酒井忠徳

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酒井忠徳
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時代江戸時代中期
生誕宝暦5年10月2日1755年11月5日
死没文化9年9月18日1812年10月22日
改名
別名
諡号
神号
戒名珪徳院殿義誉俊器要運大居士
霊名
墓所山形県鶴岡市家中新町・大督寺
官位従四位下、左衛門尉、侍従
従三位
幕府
主君
出羽国庄内藩6代藩主
氏族左衛門尉酒井家8代当主
父母父:酒井忠温
母:黒田継高の娘・為姫)
兄弟酒井忠徳酒井忠順
正室:徳川宗武の娘・修姫
酒井忠器水野忠実黒田直侯
市橋長富内藤政民小笠原長泰
娘(前田利之正室)
特記
事項
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酒井 忠徳(さかい ただあり)は、出羽庄内藩の第7代藩主。左衛門尉酒井家9代当主。6代藩主・酒井忠温の長男。母は黒田継高の娘・為姫。正室は徳川宗武の娘・修姫。官位は従四位下、左衛門尉、侍従。

宝暦5年(1755年)10月2日生まれ。明和3年(1766年)12月に従五位下に叙任する。明和4年(1767年)、父の死去により後を継ぐ。しかし藩財政窮乏により、江戸から本国に帰国するとき、その経費すら調達できず、涙したというエピソードが残っている。このため、藩財政再建を目指して豪商・本間光丘を登用して財政改革である「安永御地盤組立」を行なった。この改革は節約などを主としたものであり、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至ったのである。

安永2年(1773年)12月に従四位に叙任する。天明3年(1783年)の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。しかし寛政期頃から藩財政が悪化し始め、10万両の借金を築くに至った。このため、再度の藩政改革を行なって農村復興や文武の奨励に尽力し、文化2年(1805年)には藩校致道館を創設した。文化2年(1805年)9月25日、長男・忠器に家督を譲って隠居し、文化9年(1812年)9月18日に58歳で死去した。

没後、大正年間に従三位を追贈されている。

政治家としてだけではなく、和歌や刀剣鑑定などにも優れていたといわれている。

出典[編集]

関連項目[編集]

先代:
酒井忠温
酒井氏(庄内藩7代)藩主
1767年 - 1805年
次代:
酒井忠器