に行き、英国からも造船技師が顧問として長崎に赴任した[3]。設計図をはじめ、造船用の鋼材やエンジンは、同型船を建造中の英国の造船所から取り寄せて、日本国内では組立てだけが行われた[1][3]。
- 日本郵船 (2004 76)によると、工事は順調に進み、多少の紆余曲折はあったが、英国ロイド協会の検査に無事合格した、といい、野間 (2008 80)によると、英国人監督の検査が通らず、引き渡しが9カ月ほど遅れた、という。
船主・船名
性能
航路
- 欧州定期航路に就航した[5]。
運転式
戦没
1904年6月[7]14日夜に宇品港を出航し、翌15日午前10時頃、馬関海峡を航行中に、ロシアの軍艦(ウラジオストク艦隊)に遭遇。常陸丸は停戦命令に応ぜず逃走するも、攻撃を受けて火災を起こし、すぐに沈没した。[8]
近衛歩兵第一連隊(隊長・須知中佐)の将兵963名を輸送中だったが、船長以下の乗組員104名、乗船中の将兵や荷役作業員合わせて1,000余名が海没[9][10]。生存者は、1隻の避難用ボートに乗った50余人のみだった[8]。
なお、このとき、後続の佐渡丸はロシア側の停戦命令に応じて停船。爆沈の予告を受け、40分後に水雷を受けたが、沈没は免れた。[8]
私が常陸丸の甲板に出て居りましたが、兎に角皆んなが逃出すから自分もどうしようかと考へて居ったところが、後から誰かゞ早く下りろと云って突落されてしまった。ロープを掴って下りればよかったが、靴のまゝ海中に落込んでしまった。
仕方ないからゲートルを靴先で切ってしまって褌一つになり、何の舟でもいゝから乗込みたいと思って居ると、船からボートを卸すと船底が割れてしまふので役に立たない。今度は真直に下りたのは途中で引懸って何うにも斯ふにも始末がつかない。其間に一本の櫂を見出したから、それにつかまって浮いてゐるうちに、浮袋が1個流れて来たからそれをつけて泳いでゐると、掴ってゐる櫂の先に頭の毛だけ浮いてゐるので、それを引寄せてみると背中に弁当をつけて死んでゐる。死んでゐる者だから仕方なしに其死人の手を放さしてしまった。
敵艦から水雷を発射したときに私は丁度敵艦と佐渡丸との中間に浮いて居ったので、私のすぐ前を水雷が通ったので思はず身体を沈めて、3口ばかり海水を飲んだことだけは覚へてゐる。浮袋を完全に付けて居ればよろしいが、たゞ掴って居ればいゝと云ふ程度にやって居ったから浮くことは浮いても甚だ不完全でした。
そのうち段々流されたものかどうしたものか、意識は失って居らなかったが、2発目の水雷は余程高く上ったので、それがためだんゞゝ遠ざかってしまった。
其うちに昼間なかった波浪が高く風が出る。夕方には雨も降り出してひどい暴風雨になった。波は2間以上も上下するので上るときは楽だったが下るときには何とも言へない気持がするから下りるときには瞑目してゐる。
而して15日の夜の12時過ぎか1時頃か時間はハッキリ覚へませんが、漸く波浪が静まって来たところが眼の前に1隻の船がみへる。それが約4間ばかりあるが60何名位乗込んでゐた。それでどうか乗せて呉れと頼んだところが、乗せられぬと云ふので仕方ないからこのまゝこうやって居れば死ななければならぬから、其の舟の傍までいって、褌を解いて身体を櫂を取るところに結びつけて相変らず浮いて居た。
– 座談会に参加した松山珵三の談話より [11]
当時の常識を超えた大規模な惨事だったため、日本国民に大きなショックを与え、歌にも唄われた[9]。
姉妹船
- 神奈川丸型
- 土佐丸よりやや大きい総トン数6,100トン前後・船客定員160名で、船型が4檣5船艙の6隻の同型貨客船。船名は旧国名ないし都市名に因む。[5]
- 讃岐丸 - 河内丸 - 常陸丸 - 神奈川丸 - 鎌倉丸 - 博多丸
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 野間 2008 80
- ↑ 日本郵船 2005 45
- ↑ 3.0 3.1 3.2 日本郵船 2004 76
- ↑ 松井 2006 33は、英国で建造された、としている。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 5.8 松井 2006 6
- ↑ 松井 2006 33
- ↑ 満洲昔話の会記事 1928 91頁に、「5月に東京で編成を了えて7月1日に軍用列車で出発」とあり、遭難事件は7月のことと解釈されるが、同書93頁に事件後「7月1日に再び部隊を編成して(…)」とあり、他書を参照すると出発は6月1日だったようである。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 満洲昔話の会記事 1928 90-93
- ↑ 9.0 9.1 野間 2008 134
- ↑ 日本郵船 2005 40
- ↑ 満洲昔話の会記事 1928 93-94
参考文献
- 野間 (2008) 野間恒『増補 豪華客船の文化史』NTT出版、2008年、ISBN 9784757141889
- 松井 (2006) 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年、ISBN 4303123307
- 日本郵船 (2005) 日本郵船歴史博物館(編)『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』日本郵船、2005年
- 日本郵船 (2004) 日本郵船株式会社広報グループ『航跡 日本郵船創業120周年記念』日本郵船、2004年。
- 満州昔話の会記事 (1928)「満州昔話の会記事(第1回)露治時代から佐渡丸遭難まで」『満蒙』v.9 n.12、満蒙社、1928年10月、NDLJP 3564684/50